2008/2/25 15:23
暗く狭く、そして浸水した横坑。
その、想定される総延長は約300m。
手元に着替えもない状況下、2月下旬の冷たい地下水に腰まで浸かって進むこと現在100m。
徐々に水位は下がりつつあって、いまは膝くらいである。
右は振り返って撮影。
唯一外光の差し込む坑口は土砂に埋もれているために、もうほとんど点にしか見えない。
どこまでも孤独だと思える空間。
私というオブローダーにとっての最高の興奮と恐怖は、いつだって隣り合わせ。
前進すると水面は激しく波立つ。
水面の幅が狭い為、私と水が一緒に動くような感じになる。
それで、私がある一定の速度で歩いていくと、波が足元でどんどん成長していく。
ある程度“育てた”ところで立ち止まると、それは津波のようにして、洞内の壁を舐めるように闇の中へ離れていく。
それを見るのが、少し楽しかった。
洞内の空気感のある動画を撮影している。
光量不足のためよく分からないかも知れないが、興味のある方はこちらからどうぞ。
<暗くて水浸しの洞内探索動画>
天井は低く、立って歩ける場所はほとんど無い。
大概は中腰姿勢で進むことになる。
入洞から既に10分を経過。この間150mほどしか進んでいないが、もう腰が痛い。
それと、脚が重い。
さらに、冷たくて痛い。
少しでも濡らすまいとたくし上げたズボンが虚しい。
ほとんど水が引いたところで、向かって左の壁に凹みが有ったような場所が現れた。
いまは、大量の土で埋め戻されている。
さらに横穴があったにしては低すぎるので、ただの施工上の揺らぎか、或いは崩落痕を埋めたのか。
よく分からない。
しかし、ともかく人為的な何かである。
陸が出てきた。
だが、余り歩きやすくはならなかった。
むしろ乾き始めた泥は重く、しかも滑りやすくて、余計に難儀するようになった。
もともとの洞床も平坦ではなかったようで、不規則に側溝らしい溝が右に左に平行している。
この凹凸が泥に隠されていて、何度か手を突いて転びそうになった。
水面を蹴ったときに首から下げていたデジカメが跳ねた泥で汚れてしまい、タオルで急いで拭ったがヒヤッとした。
特に何が現れると言うこともない。
ただ、相変わらず天井が狭く、中腰歩きに疲れた。
水から上がったたいまはもう寒さを感じることもなく、むしろ背中あたりに汗を掻いている。
吐いた息は白く、立ち止まっていると、その蒸気がゆっくりと隧道の奥へと流れていくのが分かる。
空気の微かな流れは、手前から、奥だ。
深く考えないように努力するのだが、こういう天井の低い洞内で私が必ず感じる、“ある”恐怖がある。
それは、直立することの出来ない事への、潜在的な嫌悪感だ。
私は閉所恐怖症ではないが、本能的に嫌なのだと思う。
ときおり、立ち上がれる高さのある場所では、立ち止まって背筋を伸ばすことを心がけた。
ん?
なぜか、柄杓が一つ、溝に落ちている。
気持ち悪くて手に取らなかったが、掬いの部分はプラスチック製か?
結構、新しい物かも知れない。
…しかし、なぜ?
子供の遊び場にしてはハードすぎるような…。
完全に水は引いた。
壁も天井も全て素堀のままだが、不思議と崩壊したような箇所はなく、安定している。
それだけ地盤が良いのだろう。
そして、行く手に劇的な変化が現れた。
15:31
煉瓦の巻立て…
狭い素堀の洞内に、さらに狭い煉瓦の隧道が現れたみたいだ。
再び中腰姿勢で、この煉瓦の通路へ入る。
坑口付近も煉瓦の巻立てがあったが、これは横坑の終わりを暗示する巻立てなのか。
あくまでも、洞内は静閑な闇に満たされている。
穴の先は、まだ見通せない。
この景色、1時間半前も見た気がする。
カタコンブ …ふたたび。
しかも、今度は本当に地中深いところにある実感が。
闇と水と泥によって地上から劃(かく)された、狭き煉瓦の洞道。
隧道という言葉は明治初頭に中国から輸入されたものだが、その中国語の本義は「地下にある墳墓の玄室へ通じる地下通路」というものらしい。
それを踏まえると、カタコンブみたいに見えるこの横坑の景色は、隧道の最も“隧道らしい”姿と言えなくもない。
いま、この穴を先陣切って前進する興奮に、恐怖など忘れて私は震えた!
