2008/2/25 12:37
駿河湾に無惨な姿を晒す、旧石部隧道のダブル坑口。
私のように、この東海道本線に特に思い入れのない人間でさえ、見つめていると辛くなってくる。
そして、崩れ落ちた坑口のパーツは、当然どこへ行くこともなく足元に散乱している。
その量は、辺り一帯の本来の地面を半ば隠してしまうほどに多い。
しかも、パーツの大半は巨大な形のままに残っており、煉瓦や石材による破壊芸術のミュージアムと化しているのだ。
これから、その様子をご覧頂こう。
この足元も本来は坑口と同じ高さの路盤であったはずだが、すっかり砂浜の延長線上だ。
この日の汀線からは20mほど離れているものの、東海地方といえば巨大台風や高潮が多い地域である。
おそらく坑口付近まで波濤が押し寄せることも年に数回では利かないのだろう。
この趣味をしていると、普段から煉瓦の隧道を目にする機会は多いが、その“内側”や“裏側”は滅多に見るものではない。
それがここでは、好きなだけ観察することが出来る。
じっくり時間をかければ、明治の鉄道工作物…それは日本の土木技術の最先端を行っていた…の構造について、図面以上の様々な気づきがあるように思う。
そういう意味では、完成され完結した構造物以上に、“おもしろい”のかも知れない。もっとも私程度の知識では、「まーすごい」で終わりだが…。
写真は、煉瓦の壁の裏込め(隙間を埋めるもの)として使われていたらしい煉瓦の姿だ。
明治の威厳を体現したような丁寧な外見からは外見からは決して窺い知れない、施工上の“遊び”の部分である。
大量に散乱している煉瓦の中に、ある一種類の刻印が多く含まれていることに気付いた。
それは、この写真にも写っている、“T”を○で囲んだものである。
再び『春や昔のカメラ旅』の記事を借りれば、これは「東京煉瓦株式会社」という東京の会社が製造したものであるらしい。同社の創業は明治31年とのことであるから、この刻印が見られる構造物は、下り線の遺構に限られるはずである。
上り線の煉瓦については、確かにこの刻印は見なかったように思う。(が、サンプルは少ない)
うう〜〜ん。nagajis氏が喜びそうな現場だ。
辺りには、浅濃とりまぜた煉瓦片が膨大に散乱しているのである。
殆ど全くと言っていいほど原形を留めない坑口前の複線路盤。
当初の位置に残っている僅かな構造物が、左の写真の石積橋台(写真は断面)と、右の写真の小さな煉瓦製暗渠である。
両方とも本来は複線分の幅があったようだが、山側の上り線に該当する半分だけ辛うじて形を残しているのだ。
遺構と呼べるものが散乱しすぎて興味が分散するために、一つ一つをじっくり観察し難い。
立地を考えれば一年後には消滅していてもおかしくはないので、これは一期一会ではあるはずなのだが、この散乱ぶりは集中力を損なわせた。
そして…
旧石部隧道を最も象徴する眺めといっていいだろう。
波打ち際に転倒した下り線坑門の右半分だ。
この坑口は昭和23年にアイオン台風が破壊したと伝えられているのだが、それでも現状のように瓦解して砂浜に転倒してしまったのは最近と考えられる。
アーチ部の印象的な迫石の処理(「盾状」という)など細部も鮮明で、亀裂などの断面部分も侵食を殆ど受けていない。
しかし、地盤の不安定な砂浜に転倒してしまったとなれば、遠くない将来、波によって周囲が深く掘られ、遺構が海中に没してしまうことも想像されるのだ。
同じ構造物を別のアングルから撮影。
重厚な石造坑門の足の裏である。
こうやって見ると、ただ地面に乗っていただけなのが分かる。
これでは、地面が浸蝕されれば自然と転がるわけである。
東海道本線の性格を考えれば、当初から百年二百年と保つように建設したと想像するが、やはり当時の技術の想定を越える過酷な自然環境だったということだろう。
いたずら心から、“あれ”の隙間に入ってみた。
近づいてみると、ますますその大きさに驚くのである。
隙間の両側に足を引っかけ、ゴキブリのような動きで上まで登ってみた。
そして辿り着いたのは、赤子のほっぺのように無垢な“明治”の内壁であった。
不思議と煤煙の汚れは見られず、非常に奇麗な姿のまま、駿河湾や石部海上橋の偉容を見晴らす絶好の展望台となっていた。
