二つの通行不能箇所が、1kmにも満たない短い区間を挟んで連続する、主要地方道米沢南陽白鷹線。
今回は、個人的には通行不能と言われている箇所よりも興味深く感じていた、“挟まれ県道”および、その両端の不能区間をレポートして、本不通県道探索の区切りとする。
石垣の山村 2005.9.25 7:04
5−1 長井市 上大石集落
私は、南陽市杢ノ沢(杢ノ沢)から長井市下大石までの県道不通区間(0.8km)に挑戦したが、のこり400mほどと思われる地点で、道が無いことを認め撤退した。
再び置賜東部林道に車を走らせ、不通区間を迂回するように長井市上大石へ向かった。
この間の林道は1車線でカーブこそ多いが舗装整備されており、走りやすい。
杢ノ沢から上大石までは、約3.5kmである。
7:04
写真は、上大石の分岐点である。
林道と市道とがT字に接しており、写真の道は市道である。
この奥に大石集落がある。
まだここは県道ではない。
1車線で未改良の細い市道を進んでいくと、間もなく上大石集落の民家が現れ始める。
そして、この集落こそは、日本の誇る
ワンダーランド である。
読者の皆様も、おそらくもう10枚くらいこの集落の景色を見ているうちに、きっと虜になるはずだ。
ここは、ちょっと凄い場所だ。
私は、うまく言葉で言い表せないのだが、なんだか、とにかく、凄い場所だったという印象だけが残っている。
その最初の出会いは、路傍の小さな側溝に掲げられた、この小さな標語だった。
上・下大石の集落は、長井市の北端、大石川にそって列在する山間の集落である。
より市の中心に近く下流にある伊佐沢集落との間は、谷間の狭い市道を3km以上も離れており、交通の便はすこぶる悪い。
とはいえ、置賜東部林道が開通したことにより、それまでの行き止まりの集落から、少なくとも地図上では通過点に変容したし、長井市が誘致した山形工科短期大学校が、この集落のすぐ傍、置賜東部林道沿いに立地したことは、いくらかの経済効果と活気を生んだと、想像できる。
さらに、一応は、県道も通っているのだ…。
路傍の石碑群が、この地の辿った歴史の深きを漠然と伝えてくる。
標語、石碑、そして次に私の目にとまったのは、大石川を跨ぐ小さな石橋と、その向こうの重厚な石垣である。
橋は、市道から直角に分岐し、対岸の森に通じている。
その橋には、白く見える荒い御影石製の欄干があるが、親柱はなく、半ば草むらに没している。
さらに、橋によって誘導された視線が自然と見つけるのは、鬱蒼と茂る杉林と草地とを隔てるような、石垣。
そして、杉林の奥に見える黄色の軽トラの廃車体である。
思わず車を停め、地面と殆ど見分けの付かなくなった石橋を渡り、石垣に近づいてみる。
それは、近くで見ると尚更に、重厚で立派な石垣である。
まるで、戦国時代の古城の跡のようでさえ有る。
しかし、何ら観光地として整備されている雰囲気もないし、地図上にももちろんなんの表記もない。
ただ、雨に濡れ夏草に覆い隠されそうになっているばかりである。
さらに進んだ私はすぐに、先ほどの石垣がなんら貴重な物として保存されていない理由を理解することになる。
なんと、道の脇に点在する民家の、その何れもが、それぞれ、石垣を有していたのである。
これには、驚いた。
私が単に世間知らずなのかも知れないが、今までいろいろな場所を見てきたなかで、このような景色を見た覚えはない。
石垣は、どれも良い具合に苔を生やし、まさに古城に有るそれのように、年季の入った物だった。
ただ、その石垣の上にある主が健在であれば石垣もまたシャンとしており、主が無人であったり、そもそも家の影も形もないような場合は、石垣も役目を終えたように佇んでいる。
私の驚きを車中に充満させたエスクードは、市道を県道めがけゆっくりと走っていった。
間髪を入れず、次の驚きが待っていた。
「妖怪ポスト」のおでましである。
もう、この程度では驚けなくなってきた?
では、次いってみよう!
