たった4年で幹線失格の烙印を押された超近接2隧道をいま通過。
崩れ落ちた坑口から這いだした私の眼前に広がった景色。
それは、登りを上回る困難が容易に予想される、おそるべし崖道だった!
昂揚と日焼けのため赤くなった私の顔面は、目の前に押しつけられたような苦難に、失色。
崖に刻まれた、しかも明らかに崩れ放題だと分かる、あの道影を行かねばならない。
そこには日陰は想像できず、狂うような薮にすべて覆われているに違いないのだ!
午後3時04分、みどり猛る海原へ出航!
坑口前には巨大な浸食谷が口をあけている。これを窓にして、六日町・小千谷方面の山間平野部を広く眺望できる。
その眺め自体は、峠を越えたという、別の世界へ来たのだという感慨を十分に満足させてくれるものであったが、と同時に、白く霞む平野の遠さが空恐ろしかった。
距離的には1km以内に車道が近付いているはずだが、あの赤茶けた断崖の縁を渡って往かねばならないことを思うと、安心など出来るはずがなかった。
坑口を一歩離れた途端始まるこの薮!
最初の一歩など、まさに緑色の水面へダイブするような感じだった。
ざぶんという音の代わりに、尖った葉同士が擦れ合う摩擦音が四方で鳴った。
隧道の静寂から、再び薮との交戦状態へ回帰した。
はじめに行く手を遮ったのは、ススキよりは幾分与しやすい葦原なのがまだ救いだった。
こいつらは見た目ほど密度が無いので、押し返されるほどではない。
掻き分ける手足は、ススキなみに傷つくのだが。
もはや、些細な傷を気に留めているどころではなかった。
リュックにはちゃんと長袖も軍手も用意されていた。
だが、困難な場面で何もかも面倒だと思ってしまうのは、私の悪い癖である。
遠くから見渡したときの道の険しい印象は、実際にそこへ立ってみても、変わらなかった。
路上には殆ど平坦な場所はなく、全てが谷側に傾斜しているようだった。
ただ、そこを辿っている最中の視界は薮ばかりで、路面に新しい土砂を積み上げつつある谷を跨ぐ地点の他では、視界がきわめて悪い。
帰宅後に他の時期に探索された方が撮影した写真を見て、どれほど際どい谷縁を歩いていたのかを実感したくらいである。
谷への恐怖度という意味では、夏はかなりカムフラージュされている。(幸か不幸か)
おそらく隧道を振り返って目視できる最後の地点だと思い、落石のために出来た岩山の上に立って撮影した坑口の写真。
2004年頃まではちゃんとコンクリート製の立派な扁額の取り付けられた坑口が現存していたそうだ。
現状の様子から見ると、もう数年で地上から開口部は消えてしまいそうである。
その場合は、坑口右の平場(明治道跡)が唯一のルートになるのだろうか。
廃されてなお、道の変化は一時も休まない。
徐々に浸食されてゆく山並みと道は、運命を共にする。
ふおー。
ヒートアップ。
休憩だ。休憩。
足をもつれさせて転んだままに薮へ腰を下ろすと、思い出したように両腕が烈しくヒリ付いた。
そこには縦横に赤い線が引かれており、所々血さえ滲んでいる。
背丈よりも高い薮というのはよく使う言葉だが(そうか?)、2倍も高いのははじめてかも。
通常、薮とはいえ毎年蔓延っているうちに根本に枯草が溜まってしまい徐々に勢力を失い、やがて林に変わっていくものであるが、この廃道の大部分は傾斜地にあり、斜面側から常時新しい土砂と水が供給され続けているせいか、まずどの薮も元気元気!