日本広しといえども、隧道の内壁に立って海を見晴らす場所はないだろう。
青と赤のコントラストが、本当に鮮やかだった。
そこから降りて、東京方向に海岸線を少し歩いてみた。
写真は、下り線坑口の裏側を振り返って撮影したもの。
坑口の石壁と防波堤とが、全く一体化していることが分かる。
南米あたりのピラミッドでこんな姿のものがあったような気がするが、思い出せない。
なお、坑口や隧道自体はもはや“住人”もいない正真正銘の無用物であるが、この石壁はその上部斜面に旧国道を支える重要な構造物である。
石壁は坑口から10mほどで、新しいコンクリートの格子状壁にバトンタッチしている。
その上には、旧国道(県道416号)の石部6号洞門が、覗く者もない小さな窓を海に向けているのが見える。
沢山の格子模様の内ひとつに、横坑が口を開けている。
気付いただろうか?
旧石部隧道が現役だった当時には、列車が来る度にあの穴から煙がもくもくと立ち上がったのだろう。
10mほど奥に入れば、風の抜ける本坑があるのだから。
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永く私を留めた旧石部隧道。だが、この写真でお別れだ。
手前のキツネ色をした石垣は、ここに架かっていた橋の名古屋側橋台だったのかも知れない。
そして、向こうの松の木の袂に残っている同じ材質の橋台が、その東京側か。
とにかく、あらゆる構造物が波にかき混ぜられ、ごった煮になりつつあるのが現状だ。
次に私は、旧石部隧道と極めて似た歴史を辿ったもう一本の明治隧道である旧磯浜隧道へ向かうことにした。
彼我の距離は約400m。
この間は旧線で唯一の明かり区間であって、東海道本線のなかでももっとも海岸に近いところを走る区間の一つだった。
これは、陸地測量部時代の5万分の1地形図(「静岡」大正4年)で見た旧東海道本線だ。
この当時、大崩海岸を通るのは東海道本線の外は砂浜に点線で描かれている「静浜街道」だけであったから、図が非常にスッキリとしている。
旧石部隧道と旧磯浜隧道の間の海岸沿いの線路が、ほぼ真っ直ぐな線として描かれている。当時既に複線であったから、記号もそれに準じている。
この明かり区間の線路は、浸食と波浪から列車を守るため、法面と路肩の両側が高い石壁になっていた。
鉄道が廃止された昭和19年の後も車道化されて多くの車が通行したし、昭和37年に完全に廃止された後でもなお、よく知られた磯釣り場となっていたそうだ。その頃には浸食も相当進み、路盤が波に直接面していたのだろう。
当地に最も近い小浜集落の人たちは、この石壁に守られた旧線路敷きを、“航空母艦”と呼び習わしていたそうだ。
そして、築から120年あまりを経た現在、この路盤は全くといっていいほど原形を留めていない。
ご覧の通り、大量の残骸が四散して、方々で波に洗われている状況だ。
残骸を見るに、その材料は石ばかりではなく、コンクリートも使われていたようである。
明治末ごろからコンクリートの使用は始まっていたが、その表面の特徴を見る限りでは、昭和に入ってからの築造と思われた。
車道化した後もそれなりの防波工作が行われていたのかも知れない。
右の写真は、旧磯浜隧道を撮影したもの。
こちら側もやはり、当時の路盤は殆ど残っていない。
上の写真は、コンクリートの断面に露出していた、陶製ヒューム管の残骸。
これは明治・大正頃のものと思われる。
そんな状況の中で、僅かに原形を留める部分の写真(左右)。
左の写真は、路肩の石垣は崩れて墜落しているものの、法面のそれは辛うじて残っている。
右の写真は、汀線から見上げた路肩の石垣である。
この“航空母艦”が健在だった当時の貴重な写真を、『TAKAの撮り撮り日紀』というブログで見ることが出来た。興味のある方はご覧になることをオススメする。
13:08
波打ち際を崩れた石垣を踏みながらしばらく歩いていくと、この異様な岩壁に突き当たる。
その高さは、ちょうど旧路盤の高さに一致しているようだが、果たしてこの上に廃線跡は残っているのだろうか。
良くない噂を聞いてはいるが、確かにこれは… 嫌な感じだ。
強引に登ってみる。
アハハ八ノ ヽノ ヽ/ \・・・・・。.
