国道252号旧道 駒啼瀬  第3回

所在地 福島県大沼郡三島町
公開日 2007.6. 9
探索日 2007.5. 7

壁-道-壁 極限空間利用

橋の上で 衝撃の新事実を知る 


平成19年5月7日 午前5時30分 

 只見川によって路盤の大半を奪われ、恐ろしい斜面と化した場面を突破。
突入からおおよそ20分で、約600mほど進んだと思われ、生還が約束される檜原集落までの約半分を攻略した。

この道はいかにも幹線国道の旧道らしく、本来は車が離合できる幅(約6mほど)があったので、幸いにも崩壊を免れている場面では、全く転落の恐怖を感じる事はない。
もっとも、崩れていない場所は森林の一部となりつつあって、時期を誤れば進路を完全に見失うほどの藪となるだろうことが容易に想像される。




 平坦な道を進んでいくと、間もなく、ガードレールに変化があった。
とはいえ、それ以外には進路の状況に変化はない。
私は、特に気にすることもなく、この写真を一枚撮っただけで通り過ぎようとした。
さらに30mほど進んだところで、再びガードレールが元に戻った。

そこに至って、ようやく気づいた。
ここが、区間内唯一の橋として、かつて訪れた同志がその目的地としたこともある、道中最大の遺構なのである。



 だが、これが橋であると気づかず通り過ぎたとしても、無理はなさそうである。
欄干はあるが親柱は無く、しかも山側はガードレールもなく、そのまま法面が来ている。
つまりは、これは桟道(桟道橋)なのである。
全くの事前情報無しでこれを橋だと気づくのは、かなり難しいとさえ思う。
もし路面のコンクリートが一部でも露出していれば気づきやすいのだが。
また、かなり大規模な橋ゆえ名前もあるだろうが、今のところは分からない。



 いくら「橋です」と言っても、レポするにはちょっと説得力が足りないかと思ったので、もちろん個人的な興味もあって、橋の下側へ下りてみた。
蜂の巣がありがちなので、あまり(いや、かなり)橋の下に潜るのは普段避けているのだが、今回は特別。
でも、本当に橋の下は危険だから、注意したい。
この場所に来ること自体は、手頃な斜面があったので、比較的簡単だった。

 しかし、こうして見ると本格的な桟道である。
戦後、この道がまだ現役であった昭和40年代までにかけて、只見川の流域では電源開発を主目的とした多くのダムが新設された。
大量の重量物がこの橋の上を通ったことは想像に難くない。
橋の上に立っていても、この橋の丈夫さに気付くことはないが、縁の下の力持ちとはこのことだ。

 なおこの橋は、歳時記橋上からも僅かに見えるのだが、気付きづらい。
現在地はここだ。




 私が橋の下に潜って写真を撮っていると、橋の上から突然呼びかけられた。
驚いて橋の上に戻ると、その声の主は、先ほどすれ違った山菜仙人氏であった。
そして、その手には私の愛用する携帯用空気入れが握られているではないか。
どうやら、あの木の枝の難所の所で、リュックのサイドポケットから落としてしまったのを、仙人氏が見付けて持ってきてくれたらしい。

 「ありがとうございました!」

 私も先ほどは、「危ないから帰れ」と言われることだけを恐れて素っ気なくしたが、もはやここに至ればその心配もないだろう。
感謝の念も手伝って、私はここで急遽、地元民である仙人氏からの聞き取り調査を開始した。

 私はここで、驚愕の新事実と接することになる!




 「オラミシマンダ」(俺は三島の人間だ)

私の最初の問いにそう答えた仙人氏へと、私はこの道に関する様々な質問をぶつけてみた。
だが、その多くに対しては、ある意味で予想通りの返答が帰ってきた。
つまり、かつてはこの道をバスが通っていたこと。誰もがこの道を通ったと言うこと。なかなかに立派な道であったと言うこと。
また、前から気になっていた「明治道」つまり「川井新道」と、この旧国道との関係についても、「両者は同一であり別路線の箇所はない」という、もっともありふれた答えが返ってきた。
もっとも、これらの言葉を、真実を見てきた人間の口から聞けたという価値は小さくない。

最後にもう一度礼を言って先へ進もうかなどと考えながら、期待もせず、こんな質問をしてみた。(この質問は、大概の場面で私は問うている)

 「 隧道…トンネルなんかは、無かったですよね? 」








…あぁ、 隧道なら

あったよ。







 血が沸々と沸き立つのを感じた。
隧道があったのか?!
そんな話は聞いたことがないぞ。
明治時代の隧道なのか!!