主要地方道(県道)との合流地点である。
例によって、まともな道がそこにあるわけもなく、やはりというかなんというか、怪しげな1車線(市道と全く同じ規格)が、正面から来て、右の山へと消えている。
そして、この右の山道は、おおよそ2kmで大峠に至るのだが、こここそは、今回一番の難所であった。
昨夜は、峠の近くまで反対側から接近しているにもかかわらず、致命的なミスによって、その所在を確認できずに終わっている。
まずは、大峠は後回しにして、真っ直ぐ進んで見よう。
まだ、南陽市との間のたった800mの不通区間のこちら側は、確認していない。
先に、それを確認しておきたい。
ただし、この県道との合流地点には、見過ごせないオブジェが二つある。
一つは、山形工科短期大学の生徒が設置したと思われる、意味の分からない立て札。
いや、まあ道しるべなのだとは思うが、このような立て札は、集落の中といい外といい近隣の随所に見られて、正直少し不気味だった。
また、いちいちユーモアがあるのだが、なんだか狙っているようで、好きにもなれなかった。
一方、私が素直に感激したのは、もう一つの発見。
石灯籠である。
風化が著しいことと、私にこのような物を見る目がない為に、一体どのような由来の物なのかは分からなかったが、辻道に立てられていた石灯籠に見える。
また、よく見ると、小石が灯籠の縁にいくつも乗せられており、素朴な信仰の気配を感じる。
どれほどに古い物なのか、下手すれば山行が最古級の道路遺構という線も出てくるのではないか。
(ただ、本来の灯籠のように中に空洞があるわけではない。)
5−2 下大石集落
7:14
何か明確な境界があるわけではないが、おそらくは民家と民家との離れ具合からいって、県道分岐点あたりから先は、下大石と呼ばれる一帯なのだと思う。
とりあえず、本稿ではそのように考え、これより先は下大石の段とする。
1車線未改良の全く県道らしさの感じられない道を少し行くと、今度は写真の建物が現れた。
木造建築には不釣り合いなアルミサッシの窓や扉が目立つ建物は、その看板によれば、かつて釣り堀であったようだ。
電話番号は、「(8X)ー8X8X」(←Xは全て同じ数)と、とても覚えやすいのだが、流行らなかったようで、素っ気ない「しばらく休業いたします」の張り紙が貼られている。
「開幸運」というなんだかよく分からない屋号も、営業当時からちょっと入りにくいムードを醸し出してしまっていたような気がするし、
中途半端に古そうな建物といい、妙に高い入園料といい、どうにも流行らない観光地を地で行ってしまったようだ。
近くに山形工科短大が立地したことを当て込んだ可能性もあるが、今時の学生は釣り堀には興味が無さそうだし、そもそも学生街としては、この集落、余りにも何もなさ過ぎる。
おそらく私は、道に沿ってこの集落の全体を見たが、商店はおろか、自動販売機一つ見当たらなかった。
そこで、なんの根拠もなく釣り堀というのも、かなり謎である。
なんだか、中途半端に終わったムードが非常に強い。
雨に小刻みな波紋を広げる釣り堀跡。
魚の姿は見られない。
しかし、いまも池の周りは荒れておらず、もしかしたら廃業ではなく、休業という張り紙は本当かも知れない。
アクセスする手段があまりにも貧弱な現状では再開は困難だと思うが、いずれ県道が全うに整備されれば、まだ望みは繋げるか。
中途半端だとこき下ろした外観だが、裏に回ってみれば、かなり良いムードである。
止まってしまってはいたが、外壁の掛け時計が、古い学校のような印象である。
と、ここまで書いていて思った。
もしかしたら、この建物はかつての、分校の跡なのかも知れない。
先ほど見た杢ノ沢分校(休校中)にも負けない、気品のある校舎ではないか。
飾りのない裏の姿を見て、この建物への印象は大きく変わった。
調べてみた。
すると、やはり、この大石は昭和30年前後には60戸が住んでおり、分校もあったとのことである。
平成10年には、もう5戸しか残っていないそうだが…。
開幸運を離れさらに進むと、道は二手に分かれた。