乾いた笑いしか出やしない。
本とかでこの結末は予想していたが、旧磯浜隧道の痕跡はゼロだ。
近年、この場所は産廃処分場になっていて、合法的に隧道跡地は消滅してしまったのである。
悔しいが、これが現実。
辺りをトボトボ歩いていると、本当は立入禁止エリアであるからか、一台の車がいきなり近づいてきた(ここは一般の車は入って来れないので、管理者に違いない)。
私は叱られると思ったので、逃げ出した。
まあ、ここはいくら時間をかけて探しても、ダメだろうな。
とはいえ、写真一枚だけでは余りに読者さんも納得しがたいだろう。
旧石部隧道はあれだけ探索しておいて、兄弟の方は写真一枚ではな…。
だが、こんな写真を見てしまえば、隧道消滅を納得するより無いだろう。
黄色いラインは旧線のライン。(推定)
このラインが少し前後にずれていようとも、とにかく旧磯浜隧道坑口付近は地中である。
分厚い地の底。
念のため(?)もう一枚。
これは、旧国道から見下ろした産廃処分場だ。
右から海岸線へ下っていく緩やかな斜面は、元々沢だった部分だ。
産廃がこの沢を完全に埋め立てている。
隧道も、この沢の中に口を開けていた。
ダメだこりゃ でしょ?
一連の廃線跡は、右の図のような配置になっていた。
このうち、実際に路盤跡を歩ける部分は旧石部隧道の内部くらいしかないという、本当に海が呑み込んでしまった廃線跡なのである。
これでは余りに夢がないので……
「焼津市民」を名乗る読者さまからお寄せ頂いた、正真正銘の秘蔵写真をここで公開しよう。
産廃処分場が建設される以前の昭和54年頃に撮影されたという、旧磯浜隧道の坑口である。
現場は海岸線からやや奥まっていて、山側にはコンクリートの擁壁が存在していたようだ。
なお、この擁壁の一部は現在も存在するが、産廃処分場に消えている。
写真を見る限り、埋め戻される直前まで坑口は健在であったように思われる。
単線並列の石造坑門が、見事に写し出されている…。
ちなみに、この地中深くに失われた坑口と極めて良く似たものを、我々は今でも見ることが出来る。
それは、東海道本線の現在線にある石部隧道の名古屋側坑口(南口)である。
この坑口は、今でこそ「石部隧道」の坑口と言うことになっているが、元々は旧磯浜隧道のものだった。
先ほどの写真と上のものを比較すると、アーチの部分こそコンクリートで改修されているものの、単線並列で石造、かつ意匠に乏しいシンプルな外見は、良く似ている事が分かるだろう。
これは、姿はおろか、名前さえも失った幻の隧道が、唯一現世に焼き付けた“影”のような存在だと言える。
そしてもう一枚。
「焼津市民」氏がたった一枚だけ撮影したという、旧磯浜隧道内部の写真。
この隧道は、今も地の底に眠っている!
※次回は再び「道路レポート」に戻って、
「 静岡県道416号静岡焼津線 (第3回) 」となります。