私は2019年12月に約13年間暮らした東京を離れ故郷の秋田へ戻ったが、それから約1年ぶりに関東の地を踏んだ。もちろん目的は探索(とトークイベント)。そんな久々の“関東遠征”における重要な探索地が、群馬県みなかみ町下津の小川島(おがわじま)にあった。
小川島地区は、みなかみ町南部の利根川右岸低地を占めている。
すぐ近くを国道17号が通じているが、私はいつも素通りするばかりだった。
実際、この地名で検索すると、「小川島歌舞伎舞台」というのが真っ先に出てくるような、農村芸能が今なお息づく長閑な土地だが、ここに戦時中の軍用道路の未成道があるかもしれないと知っては、もう素通りというわけにはいかなくなった。
私の中で小川島が急浮上したきっかけとなった情報は、読者のpop氏からお寄せいただいた。
彼がご祖母宅で読んだ『月夜野町史』(平成17年まで小川島一帯は月夜野町に属していた)に、小川島と沼田市上川田地区の間に、軍用道路の未成道があると推定しうる記述があると教えて下さったのだ。
急ぎ、同書を手配して確認したところ、「第5章 交通・通信」の「農免農道小川島沼田線」の項に、果たして次のような記述があった。
役場庁舎の西方、利根、赤谷の両川を挟んで指呼の間に位置する小川島部落は、名胡桃台地の裾に位置し、北は小袖の岩壁が、南は竜ヶ渕がそれぞれ、赤谷川、利根川に迫って人を寄せず、加えて古い時代から赤谷川の氾濫におののくなど、恵まれない生活を余儀なくされていたのである。(中略)
昭和12年5月関口橋が架けられて、この不便さから脱却することはできたが、今度は洪水の度に橋は流失、或いは破損し、橋との戦いが続けられていた。
昭和19年、上川田の孫目河原に、旧陸軍の地下工場が建設されることになり、軍用道路として関口橋以南が拡幅改良され、竜ヶ渕まで到達、その先はトンネルによって進められギョーニン渕ぎわまで掘り進んだところで敗戦となって工事は中止され、今はその形骸を残すのみとなっている。
うおーーー!!!
完璧すぎる未成道情報じゃないか!
町史に地図は掲載されておらず、文中に登場する名胡桃台地、小袖の岩壁、竜ヶ渕、ギョーニン渕などの地名の地図上へのプロットは、いずれも推測に拠った。しかし文章との符号から、大きく間違ってはいないと思う。
この町史が語るところをまとめると、小川島から沼田市上川田地区まで、利根川右岸に沿って軍用道路が計画され、昭和19年から工事が進められたばかりか、竜ヶ渕付近にはトンネルも建設されていた。しかし、終戦により工事は中止され、今もその形骸を残しているというのだ。
隧道ありの未成軍用道路とか、私の好みすぎるだろ!!
町史にこれ以外の記述は見つからなかったが、探しに行くきっかけとしては十分すぎる内容だった。
しかし、町史の発行年は昭和61(1986)年であるから、それから既に30年あまりが経過していることになる。
現在も引き続き、戦時中の遺構が“形骸を残している”かどうかということが、探索の最大の焦点となると思うが、これについても現地調査に期待を持たせる次のような事前机上調査の成果があった。
右図は、昭和23(1948)年に撮影された航空写真である。
終戦間もない時期の写真にならば、未成に終わった軍用道路の痕跡も写っているのではないかという期待を持って調べたのだが、
写ってる! めっちゃ写ってるよこれ!
後で現在の航空写真との比較も掲載するが、この写真の小川島付近に鮮明に見える直線的なラインこそが、探している未成軍用道路の跡ではないのか?!
この疑惑のラインは小川島を南下し、そのまま名胡桃台地が利根川へ落ち込む崖地に突入すると、そこにも鮮明なラインを引きながら、再び川べりに平地が現われる大平地区へ接近していくように見えていた。
もっとよく見せてくれ!!
左図は、名胡桃台地の利根川べりを拡大した画像だ。
川べりのラインには途中で途切れているように見える部分があり、そこに隧道が建設された(されようとしていた?)のではないかと思われた。
すなわち、この場所こそが町史のいう「竜ヶ渕」と推測された。
そして、このラインは最後、「竜ヶ渕」から400mほど南下した崖地で、唐突に途絶えているように見えた。
その場所こそが、町史のいう「ギョーニン渕」(行人渕)と推測されたのである。
このように、1枚の航空写真のおかげで、探索すべき場所が非常に明確になった。中でも、最も重要な遺構とみられる隧道を探すべき場所を、かなり狭い範囲に絞ることが出来た。
その後の航空写真上の変化も確認した。
右図は、昭和50(1975)年と令和元(2019)年の航空写真の比較である。
前者では、二つの矢印の位置に、昭和23年の航空写真と同じ直線のラインが、やや薄れている感じはするものの、しっかり見えている。
しかし、川べりの崖地に入ると、樹木が成長したせいだろうが、ラインはほとんど確認できなくなっている。
そして、「現在」を撮した後者の写真では、小川島集落内の軍用道路の跡地利用は、綺麗に二分されていることが分かる。
北側半分は舗装された道路として活用される一方、南側半分は完全に消滅してしまったように見える。おそらく耕地整理が行われたのだろう。
そしてもう一つ注目すべき大きな変化が起きており、ちょうど軍用道路の隧道が擬定される尾根の上に、国道17号の月夜野バイパスに架かる月夜野大橋が出現しているのである。
この大規模な道路開発の影響は懸念されるものの、橋より南側の河畔部については、戦後を通じて新たな開発を受け入れた気配がなく、未成道の形骸がいまも残っている可能性は大きいと期待された。
なお、事前調査は旧版地形図についても行った。
右図は昭和21(1946)年版の地形図である。
だが、未成道ということを裏付けるように、航空写真ではあれだけ鮮明に見えていた小川島の直線ラインも、道路としては全く反映されていなかった。
そして、その先の隧道擬定地や川べりの道も、描かれてはいなかった。
私は以上のような事前情報を元にして、現地探索へ赴いた。
予定した探索範囲は、小川島集落から未成道の終点までで、この道路が目的地としていた沼田市上川田地区の地下工場跡については、時間の都合などもあり探索の対象とはしなかった。
こちらについては探索されている方があり、「か〜み〜の地球が遊び場!!」などに優れた記事があるので参考にされたい。
今回、未成軍用道路の遺構の発見が十分に期待できるという、恵まれた状況だが、なんといっても最大の期待は、隧道の現存だった。
いざ、出撃!