正面が県道で、左は、案内標識があった。
洞雲寺とある。
どうやら、寺があるらしい。
集落の形的には、大石集落全体がこの寺を中心にして拓かれたように思われる。
どのような寺があるのか少し気になったが、なんとなく、行ってみようとは思われなかった。
しかし帰宅後、現地にいたとき以上に大石集落のことが気になり調べてみたのだが、洞雲寺はなんと1539年の建立という古い物であった。
その境内に横たわる自然の巨石が、大石という集落名の由来となっているそうである。
大石集落に潜む驚きの精は、まだ私を放そうとはしなかった。
間髪入れずに現れたのは、これ以上なく豪快に崩壊しつつある、一軒の巨大な民家だった。
まるで、わざとそうしているかのように、崩れた家屋の内部があからさまになっている。
それは、さながら日本家屋の実物大断面展示のようである。
私は、またも車を停め、吸い寄せられる様に、既に存在しない玄関口に立った。
無くなった玄関の奥には、2階に続く階段があり、床の抜けた廊下に続いている。
巨大な日本家屋は、それを支えていた柱の大半を雨風に晒し、また一部をを失いながらも、奇跡的なバランスで互いに支え合って倒壊を免れているようだ。
見る者を素通りさせない圧倒的な迫力が、この廃屋にはある。
廃屋特有の、目を背けたくなるような生活の生々しさはむしろ薄く、なんというか、アトラクションのような清々しささえ感じてしまう。
この状態でいつまでも放置されるとも思われず、見たい方はお早めに現地にGO!
(当たり前だが、敷地には入らないように。)
そして、やはりこの家も周囲を立派な石垣に囲まれていた。
そして、その一角には、小さな池というか、洗い場だっただろう水場があった。
幾何学的な石垣の積まれ方によって、複雑な形状の水場が形成されている。
その傍らには、瑞々しいプランターがあり、雑草ではない観賞植物が生きながらえている。
そして、水場の中には、確かにやや朱色がかった白色の小さな魚が、何匹も淀んでいた。
以前はここに飼われていた金魚や鯉の姿なのか、それとも、誰かが悪戯で放ったのか…。
母屋の倒壊の様子からは最近に廃屋となったようには思われず、不思議な新鮮さを保った水場一角だけが、まるで別時間に存在しているような違和感を覚えた。
そして、市道と県道に沿うように数軒の民家と、多数の廃屋は空き地を連ねた大石集落は、上下合わせ1kmにも満たない広がりで、その端にあたる神域に行き当たった。
相変わらず狭い県道の両側に、神社と、石碑群が並んでいる。
特にその路傍の石碑の一つに、この道の由縁に繋がる重大な碑文が刻まれていた。
新 道 開 鑿 碑
末欲開交通運輸之便増進地方之福利宣先開鑿道
路也大石里道竣○険路車輌不通里人為之不便區
長布施挙助君率先出○百金自下大石○平野澤間
決新道開鑿○挙○天長之喜○明治三十八年十一
月三日起工同年十二月十四日竣功○其道路延長
六百四拾六間余其土工費金額四百七拾七円余也
起○者下大石里三十戸○費用以有志○金充之○
来道路平坦車馬絡駅交通至便斯里之○達富強之
増進期而可待也嗚呼是道之歳非上不協心民○動
業楽功○竭其力鳥○如斯○○旦牢也哉銘日
新道開鑿 数旬竣功 車輌拓通 交通便利
増進福利 人智発達 山里尚見 開明之郷
明治四十二年四月
私の不慣れと勉強不足のため解読できなかった文字も少なくないのだが、太字の部分が肝である。
明治38年に、地元有志によって大石平野沢間に646間(=1175m)の馬車の通れる新道が建設された。
と言うような内容と思われる。
残念ながら、平野沢というのが、現在のどの場所を示すのか、分からない。
しかし、延長から言えば、杢ノ沢までの現在の県道不通区間にも合致するように思われるし、あるいは地形図にも記載はないが地元で知られる、南陽市の須刈田に通じていた相撲峠のことであろうか。
慣れないとはいえ、このような古碑の解読もなかなか良い頭の体操になるし、面白いと感じた。
5−3 下大石から杢ノ沢への不通区間
