簡単なチェーンゲートによる封鎖を越えると、一気に砂利に刻まれた轍が鮮明になる。
それから間もなくして、先ほど谷底に見えていた溜池とはまた別の池が、左側に現れる。
これも人工的な溜池で、旧道がちょうど堰堤の役割も兼ねている。
路幅も、前後に比べて少し狭い。
何気ない景色だが、実はこれって珍しいと思う。
一般に、幹線道路がダムの堤体の上を通ることは稀だが、特にこのような土製の堰堤上を通っているというのは、見かけない景色だ。
重量車の頻繁な往来がダムに悪影響を及ぼすから、このような道は少ないのだろうと想像できる。
ちなみに、写真に写っている向こうを向いた標識は、赤白帯の「進入禁止」標識だった。
旧道が堰き止めている大きな溜池。
特に名前は無いようだが、立派なものだ。
少し小さな体のカモが二羽、つがいだろうか、木陰の水面に浮かんでいた。
そして、しばらく離れていた現道が、この溜池の対岸の斜面の高いところを通っており、この先ですぐに再接近する事になる。
以後は最後まで、旧道とは付かず離れずの関係を保つことに。
溜池を過ぎると、分かりやすいことに、すぐに谷間を水田が埋めることになる。
そして、「峠の清水」「老松」についで3番目のハイライトシーンが現れる。
ここが、この旧道の最後にして最高のベストショットだと思う。
写真左に続く轍がいま走っている旧道のもので、右から登ってくるのは田圃に続く農道だ。両者は先の方で一本になって藤集落へ下っていくのだが、この合流する辺りの風景が、私はとても気に入ったのだ。
今度は、農道と旧国道の合流側から、峠の方向を振り返って撮影。
この景色の主役は言うまでもなく、旧道に架けられたコンクリート製の重厚な桟橋である。
路上からではその存在に気付くことはまず無いが(橋の上も砂利なので)、こうやって道の外から見れば見逃すことは有り得ない。
今回紹介する一連の藤峠旧道区間内で、唯一現存する橋である。(スタート地点の旧反場橋は現存ではない)
なにか、見ているだけで優しい気持ちになれる風景だ。道路好きの魂が癒される。
不思議なのは、なぜわざわざ路肩を桟橋にしたのかということだ。
土で埋めてしまっても良さそうなものだが…。
それに、斜面に数本の木が生えているのも、どうして全て伐ってしまわなかったのか。
現代の画一的で規格的な道路風景には全く当てはまらない、少し古い言葉だが、ファジーな道風景だ。
大袈裟でなく、この場所の四季の風景を見るためだけに再訪したいぐらい、気に入った。
15:27 【現在地:藤の桟橋】
農道へと降りて、桟橋をすぐ近くから撮影した写真。
思うに、昭和14・5年の車道改築工事のときに、拡幅のために設置されたものだろう。
普通に石垣とかで終わらせなかったのは、その当時斜面の下は田圃や農道ではなく、水の流れがあったのかもしれない。
どうも腑に落ちないが…。
近くに人影もなく、結局この桟橋のわけを知ることは出来ずじまいだった。
どうやら、楽しかった藤峠の旧道も、終わりが近いようである。
桟橋を過ぎて少し行くと、真新しい舗装が現れた。
田圃や溜池があるのだから、この辺りは柳津町の町道になっていてもおかしくはない。
人家もじき現れそうだ。
しかし、このあと思いがけぬ展開が待っていた。
オワッ!
道理で誰とも会わないわけで、一旦は里も近いと思われた道であったが、突如。道の真ん中でアームを振り回す重機が通せんぼ。
作業員たちも、行き止まりの道の奥から人が来るなんて思っているわけもなく、案の定、私の接近に誰も気づかない。
絶え間なく鳴り響くディーゼルの咆吼に遮られ、私のオドオドした接近の気配など全く、作業員達のいる向こう側に届かないのだろう。
相手がいることだけに、これってかなり嫌なピンチです。
前に工事現場でバイトしたとき、アームの旋回半径内には死んでも近づくなとドヤされたしな…。
「すみませーん!」
「すみませーーん!」
「すみませーーん!」
負けじと私も咆吼すること三度目にして、運転台のおじさんが私に気づく。
作業を一時中断していただけたので、私は安全に通り抜けることが出来た。
まあ、立ち入り禁止だなんて、来た方向には告知無かったから…許してくれるよね。
ちなみに、レポ第二回で見た西会津側の旧道入口に積んであった土嚢は、この現場で使っているものと思われる。
現国道と旧道の間の斜面の治山工事らしい。
工事現場を越え、今度こそ一般車も通る道になった。
さて、後は現道と合流するだけで終わりなのではあるが、ここから先合流までが、意外なほど長い。
次の地図を見ていただければ、そのしつこさが(笑)がお分かり頂けると思う。
既に斜面一つを隔てるだけになった両者だが、なお800mに亘って合流しない。
進めば進むほど現道の築堤は低くなってきて、もう、いまにも手が届きそう。
しかし、合流はしない(笑)。
お陰様で、旧道は本当にのんびりと走れる。
写真前方の現道と旧道の隙間の木立には、傾いた小さな墓標が、無数にあった。
不謹慎だが、流石にここは静かに眠れないのではないか?
