国道121号線 大峠道路及び大峠   その6 
公開日 2005.11.20



 大なる峠 大峠
 2005.9.24

6−1 峠の南口 


 いやー、今日も一仕事終えたな〜。

そんな気分である。

喜多方で現国道より分かれて以来20km、高低差にして880m。
要した時間は、ぴったり3時間。
登りに登って、ようやく登り切りました。

あとは、もう峠を駆け下って、愛車の待つ現国道に戻るだけ。
山形側は相当に荒れているとは聞いているが、まあ、チャリならば越えられないことはないだろう。
とりあえず、やったった。


 この大峠は、海抜1150m。
現国道が大峠トンネルで貫通している地点からは約5km南東に位置し、その高度は500m近くも違う。
まさに、山を乗り越えるというイメージにぴったりな、峠らしい峠だ。
トンネルなどという小手先の技には与しない…。

と、思いきや、
読者の多くもすでにご存じかも知れないが、
ここまで素直に山を登ってきたにもかかわらず、この最後の最後で、
三島は穴を掘った。

あともう、ほんの50mばかり上を目指せば、そこには藩政時代ゆずりの元祖・大峠の鞍部が待っているにもかかわらず、
最終最後、ここに来て、隧道なのである。

20000m登ってきて、たった118mの隧道一本で峠を越える。

これって、私の中ではかなり衝撃的。
なんというか、どうせトンネル掘る気あるんだったら、この酷い九十九折りをもう少し減らして、もちっと長い隧道を掘れば良かったんでないの?
素人考えだが、どうしてもそんなことを考えてしまう。

 私だけだろうか?


12:12

 最後のヘアピンカーブを切り返した瞬間に、私は遂にその時が来たことを、感じた。

なぜなら、霧の中に浮かび上がった直線は2車線分の幅が確保されており、その先にはうっすらと青看さえ見えていた。
路面には、なにやら消えかけた白いペイントが見えている。
ここまで、ただひたすらにカーブの先にはまたカーブと、それだけを繰り返してきた私には、この変化は峠を予感させるに十分すぎたのだ。

 この路上のペイントであるが、白が失われた部分のアスファルトにもかすかな濃淡の違いがあり、解読できた。
その文字は、 シートベルト というものであった。
シートベルトの着用が義務付けられたのは、昭和61年11月のことであるが、このペイントはおそらく、この義務化以前のものだろう。
もし義務なのであれば、敢えて着用をペイントで促す必要もないだろうからだ。
まあ、この予想が外れていたにしても、私ははじめて見た。
道路ペイントの「シートベルト」というのを。
下り車線にのみ描かれている。


 麓の白看がここ数年のうちに消失していたのは残念だったが、峠の青看は、無事そこにあり続けていた。
毎年、6m近い積雪に覆われるという山脈の頂上に、なお立ち尽くしている青看の耐久力に、敬礼。

 それともう一つ、ここにもやや簡易な道路情報板が設置されていた。
夏草に半ば隠されて、通行止の表示のまま、時が止まっている。
その通行止めの「理由」は、「道路未改良及び落石等危険防止のため」などと書いてあり、こんなに長い文字列が理由としてあげられているのは初めて見た。
ある意味、素直で誠実な文言だと思う。
(大概は答えるのも面倒くさそうに「未改良のため」とかしか書いてないことが多いのにね。)



 幅2車線の直線を過ぎると、緩い右カーブで、立ちはだかる稜線に正対するかたちをとる。

カーブを進むほど、両脇のコンクリートブロックは高さを増していく。

もう、登ることは諦めた…いや、登らないで済む解決策を見つけた道は、
止まらない!

だれしもが、次に来る景色を予感する瞬間だ。

脇見をせずカーブの内角を凝視するに違いない。


来るぞ、待ちに待った その瞬間が、 来る!









  キターーーーーー!!


  来ると分かっていても、


  キターーー!!


