もう2年も前のことになるが、極めてマイナーな不通県道をこの道路レポで取り上げた。
山形県の南部に位置する置賜地方にあるこの県道は、県道の中では格上の存在である「主要地方道」に指定されていながらも、肝心の峠越え区間に断続的に2カ所の通行不能区間が設定されており、自動車での通行が出来ない道として取り扱われている。
しかし、現地へ行ってみると自動車どころか、自転車でさえ通り抜けは不可能な有様だった。かつてそこに何らかの道があったことも疑わしいような、猛烈な藪に阻まれたのだった。
その時のレポートはこちらだ。
今回のレポートはその続きの内容となるので、まだの方はぜひご一読いただきたい。
ここからは、前編にあたるレポの成果を踏まえて話を進めたい。
この不通区間は、起点の米沢側から南陽市・長井市・白鷹町の順に相次いで二つの峠を越える山岳地帯にある。
そして、この二つの峠の両方ともが不通区間となっている。
南陽市添山杢ノ沢から長井市上伊佐沢下大石までの無名の峠に800m、そして上大石から白鷹町畔藤上杉沢までの大峠に3900mもの不通区間がある。
前回、このうちの前者はほぼ踏査を完了し、後者も白鷹町内部分については踏破完了、大峠に道を見失い敗退した。また、大峠の長井市側区間にも、不通県道と部分的に並行する林道の存在を確認したが、レポートにはならないと判断し掲載を見送っている。
右地図中にて赤い点線で示した部分が県土木事務所が公表する不通区間であるが、うち赤い傍線の部分が今回の攻略目標区間である。
レポのタイトルにしておきながら、結局そこへ辿り着けなかった屈辱の「大峠」、そのリベンジである。
前回同様、大峠へは北側からアプローチを狙った。
地形図で見る限り、車道から峠までの距離が南側は北側の数倍もあるのと、沢の幅が広く地形が緩やかなので峠の位置を特定しづらいと踏んだためだ。
とはいっても、地形図上でさしたる困難な峠とは思えない。
前回道をロストしたポイントから峠までは、たったの400mほどと読み取れる。
前回は時間がおしていたことと、ロストポイントで見た「本命らしい道」が余りに藪深かったので、気乗りせず止めたまでである。
しかし、後になってみるとなんだか悔しくて、撤退の2週間後には早くも再訪していた。それが以下のレポートだ。
左の写真は、右の地図中の「バリケード」の箇所である。
このロープで塞がれた道が不通区間真っ最中の県道の姿であり、ここから北に1.7kmほどは、自転車がやっとの山道だった。(前回紹介済)
一方、このバリケード前は未舗装の林道とのT字路になっており、再訪となる今回は、林道を使って車で一気にロストポイントを目指したのだった。
2005/10/8 06:00 【現在地:長井市上伊佐沢 前回ロストポイント】
前回の探索が下調べの役目を果たしていたので、今回は車で大峠直下の車道終点近くまで来ることが出来た。
この写真の地点こそが、前回正しい大峠への道をロストしてしまった、憎むべきカーブである。
左から進んできた道が自然に手前へと曲がっているものの、地形図にも描かれた大峠へ続く点線の道はここを曲がらず、右の草藪へと直進するのである。
前回は、地形図を持たなかったゆえの初歩的なミスだったわけだが、何となくこの地点が怪しい気持ちはあったのを憶えている。
しかし、あのときは時間も押していたし、なんの根拠もない状態でこの草むらへ進む気にはなれなかった。
このときは、まだ免許を取って3ヶ月目くらいで、いま見ると車も中古ながら綺麗だったし、何より、今の愛車のトレードマークである巨大な凹みも見られない(笑)。初心者マークも初々しい。
そんな中、ここまで来る道は車道とは言ってもかなり狭くて、車体感覚のおぼつかない自分にはとても怖かった覚えがある。