煉瓦の通路は、約20mほど続いた。
だが、そこで終わりではなかった。
再び素堀に戻ると、これまでで最大の断面になった。
高さ2.5m、幅2mほどか。
そしてなぜか、向かって右側の壁に沿って、高さ60cmほどの石段が組まれている。
何のための構造なのだろう。見当が付かない。
ともかく、穴はまだ続いている。
写真は、振り返って撮影したもの。
煉瓦巻き部分の“坑口”である。
特に狭くなっていることが分かるだろう。
この坑口前には、崩落とも違う瓦礫が低く積まれている。
ここにも、微かな人為を感じる。
あ。
行き止まりだ。
終わってしまった。
三度、横坑は本線隧道に達すること無く、終了…。
木筋コンクリートの古びた壁が、汚らしく行く手を塞ぐ。 がっかり。
でも、実はこの結末… 知っていた…。
さっき、集落で老夫婦からこの横坑の存在を教わったとき、こうも言っていたんだ。
奥は塞いであるって。
だから、いままでみんなのために書かなかったけれど(涙)、私はずっとこの結末を見届けるそのためだけに入洞したし、腰まで水に浸かりもしたのだ。
途中、微かな空気の流れを感じたときには内心、奇跡を期待したのであるが、結果は変わらなかった。
この末端部にあっても、風の流れは変わらず有った。
それは、閉塞壁の左上隅に開いた、長径10cmほどの歪な隙間へと吸い込まれる風だった。
この穴の周りだけはとてもヒンヤリとしていて、吐いた息は真っ白くなって、そしてすぐに吸い込まれていった。
隙間にカメラやライトをねじ込んだりして、奥の様子を執拗に探ってみたが、直接別の空洞に繋がってはいないようである。
壁一枚で隔てられているわけではなく、瓦礫の層があるのだろう。きっと。
私は、この末端部に結構長居をした。10分以上いた。
ここには清涼な空気の流れもあるし、地面も濡れてはいるが泥ではない。そこそこ広いし、居心地が良かったりする。
もっとも、暗いところ、狭いところ、廃隧道がきらいな人には拷問だろうが、私には本当に良い場所だった。
細田氏も絶対に気に入るだろう。
ここで、私は今日一日の頑張りを振り返り、成果を反芻した。
きっと表情はにやけていたが、そんなことにも好都合なプライベートルームだった。
仕舞いには照明を全て消して、目が慣れてきても決して何も見えないという真闇を味わった。
ちなみに、全くの無音でもある。
こう書くと、「カッコつけ」や「強がり」だと思われるのかも知れないが、私は本当にこの“真闇体験”が好きで、自分が気に入った穴の中ではしばしばする。
しばらく静寂が続いたが、遂に時がキタ。
待っていたんだ。 静寂の終わりを、密かに。
待っていたものとは、この壁の向こうの状況を私に伝えてくれる、現役線を列車が通る音のことである。
そして動画の通り、JR東海道線電車はかなりの轟音と突風を纏うて、壁も向こう側を疾駆していった。
列車の姿も、漏れる灯りさえ見えなかったが、このダイレクトな音の感じだと、10mも離れていないに違いない。
やはりこの壁の向こうには、直接ではないにせよ、石部隧道本坑(下り線)が存在しているのだ。
普段、空気は穴へ向かってゆっくり吹き込んでいる、列車が隧道内に東側から進入し、ピストンよろしく本坑内の空気を押し始めると、穴からは“バフッ”という始まりの合図をもって突風が吹き出してくる。
列車が直近を通り過ぎるときに風は走行音を伴って最も激しく吹き出すが、通り過ぎると同時に風向きは即座に反転する。
掃除機の吸引口並の勢いで私の顔の周りの空気を引っ張っていくので、怖いくらいだった。
列車が通り抜ける度に、この穴は、そして横坑全体も、呼吸しているようだった。
結局、横坑は塞がれていたのだが、壁の向こうには現在線の本坑があるようだ。
