今回紹介する道は、令和4(2022)年2月の瀬戸内海方面遠征で探索した。
きっかけは読者のメメント(@memento_ekimemo)さまからお送りいただいた情報である。
岡山県道417号和気吉井線という路線です。岡山県東部の吉井川沿いを走る国道374号の対岸を走る路線なのですが、間に不通区間があります。一度走破を企てたことがありますが、失敗に終わりました。何の変哲もない不通路線の可能性もありますが、もしよろしければご検討いただければ幸いです。
地図(→)を見ると、岡山県道417号和気吉井線は、岡山三大河川に数えられる吉井川の中流部川沿いを走る、約16kmの一般県道である。
起点は和気(わけ)郡和気町の本(ほん)という地区で、そこから同町佐伯(さえき)を経由して、隣の赤磐(あかいわ)市稲蒔(いなまき)に終点がある。
全線が吉井川の対岸を走る国道374号と並行しており、いかにも整備が遅れていそうな立地条件だと感じるが、市町境に1〜2kmほど自動車交通不能区間があるようだ。
メメント氏がかつて挑み、目的を果たせなかったというのは、この区間のことだろう。予備調査としてグーグルストリートビューも覗いてみたが、当該区間前後の末端は舗装もされていないらしく、ストビューも撤退している。
不通区間の距離が長くないので、まだ探索経験を持たない旧備前国に対する初手として、この県道に挑戦してみることにした。
今回踏破(ないし自転車での走破)を狙った区間は、全線の北半分にあたる稲蒔〜佐伯間約8kmである。
もう少し事前調査をする。
右図は、最新の地理院地図に見る赤磐市と和気町の境界付近の様子だ。
中央を流れる吉井川の東側(左岸)には、国道374号(津山街道)と「自転車専用道路」と書かれた県道があるが、これは平成3(1991)年に廃止された同和鉱業片上鉄道の廃線跡を利用した大規模自転車道である。
この左岸には多くの小集落が点在している様子も見て取れる。
問題は吉井川の西側(右岸)で、県道の黄色で塗られた道が途切れている様子が描かれている。
また、赤磐市と和気町では末端部の道の表現が違っていて、前者では、基本的に公道ではない道を描くのに用いられることが多い「庭園路」の表記である。(道路地図帳などでは建設中の道路を描くのに用いられる記号だが、地形図は異なる)
なぜ、県道としては非常に珍しいこの表記を用いているのか、現地を見てみたいと思った。
対して和気町側の末端は、見慣れた地図風景である。
最低限の車道である「軽車道」の記号が県道の色に塗られているが、市町境まで400mほどのところで、川沿いの道の表記は完全になくなってしまう。
赤磐側の「庭園路」の末端まで合計700mほど、「道が描かれていない区間」が存在しているのだ。
700mというのは決して長い距離ではないものの、描かれている地形は急峻な川岸の崖のようであるから、本当に全く道がなければ踏破は難しいかもしれない。
道がなければ諦めるとして、行けるところまで行ってみたい!
……ところで、次に掲載する“地図”も、見て欲しい。
↑これは、2021年に発売された、現時点最新版のスーパーマップルデジタル(昭文社)の地図画像だ。
この地図シリーズを私はずっと愛用しているのであるが、なんと、
地理院地図だと繋がっていない区間が、平然と繋がって描かれている。
一方、チェンジ後の画像は同シリーズの一番古い平成12(2000)年版だが、繋がっていない。
これではまるで、この20年ほどの間に県道がめでたく開通したような表記の変化である。
これが単純な誤記なのか、この間に一度は開通した県道があっという間に廃道化したことを意味しているのか、
はたまた巷間で存在が噂される、「他社のパクりを見抜くための故意の誤表記」だったりするのか。
実際に利用されうる県道を生け贄に捧げてするには、後者はあまりにも犠牲の大きな賭けだと思うが、
ともかく愛用している最新道路地図に平然と描かれている県道ということも、私の興味を大いに惹いた。
現地へGO!
2022/2/20 9:44 《現在地》
“晴れの国”岡山(なんでも年間で1mm以上雨が降る日が47都道府県中で一番少ないらしい)、やって参りましたよ!