峠のてっぺんから約3kmで、ようやく藤集落の家並みが現れた。
明治15年に三島通庸によって、越後街道を束松峠から藤峠経由に遷す計画が公表されたおり、この藤村の人たちの結束と行動は早かった。
代々村の総代を務めた家には、いまも県令に対し一部工事費の寄附を願い出た記録が残っているのだという。
そして、計画通りに新道が開削された後は、それまで寒村に過ぎなかった藤は一挙に交通の要衝に変わり、越後街道を運搬される大量の塩や絹の継立てに賑わったという。
束松峠沿道の村々が、もし藤峠が開削されるより少しでも早く積極的な行動を起こしていれば、或いはいまの国道はここを通っていなかったのかも知れない。
そんな藤集落も、モータリゼーションに伴う輸送網の発達によって、再び静かな農村に戻った。
すぐ隣を忙しなくトラックが駆ける国道は通っているものの、村の中央を通る旧道は、その幅の広さが寂しいくらいだ。
旧道沿いに東西に長く村並みは、まさしく道を中心に発達した歴史を証明するものだが、ここを南北に一般県道151号山都柳津線が貫いている。
その交差点にある2枚の青看が、現在の旧国道にある唯一の案内標識である。
もっとも、旧道については完全にスルーされている。
集落を突っ切ると、ようやく合流地点が見えてきた。
そして、その先にはスカイブルーの巨大なアーチが見える。
これは、昭和60年に完成した4代目の藤橋で、「藤大橋」と名付けられている。「トラスドランガー」形式としては日本有数の規模だという(橋の全長は218m)。
実は、明治の熾烈な「街道戦争」において峠自体の通行の難易以上にその明暗を分かったのが、この只見川の渡河の問題だったのである。
県令が束松峠にかえて藤峠を選んだ理由に、この地の架橋のしやすさがあったと思われる。
束松峠の方は只見川に江戸時代から続く「片門の渡し」があって、もとより舟運に適した水量の多い場所だったから、明治期の架橋は困難で、舟橋を設置したものの度々破損したという。
一方、この藤には明治17年に初代の藤橋が落成し、木製ではあったがその全長が108mもあったという。
そして2代目のコンクリート橋が昭和2年に竣工、さらに同28年に3代目に架け替えられた。
15:42 【現在地:藤の新旧道合流地点】
橋のすぐ手前が合流地点になっている。しかし、特に標識はない。
なお、新旧道の取り付けの不自然さを見る限り、旧道時代の2代目か或いは3代目の藤橋は、もう少し写真右手(上流)の旧道側方向に架かっていたと思う。
この日はここで引き返したので、旧橋の痕跡が何かしらあるのかは分からないが。(河川敷として更地になっているようだった)
ちなみに、只見川を渡った道はすぐに七折峠へ差し掛かる。
そこを越えて初めて、会津盆地の入口であり、束松峠の道との分岐地点だった塔寺(とうでら)へ辿り着く。
また次の訪問に、その楽しみはとっておこう。
オマケの写真集。
現道から見た旧道の諸風景。
ここまで紹介した道を、数枚の写真で振り返ってみる。
高い築堤をもって、旧道に並行しながらもフライングで峠への高度稼ぎを始める現道と、田園風景の中の旧道。(上写真)
旧道にて工事現場に遭遇し焦った直上に架かる巨大な桟橋。(右上写真)
旧道で目撃した城壁のような桟橋とは、余りに異なる景観だ。
溜池の堰の上を通る旧道の姿(左)。
このすぐ先で、チェーンゲートによって通行止めになっていた。
これは現道から見る最後の旧道。
この辺りの旧道は既に通行止めなので、左の写真とは路面の感じが明らかに異なる。
しかし、上から見ると同じ作りの道であることは明らかだ。
本当に、いい旧道だった。
旧道を見下ろす事を止めた現道は、すぐに峠のトンネルに入ってしまい、私もあとはただ車に混ざって帰るだけだった。
昭和46年に完成した全長298mの藤トンネルが、明治の峠路を破壊から救ってくれた。
感謝する。