大崩と言えば… 例の場所である。
…廃線ファンには古くからとてもよく知られた、 あの象徴的な…。
入口は、県道416号(旧国道)の石部(せきべ)隧道から50mほど焼津側に戻った地点にあった。
これから向かう場所は、私の感覚としてだが、廃線の中で日本屈指の有名物件である。
ここ最近の鉄道廃線ブームを考えれば、既に現地は観光地化しているのではないかという懸念を持っていた。
だが幸いにして、廃モノ相手に関係行政も足並みを揃え難かったのか、入口にそれと分かる看板一つ出されてはいなかった。
ただ、この物件との関連性は断定できないものの、なぜか入口の真っ正面に私設の時間極駐車場(1時間100円)が存在する。(当には人家など無い)
付近の駐車スペースとしては、石部隧道の静岡側に10台ほど入る路側駐車スペースがあるが、廃線跡に最も近いのはこの時間極駐車場と言うことになるだろう。 …やはり、相当に訪問者は多いのかも知れない。
今回、探索前に私が事前資料としたのは、廃線ファンにはお馴染みの『鉄道廃線跡を歩く』(第8巻)と、読者から寄せられたメールでの情報提供(調査依頼)のみであった。
出来るだけ初見の感動を失わないため、敢えて多くのビジュアルデータに触れることはしなかったのだが、目的意識ははっきりさせてきたつもりだ。
ただこの物件を見て終わりというのでは、いくら有名物件だからと言って読者も納得しないだろうし、何より私自身燃え切れない。
少ない事前資料から定めた今回の目的とは、ずばり旧石部隧道の内部探索である。
読者提供情報によれば、この隧道には“住人”がいて、…どうも難しいらしい。
…それが、訪問者が勝手に遠慮して立ち入らないのか、或いは物理的に阻止されるのかは分からないが…、とにかくいままで内部の様子を公開したレポートが無いと、そう言うのである。
“本”も当然のように内部について触れてはいなかったので、私にとって「石部隧道内部探索」は非常に捜索意欲を掻き立てられるファクターであった。
なんだか海に向かって急坂を下っていくシチュエーションは、廃線跡を目指しているという感覚を忘れさせる。
こんな所にモノはあるのかと思わず不安になるが、“本“が「最近訪れる人が多いせいか、通行には全く問題がない」と7年近く前に書いた道は健在であった。
結構な急坂なのだが、わざわざ手繰り用のロープが用意されている親切さは、同朋を想う廃線ファンのしわざなのか、或いは“住人”による道普請なのか…?
さて、下りはあっという間だ。
国道から見下ろしたとき煉瓦の塊がゴロゴロしていた海岸線が、目の前に近づいてきた。
ドキドキする。
いきなり、気難しい住人に怒鳴られたりしないとも限らないという、そんな嫌なドキドキだ。
2008/2/25 12:12
おわっ!
構える暇もなく、突然視界の左手に二つの黒アーチが。
もうちょっと間を保たせるのかと思いきや、有り難みに乏しい出てきかただ。
まあ…いい。
住人とやらは、何人いるのだ?
おそらく一人なのだろうが、穴は二つあるぞ。どっちが本拠か?
どっちから探索したらいいのか。
そもそも、今も人が住んでいるのかどうか。それも分からない。
正直、内部探索を成功させなければならないというプレッシャー(それはマイナスの意味ばかりでなく、探索のし甲斐でもある)によって、のんびり“奇観”を眺める心境にはなかった。
とりあえず、外から眺めるのはいつでも出来る事。
住人に気付かれないうちに両方の内部を探索できれば、私にとって …おそらく相手にとっても… ベストである。
…住んでいるのか? これで??