岡山県内での探索は、前年に初めて体験しているが、あれはもっとずっと内陸の旧国名でいえば備中が舞台だったので、瀬戸内海寄りの備前の地は初めてだ。だからもちろん、いま私がいる国道374号というのも初めてで、どことどこを結んでいるのかも知らない。
わずか1分前に自転車を車から降ろしてスタートしたばかりという、輝かしいばかりに無知な私の前に現れたのは、1枚の“香ばしい”青看。
言うまでもなく、私が進もうと思っている道は、「1.7km先通行不能」「(稲蒔まで通行可)」という警告が表示されている、右の道である。
その道は県道であるはずだが、青看にヘキサは書かれていなかった。
青看に先触れされていた交差点が現れた。
ここが、岡山県道417号和気吉井線の終点である交差点だ。
青看にヘキサはなかったが、交差点の一角にいわゆる卒塔婆タイプの県道標識が設置されており、さっそく「417」という数字を確認することができた。
路線名の和気吉井線は、和気郡和気町と赤磐郡吉井町を結ぶことからの命名で、この地は平成17(2005)年まで吉井町であった。
この交差点には信号機や横断歩道はなく、道路としての主副の関係も圧倒的に明確だが、県道側にバス停と待合所がある。
このバス停は「稲蒔口」という名前で、県道の唯一辿り着きうる目的地のように青看に表示されていた稲蒔集落へ公共交通機関で行く場合の最寄りである。
実際の集落は700mほど県道を辿った先だが、バスはそこまで入らない。
分岐地点から、県道と国道両方の進行方向である吉井川の下流方向を見渡した。
左の国道橋は備作(びさく)大橋といい、この国道が備前と美作(みまさか)の旧国を跨いでいることからの命名だと思うが、吉井川が両国の境となるのはもう少し上流からで、ここはかつての国境ではない。ちなみに竣工は昭和61(1986)年である。
ここで吉井川を渡る国道に対して、我らが県道は最後(というか起点)までずっと右岸を行く。
国道もこれより下流では川を渡らないので、両者は綺麗に並行しつつ、2度と出会うことはない。
それでは、いつもの自転車を足に、県道417号の小さな旅をはじめよう。
県道はどこにでもありそうな1.5車線道路として始まった。稲蒔集落までは「通行可」とわざわざ書いてあったくらいだから、そこまでは安泰だろう。
しかし、“その先”については、やはり一筋縄では行かなさそうだ。
青看に続いて、またも「通行不能」を予告する看板が立っていた。
これより1.5km先
一般車両通行不能
(但し、稲蒔までは通行可)
わざわざ「一般」車両通行不能と書いているのは、道自体はあるということなのかな? 道はあるけど一般車両は通していないという意味にも感じられるが…。
入口から200mほど入ったところの川側の路傍に、立派な石碑が建っていた。
それは、当地方にゆかりのある平賀元義という江戸時代後期の歌人にして国学者の作品を刻んだ、昭和55年建立の歌碑だった。
“五月雨に 水かさまさりて石毎に 山白波咲る 鴨の石淵”
江戸時代、この場所の流れは鴨の石淵と呼ばれていたようだ。
あいにく可愛いカモたちの姿は見当らないが、この川べりに古くから道があった証しといえるかもしれない。いや、この先に集落があるくらいだから、それはほぼ間違いなかろう。
9:48 《現在地》
入口から700m弱、一気に視界が開けてきた。
ここまで川岸の崖を進んで来たが、思いがけないような広い平地が待っていた。
そしてそこには沢山の家々が並んでいた。
本県道における赤磐市側の最終集落、稲蒔である。
集落入口に再び「一般車両通行不能」を予告する看板があった。しっかり数字は0.7km減って、残りライフは1.0kmに……。
また、このようなものもあった。
「稲蒔案内図」と銘打たれた、かなり大きな案内板だ。
掃除が行届いていないのが少し残念だが、侘しい袋小路の集落では終わらせないという心意気が感じられる、多くの見どころを紹介した看板だった。
しかもこの看板には、今回の探索の趨勢に関わりかねない重要なメッセージが含まれていた。それは左端の桃色の枠内の内容だ。
が、それを紹介する前に、稲蒔のアイデンティティに関わることを先に紹介しよう。
看板の右端、現在地である川原の辺りに、こう書いてある。
「稲蒔河原 筆軸干場」
現地の私は何のことやら分からなかったが、帰宅後に少し調べて大いに納得。