さておき、これから正しい大峠への道へ進む。
しかし、チャリは無しだ。
車には積み込んであるが、そもそもこの先は車道が開通した歴史がないところだ。ムキになってチャリで突っ込む理由がない。
午前6時04分。
上下に合羽を着用し、首からは防水のデジカメ「デジタル現場監督」をぶら下げ、いざ出陣。
夜明け前より小雨がぱらついており、これから晴天に変わる予報ではあったが、嫌な出だしだ。
いきなり腰丈までの濡れた藪漕ぎというのも、全く感心しない。
案の定、歩き始めて数分で靴の中はグッショリとなった。
今日は朝一でこの大峠へのリベンジを済ませたら、後は一路車で那須に向かい、明日は胸躍る「塩那道路」との対決を予定しているのだ。
さっさとこんな“小物”やっつけてやる。
私は、そんな不敵な構いで望んだ。
入口から50mほどはかつて車道だったような幅があるが、その先は一気に狭くなる。
左手には音もなく沢が流れるが、藪が深くその狭い水面は見えない。
峠のてっぺんまでは、入口から400mにも満たない。
だから、歩いていってもすぐに辿り着ける筈だが、両脇の林が覆い被さるように深いのと、雨交じりの霧のため、峠の鞍部は全く見通せない。
沢は二手に分かれ、本流である右の沢には巨大な砂防ダムが現れた。
道はこれを巻くために、それまでよりも急な角度で付けられている。
路面は締まっておらず、足がズボズボと泥に埋もれる箇所もある。
雨でなくても湿気った場所のようで、芦のような背の高い植物が繁って、元もと狭い道幅をさらに狭めている。
チャリで来ても苦痛なだけだったろう。
芦は幅1mほどの路面にも、垂れるように覆い被さってきており、滴を満載した彼らを払いのけるのは、合羽着用といっても滅入ってくる。
跳ねた滴が大挙して首筋から進入してくるアクシデントは、当然のように発生した。
ついさっきまで近くの道の駅で車泊していたのに、朝一でこの展開は萎える。
近いはずの峠が、嫌に遠くに感じた。
まだ見えないのか!
06:09 【大峠鞍部直下】
出発から5分ほどで、行く手を塞ぐ衝立のような稜線が現れてきた。
一見して大峠のある稜線である。
要した時間の短さを見れば、やはりそれ相応の距離だったわけだが、その割に精神的に疲労した。
もっとも、本番はこれからであるし、鞍部という明確な目標が見えてきたことで気分の底もついた。
私を一度退けた大峠を、これから食らってやる!
どうやら、ここまで私を導いた道は、本来の峠を往来する人々によって付けられたものではなかったようだ。
新しい踏み跡こそ見られなかったが、ここまでの道には獣道以上の幅があり、古道であると信じていた。
だから、これを正しく辿って行きさえすれば峠へも自然に立てるものと踏んでいた。
しかし、峠の鞍部を目前にして広大な伐採地跡が出現し、しかもそこで道があらぬ方向へと進んでいる事に気づいたことで、ここまでの道は造林用の作業路に過ぎなかったことを知った。
写真には、右上方へ進む道の跡があるが、これは明らかにブルの通った轍道である。
ここからでは、本来の鞍部がどこなのかも分からない。
地形図でもその通りに描かれているのだが、峠の直下の沢の源流部を等高線がU字を描くように取り囲んでおり、これまで来た道を真っ直ぐ進めば峠だというふうに頭では分かっていても、そこに明確な道がないとなると、本当に登って良いのか分からなくなる。
真っ直ぐ登ろうにも、上の写真を見て分かるとおり、正面の斜面は凄い藪で、しかも近づくと分かるが、草付きの下に岩場が浮いていたりと危ない場所だ。
まずは、★の地点にまでブル道跡を進み、そこから正しい峠の位置を査定することにした。
一カ所からの目視では見つからないものも、立体的に探せば出てくると言うことがままある。