 

6−1 大の字を持つ小さき隧道 

12:15


 名を、大峠隧道という。
その名は由来は考えるまでもなく、余りにもシンプルだ。

全長118m、幅5.1m、高さ4.0m、竣功は昭和9年。
それが、この隧道の諸元である。
古い事を除けば平凡な値しか持たないこの隧道が、全国のオブローダー諸兄より、まるで叶わぬ恋のように羨望の眼差しで見られていたのは、この隧道が、余りにも僻なる地に取り残されていたためである。
ここを目指す者は皆、嫌になるほどの九十九折りか、崩壊の進む廃道のどちらかを選んで、これを制覇せねばならないのだ。
しかも、道の状況は年々悪化を続けており、近い将来、車では完全に接近できなくなる可能性が高いというオマケ付きだ。

 そして、苦労してこの隧道へ辿り着いた者は、褒めないだろう。きっと。
この隧道のことは。



 苦労の果てに辿り着いた隧道の、その姿は、余りにも、惨めで、無惨である。
この隧道が、昭和9年竣功という、東北最長老クラスの古株であることを知る者なら、嫌が応にも、それ相応の威厳や、風格と言ったものを、期待せずにはいられないだろう。
例えば、荘厳な煉瓦の二つ小屋隧道(万世大路、昭和12年竣功)や、重厚なコンクリートブロックの善知鳥前隧道(国道4号、昭和8年竣功)のような姿こそ、この歴史ある大峠の頂上にはまっていてしっくり来るに違い無いのだ。
多くの挑戦者は、ここで、意表を突かれ、あるいは、その価値無さ気な姿に落胆さえするかも知れない。

 しかし、そこが面白く、かつ、リアルだと、これが「本物の道」なのだと思える部分なのだ。




 もう一度見て欲しい、右の写真を。

酷い姿だとは思わないか。
風格や気品など微塵も感じさせない、コンクリを塗りたくられた小汚い様を。
コンクリでありながら、機能美などという言葉の当てはまらない、凸凹でだらしのない表面。
笠石らしい意匠の痕跡は見られるが、これもまた美観に供する役目を果たし得ていないし、そこに取り付けられた扁額は御影石製で、唯一美しさを期待させるものの、結局はいつもツタに覆われてそれが表に出ることはない。
むしろこのツタは、あまりに見るに堪えない坑口を覆い隠そうとする、山の情けのようにさえ思える。
最もこの坑口の醜い箇所は、アーチの部分の施工にある。
よく見ていただくと分かるが、アーチの様に塗られたコンクリートは、決してアーチなどではなく、しかもその外の壁面との境界は、余りにも汚らしいギザギザ模様である。
やっつけ仕事も良いところだ。
もう、駄目押しとなるが、コンクリに覆われた内壁も、まるで素堀のコンクリ巻きの様に凸凹しており、見窄らしいことこの上ない。

 ここまでこき下ろしても、なお、この隧道の放つ強烈なオーラを言い尽くした気には、全然成れない。
なんかもう、とにかく、普通の神経なら、歴史あるこの場所には最も有って欲しくないような隧道の姿なのである。

 

 いままで、多くのオブローダーが、旧道化した後にこの隧道に訪れ、そして、幾つもの素晴らしいレポートがWEB上に生み出されている。
本来なら、峠の頂点にあるこの隧道こそが、要であり、レポの主軸となっても不思議はないのだが、これまで、ほとんどのレポーターが、「遂に到着、大峠隧道だ」などと言ったきり、あとは結構さらりと、通過している。

 それが、この大峠隧道に関する、普通の反応だと思う。
期待していたほど、何かが凄いというわけでもなく、美しいわけでもない。
道中こそがあまりに衝撃的なこともあり、自然と、この峠にとって要であるはずの、隧道の扱いは小さくなってしまったのだ。

 しかし、私はどうしても、この大峠隧道にこそ、この大峠の辿って来た歴史の、全てが凝縮しているように思えてならないのだ。


←(参考画像
「耶麻郡入田付村新道ノ内山形県下南置賜郡八谷新道ニ通スル大峠隧道南口ノ図」福島県道路風景画帖より転載)

 元を正せばこの隧道、生まれは明治に遡る。
言うまでもなく、三島が拓かせた大峠隧道(明治17年竣功)が、それである。
当時は、左のような姿であったが、これは見ての通り自動車が通るには不十分なサイズであったため、昭和7年から10年にかけて行われた大改修時に、現在のサイズに拡幅されている。
隧道の位置は変わらないが、サイズは一回り以上大きくなっているのだ。

 改修前は、あの栗子隧道ですら素堀の坑門だったのに比べても、全く遜色のない出来だったことが伺える。
また、改修後は初めからコンクリート隧道ではあったようだが、当時の写真を見限り、酷い出来ではない。



 どうも、現在の見るに堪えない有様は、経年劣化による坑門の崩壊を防ぐための、無理矢理な補修工事によるものと思われるのだ。
これは、積雪深6mという、栗子以上の極限的自然環境や、通行量の少なさと無関係ではない予算不足、さらに、平成に入るまで現役で在り続けなければならなかったという外的環境など、諸々の悪条件が重なって、このような「見たくない」姿を晒すことになったと思うのである。