この稲蒔という集落、なんと国産の竹製筆軸(書筆の柄の部分)の6割を一手に生産しているのだそうだ。
現在ではプラスチック製品が多くなったこともあり、年間生産本数は100万本程度とのことだが、それでも凄い数だし、最盛期には年間1億本も作っていたというからなお驚く。
なお、干し場というのは原料である女竹を乾燥させる場所で、かつてはこの辺りの【広い河原】一面がそのように使われていたそうだ。
(↑)そしてこれが、看板左端の部分に見つけた、おそらくとても重要な内容。
至佐伯
月日を感じさせる汚れた盤面に、そう書かれているのが確認できる。
佐伯は不通区間の先の地名である。 しかし、その下にもう一行あるのだ…。
(予定線)
(個人的にシビレたぜ、この文字の重さ…)
この瞬間に、“未成道”というワードが、急に現実味を帯びたと思った。
少なくともこの看板を描いた当時には、佐伯まで道を建設する「予定」があったからこその表現だろう。
実際にそのための工事が進められていた(=未成道)かまでは、まだ分からないが……。
平和を絵に描いたような、稲蒔集落の風景。
県道は集落のメインストリートになっているが、通り抜ける車はほとんどないらしく、路上には白線も引かれていない。
もし、県道が車道として隣の町へ通じていたなら、少しは通過する車も出て来て、集落内でも県道らしい整備が求められるようになるのだろうが…。
9:51 《現在地》
おおよそ350mで集落を北から南へ縦断し、南の外れで道は再び堤防へ乗る。
集落は吉井川の大きな蛇行に取り巻かれているが、集落はCの字形の高い堤防によって守られている。だから集落からの出入りは全て、堤防を越える形で行われている。
国道を外れて約1km、こうして県道は、「そこまでは行ける」と青看が保証してくれた稲蒔集落の外れに達した。
県道の全長はあと15kmほどあるが、次の集落に行くためには不通区間の攻略が必要になるはずだ。
この先の道がどうなっているのか、興味津々で堤防に登った。
ん?
これってなんか…
未成道の気配ある?
明確な証拠はないし、先ほど「案内板」で未成道の存在を匂わせられたせいで余計そう考えたのかも知れないが、集落を外れたところで急に道幅が広くなり、ガードレールや舗装の質感も新しくなったことが、気になった。
これって県道を次の集落まで伸ばすつもりがないなら、こんなに立派にする必要あるか?
もしかしたら、この先に別の重要施設があったというオチかも知れないが…。とりあえず違和感はある。
さらに100mばかり進むと、奇妙な感じがする道路風景が。
妙に幅が広い新しそうな堤防が、1.5車線幅に縮小された県道の川側に並走している。
これは堤防にしてはいささか広すぎる感じで、なんとなくの印象だが、本来は堤防上に2車線の県道を整備するつもりだったんじゃないかと思わせられる風景だ。
手前の道との繋がりを見ても、堤防上へ進むのが自然な感じで、現在使われている道との繋がりは、少し下ったり道幅が狭くなったりと、やや不自然である。
なんか変な風景だよなぁ…。
今の道も新しそうだし、堤防と一緒に整備された感じがある。
もしもこの新しい堤防上に2車線の道路が整備されていたら、これは将来交通量的な意味で間違いなく県道の開通を前提とした工事だったと断定できるが、そうはなっていない。でも、この堤防の幅はなぜ? 設計者がどうしたかったのかを聞いてみたいところ。(この辺については机上調査で調べたので後述する)
なお、勝手に集落を外れたと思っていたが、この道路沿いにも数軒の民家が建ち並んでいた。本当の外れはこの先か。
今度こそ集落の外れだろう。
不自然に広かった堤防は、最後はいよいよ空き地然とした印象となり、この左に終わっている。
堤防が終わると道はまた少し下って、川に近い高さとなるようだ。
それにしても、ここから見る前方の山の形は、吉井川の蛇行に足元を支配されている感じが出ていて、道は再び山と川の厳しい相剋の隙間を縫って行かねばならないという現実が色濃く予感された。
現実問題として、道が有るのか無いのか、本当に先が読めない感じがしている。
面白くも、恐ろしい。ハラハラするが、先を見るのがとても楽しみだ。
そして、1.7kmからスタートした、県道の残りライフは――
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|