それが左の写真で、ちょっと写真からは分からないだろうが、肉眼でははっきりと杉の木立が不自然に途切れた一角、しかも地形的にも最低地となる箇所を見付けたのである。
ブル道から下って、いま見付けた鞍部らしき場所を真下から見上げる。
たしかに、杉の帯が途切れている。あからさまに。
上に鉄塔でもあればそれが原因ということもあるが、そういうものもないので、これは…決まりか。
まだ見ぬ峠、2週間越しのリベンジ達成にドキドキしたが、なんと言っても最後にして最大の悪所はこの目の前の斜面だ。
結果から言うと、馬鹿正直にこの灌木混じりの急斜面を這い登った。
それ以外にいくら探しても道跡は見いだせなかったし、地形図でもそのように描かれている。
道が生活路として現役だった当時には、当然何らかの通路があったのだろうが、皆伐で荒れたままに放置されたようだ。
地表からは土砂が大量に流出し、そのせいで滑りやすい岩場が無数にあって、さらにイバラが多く自生しており、この30mほどの登攀は難を極めたのである。
とまあ、特に登っている最中は写真を撮るものもなかったので、文章で「難を極めた」と説明するより無いのが弱いのだが…とにかく私は上り果せた。
ここに辿り着いたのが、午前6時22分。
写真は来た方向を振り返って撮影しているが、この底の平場に最初に着いてから13分の時間が、伸るか反るかの苦難の時だった。
だが、登ってしまえばあとはもうこっちのもの。
だって、もう見ちゃいましたもん。
そこにある、 ア ン ブ を。
06:22 【大峠】
峠は、おそらく昔のままの姿で残っていたのではないだろうか。
なにぶんにも、この峠のかつての写真を見たり、利用者の生の声を聞いていないので、正直、道としての「大峠」に辿り着いたという感慨のようなものは、余り感じない。
この峠の主要な利用者であったろう大石集落の現在の凋落ぶり、廃墟と空き地ばかりの村の姿を知る者としては、この峠の姿にもさもありなんと思うのみである。
地蔵とか祠とか、なにか人の通った強い象徴でもあればと思ったが、藪を掻き分け周囲を捜索したにもかかわらず、そのようなものは見付けられなかった。
だが、ともかく私は大峠に立つことが出来た。
「古い道を辿りながら」という前提については、伐採によって地形が変化しており、どの程度正確に辿れたかは不明だが、ともかく大峠その片面は撃破した。
大きな峠と書いて、大峠。
おそらく、日本で最もありふれた名の峠。
人々が峠に心した畏怖と苦難を、一番素直に表現した名であろう。
だからこそ、全国には様々な大峠がある。
この置賜にも、幹線国道として生まれ変わった大峠がある一方、
このように、廃れ消え行く大峠もある。
ただし、ここには一縷の望みがある。
国土交通大臣が認定した、主要地方道という冠だ。
(主)米沢南陽白鷹線
その名は、いつか実になる日が来るのか。
或いはこのまま…。
森の底に形を留める長さ20mほどの掘り割り道の先は、再び転げ落ちるような急斜面となっていた。
しかし、その長井市伊佐沢方面に下る道筋には、なんと古道の一部が現存していた!
後編では、この先の「現道区間」を可能な限り紹介!
「現道」…つまり、この峠道は県道として未開通(未供用)ではないのである。
あくまでも、4トン以上の普通貨物自動車が通れないから「通行不能区間」に指定されているに過ぎない。
こんな現状でも(前回レポで紹介した全区間も含む)、ここは紛れもなく、開通済の県道なのである。
すなわち、かつてそこに道があり、その道を県道に指定したという「タテマエ」なのである。(…いや、指定当時には本当に道があったのかも知れないが…)
そんな道の最たる例が福島県伊達市の「この県道」で、廃登山道に県道のキロポストが点々とある。
その、詳細にならぬ詳細(意味深…)は、後編をまて。