もう、出て行ったのじゃないだろうか…。
坑口までもう2mまで近づいたが、いまだ人の気配は全然無いし、中途半端に崩壊し流れた土で汚れた坑口には、その明るい雰囲気とは裏腹に禍々しささえ漂っている。
あとで詳しく書くが(知っている人も多かろうが)、これは明治期に作られた鉄道の廃線跡で、廃止からかれこれ64年も経過している。
他の明治鉄道隧道と同様、煉瓦と石材のみで意匠された重厚かつ静的イメージを持つ坑門であったに違いないのだが、この石部隧道は日に日に崩壊している状況のようだ。
“本”の写真よりも大幅に崩壊が進んでいることは、パッと見て気がついた。
この状況下で住まい続けるというのは、信じられない気がするが…。
だが、確かに人が住んでいた(る?)のは間違いないようだ。
生活の痕跡が隧道の外にまでいろいろと及んでいる。
だが、ここまで来て気配を感じないというのは、少なくともこの山側にある坑口についてはいま不在?
これはチャンスかも。
余程奥のことは分からないけれど、灯りもつけず闇の中で息を殺している…ようなことは想像したくない。
写真を見て欲しい。
この山側の坑門は、明治21年に初めて掘られた(開業は22年)石部隧道であり、海側のそれよりも古い。
明治44年に複線となってからは上り線として使われた経緯がある。そして、両方とも昭和19年に廃線となった。
現在坑門は壁柱の一本と、それより山側の翼壁を残すのみとなっている。
酷い崩壊の様相だが、これでも不思議と坑口が埋もれていない訳は…
このように、路盤よりも低い位置にある渚に崩壊したパーツが勝手に転がっていくからだ。
もしこのような環境でなければ、とっくに坑門は埋もれて閉塞していたか、そもそも今以て無傷であったかも知れない。
ともかく、この波打ち際に隧道のある程度原形を残したパーツが散乱している光景。
これこそ、この石部隧道をして全国区の廃線とさせたものである。
廃線ブームの先駆けとなった名著『鉄道廃線跡を歩く』の第一巻、その巻頭グラビアに見開き2ページを使った丸田祥三氏の坑口写
真が掲載されたのは、いまから13年も前のことである。
その写真は、廃線というものの“超常的”光景を読者に強く印象づけたのではなかったか。
それが、次の写真である。
(なんと今回、丸田祥三氏より直接この“伝説の画像”掲載の許可を戴くことが出来た! 刮目して見よ! ↓↓↓)
写真家丸田祥三氏とは、2011年に『廃道 棄てられし道』を合作出版させていただきました。
また、上記画像は丸田氏が2012年に刊行された『眠る鉄道 SLEEPING BEAUTY
』にも掲載されています。同書は他にも多数の廃線風景が収められており、当サイトの読者さんにはオススメの写真集となっています!
「キターーーー!!!」 などとは口が裂けても言わなそうなライターが、八巻の本文中に「数ある廃線跡の中でも、そのインパクトの強烈さは最大級だ」と書き、またその光景を「駿河湾を望む海岸に展開する異次元のようなトンネルの廃墟」と表現している。
拙作にあってはこれ以上適した表現を思いつかないが、アングラに道を探す私に出来ることは、“異次元の中身”をこの手で解き明か すことであり… 前出のグラビアに掲載された丸田氏の文章にあるごく短い挿話…
「この辺りに来ると、いまでもときおり列車の音が聞こえてきます。新しいトンネルと地下の何処かでつながっているんですかね…」
地元のお爺さんが不思議なエピソードを聞かせてくれた。
…これを確かめるくらいしかない。
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12:14
よし!
やはり人影はない!!