地形図に描かれたトンネルの記号が現実を正しく反映しているとするならば、トンネルがカーブしている地点こそ新旧隧道の分岐地点であると考えらる。
また、横坑が予想通り300m程度であったことや、末端部で体験した音や風を踏まえると、おそらく新旧隧道の洞内接続地点に限りなく近く、それでいてギリギリ西寄りに横坑は繋がっていたのだと考えられる。
ちなみに、私が情報を得た老夫婦は、「太平洋戦争当時に横坑を避難所として使っていた」という、驚きの(でも納得しやすい)証言もされていた。
一般に語られている正史では、旧磯浜隧道は昭和19年に廃止され、それから同36年までのあいだ、国道150号(現・県道416号)を補佐する車道として利用されてきたという。
その横坑を防空壕的に利用したという証言も、正史と矛盾することはない。おそらく真実であろう。
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15:41
幻は、幻のままに終わった。
横坑が本坑から切断されたのは、おそらく昭和36年の石部隧道開通、本線利用再開前後のことだろう。
一足遅かったというレベルではなく、結局旧磯浜隧道内部探索は絵に描いた餅だった。
旧磯浜隧道の構造物に直接触れることが出来る、その唯一の場所という評価だけが、この横坑をずぶ濡れで攻略した私への、慰めである。
撤収を開始。
15:50
出口を目指して、直線の洞内をひたすら歩く。
後半はまた深い水溜まりを波と共に歩き、そして約9分後、坑口と一帯になった煉瓦巻きゾーンに。
端正な造りである。
行きには全然気がつかなかったが、この煉瓦巻きの部分も断面は一様でなく、最も出口に近い3mほどは、左の写真のようにさらに一段天井が低くなっていた。
補強の一貫であろうが、通常の隧道(本坑)では余り見られない構造である。
生
還
!
気付いたら、掌が煤で真っ黒になっていた。
集会所の近くの茂みに隠して置いてきたチャリを回収し、13kmほど離れた宇津之谷峠の道の駅のクルマを目指して、ラストラン。
左の写真は、この移動時に小浜集落内に点々と残された、濡れた足跡。
何も知らない住人が見たら、海河童(?)出没だと勘違いするかも知れない。
…そんなことはどうでも良いんだ! 俺の濡れた下半身は、体温と一緒に精魂をもどんどん奪っていった。自業自得。根性でクルマに戻りついたのは、午後5時10分。
私と大崩海岸の濃ゆい一日は、冷え切って終わった。
だが、心は充たされていた。
ちなみに、旧磯浜隧道の横坑が他にもあるかどうかだが、地形的におそらくこの一本だけであろう。
老夫婦にもその質問をしているが、「一箇所」だと明言していた。
これで私の実踏レポートは終わりだが、最後に、この執筆期間中に読者さんからお寄せいただいた、貴重な体験談を二編ほど紹介しよう。
一つは、昭和50年代に、前に写真を紹介させてもらった「焼津市民」氏同様、旧磯浜隧道の埋め戻される以前の洞内を探険したという、「謎の線路工夫」氏の体験談。
もう一つはさらに古く、昭和30年頃に実父が横坑から旧磯浜隧道へ抜けたという、「Ken138」氏の体験談だ。
今日では、もはや立ち入る術の完全に途絶えた、旧磯浜隧道。
その失われた過去を、感じて欲しい。
30年程前、旧磯浜T内部に進入し接続点まで探索した事があります。
上り線は坑口から100m程で土砂により閉塞されていました。
一方下り線は坑口からやはり100m程で土砂により断面の半分ほどが土盛されていましたが、進入は可能でそこから更に200mくらい進んだ奥に接続点がありました。
接続点はレンガの覆巻を取り去り、更に上方に押し広げたような空間で、右の壁からは現トンネルのコンクリート覆巻が、まるで突き刺さるように現れて現トンネルに突合わされていました。