私は、出来るだけ冷静を装って、さらに詳しく訊いてみた。

そうして得られた答えは…

 隧道は既に無い

というものだった。

その隧道は、岩がゴツゴツしており、とても短かったという。
この旧道の先の方にあったが、彼がまだ小さい頃に、道路を拡幅するために壊したのだという。
その場所はどこかという問いには、よく憶えていないが、線路の近くだったと思う、との答え。
いま何か残っているかという問いには、おそらく何も残っていないだろうと。
名前は特になかったらしく、地元での通り名などというのも特になかったらしい。

「ありがとうございました。 行ってみます!」

 「キぃヅゲデナ…」




 余地ゼロ道路 


 5:40  【現在地点】

 桟橋を過ぎても、依然道幅は十分にあり、大量の瓦礫が積もっているとはいえ、チャリを押して通るにはさしたる支障にならなかった。
ただ、踏み跡の濃さは余り前と変わらず、そのことは、この先にもまだ難所が控えていることを予感させた。
そういえば仙人氏にも、この先は自転車では行けないぞと言われたっけな。(乗っていくと思ったのか)
ちょうどこの辺りが宮下(出発地)と檜原と間の最低地点であり、現道の駒啼瀬トンネル中間地点や、旧街道駒啼瀬峠の鞍部に対応している。
宮下も檜原も、ほぼ同程度の高度にある河岸段丘上の集落なので、段丘平面よりも低い位置を通る旧道は、ここから登り始めるわけだ。



 来た。

足を留めさせるに足る、迫力ある遺構が。

ここまでも法面はずっと崖にだったが、この場所から先の数十メートル間は、完全に垂直だった。
壁はまるで、“ぬりかべ”のようにコンクリートで覆われ、しかも見た目の堅牢そうなイメージとは裏腹に、随所に綻びが現れていた。

 これぞ、廃道に相応しい壁の姿だ!



 (←)
コンクリートの壁を見上げていくと…

 (→) 
上の方は霞んで見えません!  


見ての通り、壁は物凄い高さで、地形図の読みでは高低差150mもある。
で、150m上に何があるかと言えば、沼田街道時代の駒啼瀬峠の鞍部がある。
峠側から下が見えるのかは不明だが、見えたとしても近づけないだろうな。






 しかも、なんと

路肩も垂直。

ガードレールはなく、高さ30センチ程度の駒止めが、約50センチ間隔に突起しているのみ。

 これは、恐い。

なお、立てる場所が無いのでよくは見えないのだが、この壁には、凹凸(橋脚?)がある。現在地は、この写真の場所に違いない。









 つまり、こんな道だったわけだ(笑)







 で、そんな恐い道なのに、それを利用者に感じさせないだけの、誠に感服すべき懐の深さがある。

 道幅が大変に広いのだ。

この垂直と平面だけで構成された道が、いったい1メートル広げる度にどれほどの土工量を要したのか。素人考えでも並大抵でないことは分かる。

それにもかかわらず、この100パーセント人為によってのみ生み出された道には、設計者と施工者の強い信念、 “道への誇り” が充ち満ちているかのようだ。

それはまるで、水面下で激しく足を動かして優雅な水上姿を演出する”ヤツ”のようじゃないか!


 これぞ、プロの仕事!
“壁-道-壁” の “余地ゼロ道路” に、私は 神技 を見た!




 だが、いくら万全を期すに足る道幅を得たとはいえ、やはりこの垂直の崖。
頭上から何が落ちてくるやも知れなかった。
突然の落石は言うに及ばず、落雪や雪崩もあったろう。

だが、今日的にはロックシェッド、スノーシェッドが当然設置されただろうこの場所に、現在、その痕跡はない。
撤去されただけという可能性も捨てきれないが…

 否ぁ!!

そんな軟弱なものなどあろう筈もなかった。
なにせここは、職人たちの道。

それを教えてくれた、壁にペイントされた巨大な一字。

 危





 しかし、希代の職人たちも、材料にだけは恵まれなかったらしい。
いまだかつて、ここまで酷い姿になったコンクリートを見たことは ナイ。
おそらく戦後まもなく、昭和20年代後半あたりの施工と踏んでいるのだが、これは相当の粗悪品の犠牲者である。

 写真右。
表面がごっそり剥離崩壊した壁の中から、ぺらっぺらの板材が現れていた。
これだけの大規模の躯体でありながら、内部に鉄筋が使われていないという決定的証拠。
はっきり言ってこの壁、下手な素の壁よりも全然危険です!



 約100mも続いた大擁壁区間の終わり。





だが、 

   その先に道は…









ない。





 次回、最終回!