ここ数年のうちでまた大幅に隧道の崩壊が進んだということもあって、住人も危険を感じて立ち去ったのではないだろうか。
私は、懐から取り出したSF501を点灯させると、早速内部探索へと移った。
坑口に、風はない。
また、黴くさいとか土臭いとか、そういう臭いもない。
様々な生活物資が散乱しているが、この趣味をしていれば見慣れた光景とも言える。
事故的な遭遇に対する恐怖心は無視できない心中の痼(しこ)りとしてあったが、いまはそれよりも、残された謎として君臨してきた石部隧道が私の手で暴かれようとしている事実に、強い興奮を覚えた。
写真に写る天井を見て欲しい。
泥を多く含んだ地下水が、天端の右寄りから花火のナイアガラのように揃って流れ出た痕がある。
隧道全体が、海側に引っ張られるような変圧を受け、いままさに破壊されつつあるのだと考えられる。
明治21年貫通と、私がこれまでに探索した鉄道用の隧道としては最古の部類に入る旧石部隧道。
その全長は、読者からの情報によると910mだったという。
明治前期の隧道としては、これまた最たる部類に入る長さである。
住人が残した様々なモノを踏まないように注意しながら進んでいくと、間もなく右側の壁に待避坑が現れる。
緻密に組み合わされた煉瓦は、築120年を経過してなお目立った綻びもない。
煉瓦という材料は、隧道のように周囲からの地圧とか圧縮力のみ働くような環境では、すこぶる都合がよい。
コンクリートのように地下水で腐食することも少ないし、表面が剥離して見栄えが悪くなることもあまりない。
経験上、煉瓦を丁寧に使った明治の隧道は、遙かに後代に作られたコンクリートのトンネルよりもよく残存しているものだ。
もっとも、先ほど目の当たりにした坑口のように、引っ張りだとか或いは捻るようなチカラが加わると恐ろしく脆いのだが。
奇麗な感じの新聞紙がパラッと落ちていたので、何気なく日付に目を通してみる。
平成20年2月8日
…ど、 どうやら住人は…
まだ決して遠くには行ってない感じがするのである。
というか、もしかして今だって、たまたま留守なだけかも知れない。
むしろ、そう考えた方が自然な感じもするような。
出会ったら…、なんて言い訳しようかな……。
怒られても仕方ないけど、帰れと言われるのだけは勘弁して欲しいのである。
ありゃ?
洞床の生活物資は進むにつれ減り始めたのだが、直後、地面がモリモリモリと…。
まさか、これは……。
12:16
あわわわ わわ…
やばいーー。
もう終わりかー??
終わりでした。
いつからこうなのかは分からないが、坑口からわずか50m足らずで、隧道は完全に埋められていた。
天井などに崩壊の痕跡はなく、単純に土砂を運び込んで埋めたようである。
また、風なども全く感じられず、希望もない。
あーあ……。
僅かに右にカーブしながら外へ続く隧道。
これが、まだ見ぬ人影に怯えながら辿り尽くした延長の全てであった。
あっけなさ過ぎる幕切れ。
隣にもう一本複線の隧道があるわけだが、おそらく状況が大きく異なることはない気がする。
もちろん、入ってみないと分からないけれど…。
とりあえず、一旦外へ撤収します。
で、改めて隣の…海側の… かつて下り線として増設された方の坑口を見るが…。
…これ、どうやって入るの?
最初は脇目で見てたかをくくっていたが、いざ近づいてみると、とりつくしまもないぞこれ。
本に載っていた写真だと、ここまで崩れが進んでいなかったので、いくらか坑口前にも足場が残っていた。
その証拠に、こちらの隧道内部にも人の住んでいたような痕跡がある。
むしろ、先ほどの上り線の隧道よりも物資の量は多い感じがする。山積みである。
だが、こちらはもう絶対に誰もいないと思う。
だって、入れないもの。 なかなかどうして。
さてさて。
こんな程度の成果で離れるわけにも行かないのだが…。
どうやってこの穴に入ってやろうか……?