毎年のように我が世の“夏”を謳歌しているに違いない。
ただ、遠い未来には道形は全て斜面と一体化し土地ごと消え失せるだろう。
いずれにしても、もう二度とこの土地が我々の元へ戻ってくることは無さそうだ。
天下の国道敷きだったのに。
なんだか、妙に浮遊感がある景色。
薮の上に頭(とカメラ)を出せるのは、新しい崩落地の上とか、法面によじ登って薮を迂回している最中とか。
これはその後者の状態で撮影したのだと思う。
庄ノ又谷の向こうに中将岳の稜線。
おそらく人跡未踏と思われるほどに険しい、痩せた稜線が密集した崖の巣の山。
たぶん、向こうからこっちを見ても同じような景色なのだろうと思う。
一条の道の線が頼りなさげに見えることだろう。
ここから先、しばし息継ぎ出来る場所は無さそうに見えた。
隧道を発って既に20分、振り返ってみると進めた距離はせいぜい150m。
何なんだこのペース(笑)。
溺れてるんじゃないのか、俺。
まだ大海原は途中もいいとこ、ここで力尽きては前代未聞のヤブドザエモンになってしまう。
最高にぬるまったジュースを口に注ぎ、ゆるまった口からその半分くらいがシャツに垂れ、汗と一になり滴った。
熱気にぼうっとする私は、一声雄叫びを上げ奮い立ち、再度泳ぎ出すのだった。生きて還るため。
この景色は、坑口を出てすぐ撮った写真にて、真っ正面の崖にへばり付くようにして写っていた道である。
分厚く緑に覆われているせいか、崖だという実感に乏しい写真ではあるが、実際に薮に潜って歩いてみると、幅の狭い崖の道な事は分かる。
このような薮を突破しようとするとき、木の生えている部分を避けるように、ただ前進するばかりではなく左右にも動くわけだが、そうしてある程度よりも崖側に近付くと、緑の下に突然足が着かなくなる部分があるのだ。
これは、実際に味わうと不思議な気持になる。緑の底なし沼である。
当然そこへ体重を預けてしまえば、スポッと薮を貫通し、崖下へと躍り出る事になるのだろう。
しかし、まったく下が見えないせいか、怖さを感じることもないし、結構大胆に薮を避ける目的でそんな場所に片足をおろして進んだりした。
出発から30分経過。
眼前の景色にはまだ殆ど変化がない。
いまだ、坑口前で見た崖の道を通過中。
通過中つうか、格闘中。つうか絡まり中。
時速…600mのペースだ。
藪を掻き分けるのは根性だけで何とかなると思っている私は、一切それらしい装備(カマとか軍手とか?)を持っていない。
そのくせ、たかり来る虫が嫌なのでかなり強烈な塗り薬タイプの虫忌避剤を塗りたくって、顔はてかてかだ。
中学生当時のチャリ馬鹿トリオ時代から全く進歩のない、29歳 男 夏。
ダウーン!
またしても足がもつれ転げる。
そして、ダウーン。
この顔が、全てである。
辛いんだって、実際。
かなり歩いたつもりだったが、実際には振り返ればまだ坑口ははっきりと見えていた。
この谷を迂回するために、殆ど高度を変えず大きく迂回しているのだ。
また、夏場とはいえ隧道を迂回する明治道らしき痕跡も確かに見えていた。
写真でも分かるが、午後3時をまわって陽の光はこの日の最高潮を迎えていた。
空の白飛びした色は、そのまま肌に感ずる熱さのようである。
かなりこまめに休息しながら進んでいたが、体に篭もった熱はもはやどこへも逃げていこうとしなかった。
ただひらすら、溺れるような緑の荒波が続いた。
漂流は許されず、自ら切り開かねばどこへも行けぬのが、海の波との違いであった。
ときおりこのように視界が開けても、同じ景色が延々続いているように思えた。
実際、私のペースは過去のどの探索以上に鈍かったことだろう。
出発から40分。
ようやく、ようやく坑口前で見えていた全行程を攻略!(距離にして500m足らずである)
尾根を回り込むヘアピンコーナーらしき場所に到達した。
ここから先は、いよいよ本格的な六日町方面への下り坂となるはず。
そして、現役の県道にぶつかるのもそう遠くない。
生還がやっと見えてきたか。
はじめて、この眼前の美しい眺望に心を躍らせる余裕が出来た。
なお掻き分け掻き分けカーブを曲がってみると、次に視界が開けたとき、眼前には緑一面の小谷が開けていた。
地形図を見るとこの先に深い掘り割りが描かれており、どうやらこの谷が掘り割りそのもののようだ。
かなり規模の大きな土木工事が行われている。
果たして昭和か、或いは明治の開鑿時であろうか。
時間的にこの先の道は全て日陰となり、また心持ち薮も浅くなったので、一気に歩幅は大きくなった。