 働いて、働き抜いて、こんな姿になるまで働いた。
愛しいではないか。



 内部には、この隧道の崩壊が近いのではないかと噂される元となった、ご覧のような崩壊がある。
いかにも薄っぺらいコンクリが剥がれており、今のも地山の大崩壊が起きるのではないかと思われるかも知れないが、よく見れば、破壊されているのは表面のコンクリの吹きつけの層と、その内側の耐水シート状と金属ネットの部分である。
さらにその外側にはコンクリが覗いている事を考えれば、まだ隧道自体の変状とまでは言えないように感じた。

 もっとも、昭和初期の隧道が、いつ大崩壊を迎えないとも言えないし、このような表面の無数の綻びが、内部で起きている大きな破壊の現れである可能性は、否定できない。
ともかく、現状は自動車も通行可能な、状況にある。



 たった60m足らずの隧道は、あっという間に通り抜けることが出来る。

これもまた、大峠隧道の象徴的な光景としてよく挙げられるものだが、隧道の北側山形側坑口付近は、洞内一面の水溜まりとなっている。
また、その手前には、道幅の3分の1ほどを塞ぐようにして、通行止めのバリケードが置かれている。
このバリケードの背後には、夢の跡が…。



 バリケードの裏側には、何か盛り土があったり、建設資材が置き去りになっていたりと、何かをしようと思っていたけど果たせなかったというムードが、漂っている。
おそらくこれは、旧道化してからしばらくの間は、なにやらこの山形側で災害復旧工事なり、整備工事なりを行っていたという情報と、関係がありそうだ。

 それにしても、隧道内は本当に風がよく通り、立ち止まっていると寒いほどだ。
まだ、9月末である。



 南側坑口の惨たらしい有様を見ていただいたばかりだが、早くも北側の坑口もお目に掛けねばならない。

こちらは、もっと酷いといえば酷いし、あるいは、まともといえるかも知れない。
経てきた年数相応に、崩壊が進んでおり、不自然さは無いと言える。

 幻想的な山形側坑口のムード。
水溜まりは、10cm以上の深さがあり、チャリのペダルまで水が来た。
壁面近くに、ガードレールが沈められており、ここを踏んで歩けば余り濡れないで済む。



 北側坑口は、意外性は大して無い。
いかにも、ただの廃隧道である。
私は、異様な南側坑口の方が好きである。

 しかし、この北側坑口についても、気になる点はある。
まず、右の写真の坑口左側の壁を見て欲しい。
ありきたりな(隧道の坑口としては珍しい)、コンクリートブロックが谷積みされているのが見えるだろう。
そしてそれを覚えたまま、次の写真を見て欲しい。


←(参考画像
「耶麻郡入田付村新道大峠隧道北口ヲ八谷新道ヨリ望ム図」福島県道路風景画帖より転載)

 このように破壊の進んでいる坑口であるが、右端の石垣の部分。
明らかに、コンクリートブロックではない。
かといって、自然の岩というわけでもなく、石材の谷積みではないだろうか?
残念なことに、これには帰宅後に気がついたので、他の写真は撮ってきていないのだが、可能性としては、この石垣部分は、
明治の初代隧道の一部分である可能性も、僅かだがあるかも知れない。
仮にそうではないとしても、坑門のの右左で材質が異なるというのも、それはそれで、酷い工事だ(補修の跡だとしても、そりゃ酷い。)

 この、山形側坑門は、福島側に増して、作りは簡素であり、笠石も扁額もない。
もう、ただのしょっぱい隧道にしか見えない。
しかも崩壊が進んでおり、危険である。



6−3 峠の北口


12:23

 大峠隧道は、常時風を通しており、山脈鞍部から50mだけ低い風穴となっている。
その山形側においては、繋がっている道がなんと、未だ未舗装である。
平成4年まで現役の国道であり、いや厳密にはいまも国道指定を解除されてはいない道が、未舗装なのである。
山形県内には、全国有数の未舗装国道458号線十部一峠があるが、つい最近まではそんな不名誉が二つもあったわけだ、一つの県内に。
これでは道路ペイントがどうのなどという事を話題にすることも出来ない。