前話までは国道の旧道をずっと走ってきたのに、唐突に海岸へ下ったと思えば、そこにポカンと現れた鉄道隧道のレポを始めたわけで、全く事前情報無く読んでいた読者さまには混乱した人もいるかも知れない。 この奇妙な海岸線の複線隧道について、ここで簡単に解説しておこうと思う。 凄まじい坑門の景観ばかりがクローズアップされがちだが、もちろん廃線なのだから、“点”ではなくて“線”の一部なのである。 | |
ここで相当に奇妙な路線付け替えが行われた事が、地図からお分かり頂けただろうか。
年代を追って簡単に説明する。
まず明治22年、東海道本線の静岡〜浜松間が延伸開業となる。このときに、先ほど内部を探索した旧石部隧道(910m)と、ここから約400m離れた地点に旧磯浜隧道(970m)が開通した。
次に明治44年、この2本の隧道は中間の明かり区間を含めて複線化された。この時は海側に増線され、旧石部、旧磯浜の両隧道は、単線並列断面と言われる、単線の隧道が2本横並びになった形の隧道となった。
このあとからややこしくなってくるのだが、昭和18年に複線断面の日本坂トンネルが竣工し、翌19年に東海道本線が新トンネルに移設される。
実はこの新トンネル、本当は東海道本線のために作られたわけではなく、昭和16年に政府決定された「弾丸列車計画」のための施設だった。しかし、弾丸列車計画は未成のまま昭和20年の終戦と共に露と消え、東海道本線は快適な新トンネルを正式に手に入れたのだった。 またこの移設劇によって休遊施設となった旧線が、道路敷きに転用されたのである。
先ほど潜ったあの隧道、昭和19年からしばらくは車道だったのである。
ネット上には、この旧線跡の道路をボンネットバスが走っている写真もあるので、興味のある方は探していただきたい。
右の地図をご覧頂きたい。
これは昭和28年の地形図で、日本坂トンネルを東海道本線が利用していた当時のものだ。
赤い○で囲った部分に、鉄道としては不自然なS字カーブが描かれている。
また、そこから南西方向に向けて堤の記号が延びている。弾丸鉄道計画の遺構だったと考えられる。
さらに、同図には旧線路を利用した道路が描かれていることにも注目。
国道や県道のような目立つ描かれ方ではないが、確かに道路として使われていたことが窺えるのである。
狭くて長い隧道が2本もある道はきっと不気味だっただろうが、連続カーブと激しいアップダウンを強いられた国道に較べれば、利用者には歓迎された存在だったかもしれない。
昭和23年にアイオン台風が来襲し、旧石部隧道(下り線=海側)の焼津側坑門が倒壊した記録がある。それでも、引き続き片側の隧道を使って車が通行できたとする資料もある。
それはともかくとして、なんと、この海側の隧道は半世紀以上前から崩れ続けて来たことになる。
昭和34年、東海道新幹線が着工する。
これは、戦前の弾丸列車計画を引き継いだものであり、日本坂トンネルも東海道新幹線に転用されることが決定する。
道を失うことになる東海道本線用には、車道化していた旧線路を再利用して新たな線路を作ることとなったのである。
右の地図は、昭和43年の版である。
昭和39年に計画通り東海道新幹線は開業し、日本坂トンネルがその径路に組み込まれていることが分かる。
そして東海道本線は、それより2年前に石部隧道という、奇妙なカーブを描く一本のトンネルで結ばれた。
この時の東海道本線の改良工事は、旧線の2本の隧道の途中から新たな隧道を掘って、全体で一本の隧道にするという、他例のない非常に珍しいものであった。
そうして生まれたのが、全長2205m(上り線)2185m(下り線)という、現在の石部隧道なのである。
なお、大崩海岸は明治時代からこの名でよく知られた名所であったようだが、国道と鉄道の多くある隧道や橋に、その名前が一切利用されなかったことは面白い。
やはり、自分たちが作ったものに対して「おおくずれ」とは付けたくないのが人情かも知れない。
上記のような経緯による二度の路線付け替えによって、その唯一取りのこされた区間は、
“隧道から出てきて隧道へ消えていく”という、珍奇な廃線跡となった。
次回。 海側の石部隧道に、何とかして侵入したい!!
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