ほおう。
これは立派な、そして広い掘り割り道だ。
これが峠だと言われても納得できそう。
古道のわびさびを感じさせる、年中日の届かぬ深い切り通し。
ここを、通勤の車も観光客も、路線バスもまた通った。
現在の踝まで抜かるような路面からは俄に想像できないが、道幅の広さには説得力がある。
年期を感じさせる法面。
これだけ鋭角な崖だが、人工的な補強がされていた痕跡はない。
あくまでも自然に任せた施工だったのか。
程度の良い古道というのはみな、人の作為と自然の寛容とがゆったりと同居している。
だからこんなにも美しいのだろう。
居心地が、よい。
これまでの苦難を(大袈裟でなく苦しみそのものだった)、淡い光りがいたわり、慰めてくれるように見えた。
ここは、責め苦の如き夏の八箇峠旧道にあって、ただ一箇所の落ち着ける場所だった。
迎えの車道(県道560号、旧国道を利用した現役車道)がすぐ近いはずだが、掘り割りを真っ直ぐ突っ切った先に、再び深いイタドリの薮が現れた時も、その気配は感じられなかった。
向こうは見えず、薮地獄が再開するのかとうんざり思った。
だが、何が何でも脱出するまで足掻き続けるのみだ。
き、きた。 出た。
助かった。
掘り割りの、すぐ20mも先だったが、実際に最後のススキ薮を手で払い寄せるその瞬間まで、近付いている事が分からなかった。
それほどまで、全く踏み跡など無い廃道だったのだ。
少なくとも夏場は。
これこそ、廃道。
その事実に、これまでの激藪への納得いく説明が得られたと思った。
これが、県道からの入口である。
この場所が分岐地点だと思う人が果たしてどれほどいるだろうか。
慣れた私でも、よほど地図をよく見て確信しなければ、ここから分け入ろうとは思わない自信がある。
ほんの一筋も道の気配など無い。
しかも悪いことに、ここから見る遠くの掘り割りも見えず、若い杉の植林地だけしか見えない。
県道の何気ないヘアピンカーブを直進するのが、いまから35年前までの国道だったのだ。
当時はまだ県道が無かったから、一本道だったのだろうが。
坑口よりの覚悟の出発から45分。
その距離はたった700m少々であった。
しかし、登ってくるのと同じか、それ以上に苦労した。
薮が深いだけではなく、気を抜けない急傾斜地の連続であったし、道の痕跡がまるっきり無い場所も、結構あったように思う。
薮のため正確な路面を把握できなかったのだが。
私は、熱せられたアスファルトにも厭わず転がった。
生還の歓びを噛みしめる時間が、少しだけ必要だったのだ。
峠旧道全体では、約2.3km、2時間の行程となった。
あとはこの足元の県道を現国道まで1kmほど下って、さらに国道の八箇トンネルをくぐり車へ戻るだけである。
チャリなら楽しい道のりだが、アスファルトの歩きは嫌いだー。
この県道もまた、旧国道を改良した道。
しかし、旧道として特に興味深い景色はないようだった。
普通の1車線の舗装路だが、魚沼スカイラインと呼ばれる観光ルートなので通行量は結構ある。
ここから見渡す景色は格別だった。
恵みのエネルギーを秘めた美田の広がる平野、ゆったりと点在する町並みは清廉で、背景はメリハリのきいた山並み、そして空。
目を川上へと向ければ、累々と重なるような黒い嶺々。近代まで絶対的隔絶を誇った山嶺の有無を言わせぬ迫力。
今晩の宿泊地である関東、首都東京は、その向こう遙か彼方だった。
また、眼下の国道の峠道もまた目を引く存在だった。
のたうつ白竜の如きスノーシェルターが、近未来的で異質な光景を見せていた。
写真に紹介した標識はこのシェルターの入口付近に設置されていたもので、実際にこの形のカーブが一本のシェルターに収められていて、距離も1km近くある。
線形に劣る八箇峠の、通年通行確保のための苦肉の策だ。
1km足らずの旧県道を歩いていくのがだるく、斜面を強引にショートカットして現国道、八箇トンネル前に着陸。
正面に何食わぬ顔でいるこの稜線を超えるのに、さっきまで散々苦労したのである。
旧八箇峠は、ふみやん氏の語りに勝る壮絶な峠道だった。
夏場は、「閉塞」である。
隧道は未だ辛うじて開口しているが、夏期閉鎖である。
1時間後、車に戻って着替えた私は、全身の切り傷の凄まじい痛さに改めて己の無茶を知った。
そして、冷房の効きが弱い車にハァハァしながらもトンネルをくぐって、さっきは近くまで来ながらも無視してしまった県道と国道との分岐地点へ。
本来の旧国道はここから始まるのだが、今は観光道路の顔になっている。