 ま、それは置いておくとしても、隧道を出た先が未舗装であるだけでなく、いきなり10mも行かないうちにT字路に突き当たるというのも、やってくれる線形だ。



 まさに、この日の天気だと、

トンネルを抜けると、そこは空だった。

 そんなノリである。
今だから笑っているが、現地では、かなり心細い思いをした。
この霧の海に向かって、単身下っていくのかヨ、と。
寒いヨ と。



 もし、大峠隧道を福島側から勢いよくかっ飛ばしてきたドライバーがいたと仮定しよう。
彼は、トンネルを出た瞬間、自動車学校で習ったと思うが「明順応」という効果によって、一瞬目つぶしを食らったように、目が明るさに慣れず見えずらくなる。
そのうえ、突如路面は砂利道で、慌ててブレーキを踏んだとしても、もう遅い。
ジャリっと滑ってT字路をどちらにも曲がりきれなかった先は、この谷底へズドンである。
幸いというかなんというか、一段下にも舗装路があり、死なないかも知れないが、まあ、無事では済むまい。
大峠隧道の山形側坑口というのは、こんなおかしげな場所に口を開けてしまっている。




 さて、この下に見える舗装路の正体だが、当然国道の行く手でしょ? と思うのは、早とちりである。
大峠の福島側道中を思い出すと、途中にあったものといえば、せいぜい廃村跡くらいなものであった。
しかし、山形側には、福島側には見られなかった物が存在する。

 鉱山跡である。

このような海抜1100mを越えた高所に、昭和のある頃まで鉱山が稼工していたようで、この下に見える道を含め、一帯には複数の鉱山の作業道が存在している。
鉱山もとうに廃止されており、もはやその全ても廃道であるが、それぞれの行き先については不明であり、今後の調査が待たれる部分でもある。




 私は、以前からここに来たらぜひとも見たいと思っていたある物が、すでに存在しないことに気がついた。

最近まで、確実に存在していたようなのだが…
それは、この場所が大峠という名の県境であることを示す、「福島県」の県名標識である。

かの標識は、隧道を出た真っ直ぐ前の路肩に、半ば崖側に倒れたような、相当に微妙な角度で長らく存在していたのだが、今回、無くなっていた。
代わりに、その成れの果てと思われる標識の支柱だけが、ぐったりと、萎れたツクシのようにコンクリの崖に張り付いていた。
これはもう、絶望か…。








 だが、私は諦めず、その下段にも鉱山道があることを活かして、落ちてしまったらしい標識本体の捜索を行った。

結果、草むらとコンクリの法面の隙間に、裏返しになった標識らしきものを、発見!



  アターーー!!

あった!

まだ、ありましたー。




 隧道内には、何か工事資材のような物が使われぬまま放置されていたが、この山形側坑口の傍の草むらにも、くちゃくちゃになったトタンの標識が発見された。
もはや、読めない場所もあるが、ともかく、図と判読できる部分から判断するに、大峠隧道から山形側にかけてかなりの区間が、「当分の間」通行止めということのようだ。
すでに現道の大峠トンネルが描かれているので、やはり現道開通後にも、ここではなにやら工事が行われたのだろう。
果たして、何をしていたというのか…。
工事をしてもなお、道は再び通れるようにはならなかったのだろうか?

 そのあたり、非常に気になっているので、レポ執筆時点では関係各所に問い合わせ中である。
もし、何か判明したら、追記したいと思う。
 

 さて、峠を境に、呆気なく未舗装になった国道121号線。

現国道まで、あと10km。

下らねば、長い長い引き返しの運命であり、もはや、行くしかない。
勿論、行きたい。
行くぞー!

 己を奮い立たせ、またも、冷たい霧の中へ、前進開始。

写真は、4輪車で福島側から入った場合の、最終到達地点。
広場になっており、車の転回も出来る。
この先は、4輪の方は引き返すか車を置いてもらうしかない。



 これが俗に言う、

  大峠バイクゲージである。


 いつ誰が設置したものか、小ぶりなテトラポッドのような物が、道を塞ぐ形で、二つ置かれている。
これは意図したものではないのだろうが、ちょうどのその隙間が、徒歩や、自転車、サイズの小さなバイクならば通れる程度空いており、これまた想定外なのだろうが、多くのオブローダー達が、今までこのゲートを、期待と不安を胸に通り抜けてきたのである。

 そして、その数は定かではないが、勇んで踏み込んで数分後には汗だくで、あるいは青ざめさえして戻ってきた者もいるという。

大峠攻略者ならば、誰しもが通らねばならぬ、踏み絵である。

 このゲートで、人は誰しも、チャレンジャーになれるのだ!!



 次回、一挙に下りきってしまいます?!








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