尚、現トンネルと旧磯浜T側との間には通り抜けられるようないわゆる”こわし”の穴のような物はなく、両者は完全に断絶されていました。
ただ、新トンネルの覆巻上部から直径50mmほどの塩ビパイプがつきだしていて、ここから覗くと架線や枕木そして通過する列車の姿が見えました。
また列車が進入するとこの穴から空気が押し出され、通過をすると吸い込まれて行き、まるで呼吸をしているかのようでした。トンネル内が酸欠になっていないのはこの僅かな空気の流れのおかげだったのかもしれません。
いきなり濃すぎる体験談…。
右の図は、氏の証言を元に製作した模式図である。
上り線はすぐに塞がれ、下り線は奥まで通じていたというのは、旧石部隧道の現状にも似通っている。
そして、下り線隧道を最後まで行くと広くなった空洞に至り、そこで石部隧道の外構が進路を奪うように現れたというのだ。
かなり詳細に観察されている氏が横坑に気付かなかったとは考えにくいので、やはり横坑の接続位置は、石部隧道となった部分にあるのだろう。
オラが(中略)子供の時分に「航空母艦」という遊び場があった。
小浜集落の山あいに、子供が一人くらい入っていける横穴が開いており、其所を抜けると広い隧道に出た。
静岡側に向かうと、「航空母艦」と言われたコンクリート土台の広い遊び場に行け、昔は磯釣りをやっている人も居た。
焼津側に向かうと、壁で完全にふさがれており、壁面に原子力マークの様な、或いは髑髏の様な不気味な模様が書かれていて通り抜けは出来なかった。
先次大戦の終戦から10年余り。当時は東海道本線の旧線跡という事は知らなかったので、子供心に、旧日本軍の軍事施設ではないのかと不気味に感じた事ははっきり覚えている…。
その後、旧150号線に大規模な崩落があった際に、一時的にその壁の一部が撤去され、人や車の往来が出来る様になった事はある。
今ではその穴があるかどうかは…分からないな。
髑髏か原子力の模様…。
なんと鮮烈な体験談だろう。鮮やかすぎて涙が出る!
そして、氏の証言は、興味深い謎を包含している。
正史では、昭和19年から36年までのあいだの旧東海道線の路盤は、人や車が通る道路になっていたとされている。
“髑髏”の壁の存在は、車道と矛盾するもののように思われるが、図の通り隧道は単線並列であったのだから、下り線隧道は(どういうわけか)閉鎖されていて(本当に軍関係施設であったのかも知れない)、上り線隧道が車道であったと見ることも出来る。
(国道が崩落したときに壁が撤去されたことがあるかどうかは、いまでは確認が難しいと思われるが…)
この謎多き「道路利用」については、「謎の保線工夫」氏がもう一編、「父の証言」として面白い情報を寄せてくださった。
この区間が自動車道として供用されていた時には、上り線のみを使用し交互通行としていたようです。
両坑口にそれぞれ番人が立ち、集団の最後尾の車に赤い旗を持たせて交通整理を行う、鉄道初期の閉塞方式であるいわゆる「フラッグブロック方式」を使用していました。
ただ夜間や悪天候じは番人が居なくなり、双方から進入した車が睨み合いになり、脱出に数時間かかることもあったようです。
旧石部隧道については、昭和23年のアイオン台風による被害で、下り線隧道が利用不可能となった事が知られている。
だが、両氏のもたらした情報を組み合わせれば、旧磯浜隧道についても下り線隧道を使うことが出来ない物理的事由があったことになる。
「上り線のみを使用し交互通行」となっていたのは、両方の隧道だったのではないか。
─悔しいかな。
平成の世において、これら地中の遺構は永遠に闇の向こう。