さて、大石集落のいかにも歴史深そうな姿は、やはり伊達ではなかった。
調べれば調べるほど、現在では山間に閉塞している間さえある大石集落が、かつて(明治期頃まで)は主要な街道上の交通の要衝であったことが判明してきたのだ。
当時は、現在の主要ルートである国道や山形鉄道長井線のような川沿いのルートは、避けられていた。
不通県道の汚名を欲しいままにしている大峠のルートこそが、古来の主ルートであったのだ。
しかも、その旧来の道筋は県道が予定している路線とかなり酷似している。
敢えて県道の予定線は相撲峠ではなく、さらに杢ノ沢を経由したのは、少しでも多くの集落を結ぼうとしたせいだろうか。
そこを除けば、県道は全くもって、街道を踏襲している。
ここまで知るに至り遂に、今までこの県道で見てきた様々な景色が、一つの大きなイメージとして結実してくるのを感じる。
山中の無人の峠に佇む庚申碑が、忘れがたい。
現在、接し合う三市町のそれぞれの最奥集落は、林道などと言う全く近代になって新設された道によって辛うじて通じている。
未だ不通の県道は、たとえ開通しても新しい道を提供するわけではなく、そこにかつてからあった道の、当たり前の近代化に過ぎないのだ。
人の住まわぬような奥地の産業開発道路より、
人の住む里山の生活道路整備を、切にお願いしたい。
私は、この一つの不通県道の姿から、そんな気持ちを抱いた。
7:33
大石集落の出口には浅い切り通しであり、その両側の立木を繋ぐワイヤのアーチがあった。
「故で」の文字が寂しげにぶら下がっている。
これは、いったい誰に向けてのメッセージだったのだろうか?
昭和30年代は60戸も住んでいたと言う大石集落の住人に対して、「いってらっしゃい」という気持ちで掲げられていたのか。
裏には、「飛出」の2文字である。
これは村の外から来る来訪者に対してのメッセージだろう。
当時は、飛び出すような子供の姿が村にあったのだ。
いちいちしんみりさせてくれる村だ。
そして、いよいよ県道の不通区間と、さらに大石川沿いを市の中心部に近い伊佐沢方面へと下る道とが分岐する。
写真は、県道の入口なのだが…。
当たり前のように、未整備である。
約1時間前には、このすぐ先の斜面の上でチャリに跨ったまま藪に喘いでいた訳だが、下側から確かに同一直線上に二つの行き止まりが存在することを確かめたい。
車を置き、歩いて緑の道へ進む。
水の殆ど流れていない浅い沢にそって、殆ど一直線に高度を上げる県道。
路面には轍は見られず、堅めの土を柔らかい草が覆っている。
それが、県道としてのものなのか、単純に治水治山用のものなのかは分からないが、この道には不釣り合いなコンクリート製の側溝が路肩に埋め込まれていた。
側溝は、分岐から100mほどは続いていたが、道らしい景色を見せる前に、終わりが来る。
もうこの道では驚くまい。
県道の木橋である。
木橋のあたりまで来ると、前方には如何ともし難いような急な斜面が迫っている。
そして、その急斜面の一部分には、何となく見覚えがある気がする。
かすかな踏み跡を頼りに、上れるだけ登るが…。
7:35
午前7時35分。
やはり1時間前に阻まれた斜面に突き当たり、道は終わった。
この区間は、両側から不通区間残り100mほどを残すまで詰めることに成功したが、結果的に、いまだ道は存在しないと言えそうだ。
ただ、周囲は杉の伐採地となっており、伐採の時に地形が改変されて古道が壊されてしまった可能性もある。
いずれにしても、これにて大石〜杢ノ沢間の不通区間の探索は完了とする。
このあと、再び大峠へ挑んだが、地形図を持たなかったために入山地点が分からず、実りを得ることは出来なかった。
初歩的なミスにより、二日間に渡って私の侵攻を食い止めた大峠であるが、その2週間後に無事踏破している。
その模様は、また次に機会にミニレポなどでお伝えしようと思う。
今回は、いつもの山行がレポのように始まったと思いきや、何故か最後は山里の魅力に取り付かれてしまった。
まあそれも一興と言うことで、お楽しみいただけただろうか? 完