道路レポート 函館山の寒川集落跡への道 第1回

所在地 北海道函館市
探索日 2022.10.27
公開日 2022.11.03

人口25万、北海道第三の大都市である函館は、本州の青森との間を結ぶ青函航路の一端を擁する、道内有数の港町でもある。

地図上に見るその中心市街地は、両側を海に囲まれた小さな半島状の地形にあり、半島の先端部にその名も函館山という標高334mの独立峰を持つ。地学的に観察すると、ほんの数千年前まで函館山は函館湾に浮かぶ孤島だったそうだが、発達した砂州によって北海道の本体と結ばれたのだという。

夜になれば25万が灯りを点す大都会が、低平で狭小な砂州に立地している。これを極めて間近に聳える函館山から眺めたら、どうだろう?
それはもう、いうまでもない。



函館山から見る函館の夜景。 撮影・提供:たかぞー(@takaxo)さま


←超絶素晴らしい夜景が見られるに決まっている!

函館と言えば夜景という刷り込みが発生するくらい、押しも押されもしない日本三大夜景を飾る展望台であることが、函館山のアイデンティティだと思う。
少なくとも、生まれて初めての北海道旅行が修学旅行で、夜にわざわざ集団行動をして夜景を眺めた体験を持つオジサンの私には、そんな刷り込みがある。

以来、大人になってから函館に寄り付いたことといえば、青函航路を利用した際に通りがかった数回だけで、明るいときに街の様子を眺めたことは、今年45歳になるまでなかった。
だが今回初めて、函館に探索するべき廃道ありとの情報を得て、函館のシンボル、函館山を舞台とした探索をした。




『深夜航路』より転載

夜景しか知らなかった函館に、オブローダーとしての私の熱視線が注がれたきっかけは、2018年と2020年にそれぞれ別の方から寄せられた情報提供メールだった。

平成30(2018)年12月に寄せられた“てー、てー”氏の情報提供メールには、次のような興味深い内容があった。

既知の物件かもしれませんが『深夜航路』というフェリー乗船記の津軽海峡フェリーの章では、函館山寒川集落への廃道が紹介されています。
断崖に刻まれた細道のため、筆者はチャーター船で海上から観察された様で、その写真が数枚掲載されています。
その中には洞窟を避けるために架けられた吊り橋の主塔の写真も有ります。
実際に踏破するのは難しいでしょうが情報まで。

“てー、てー”氏による情報提供メールより

これが、私が函館山に存在した寒川という廃村と、そこへ通じる廃道の存在を認知した最初だった。
海沿いの断崖に刻まれた道、海面を渡る吊橋、実際に踏破するのは難しい……。挑戦的なワードがいくつも並ぶ。

当然、情報源として提示された『深夜航路 -午前0時からはじまる船旅-』(2018年、清水浩史著)を入手して、その内容も確認した。
そこには右に転載した、主塔だけが残る吊橋という衝撃的な写真を含む、オブローダーを堪らなくさせる過酷な廃道の景色写真数点と共に、隧道らしきものの写真まであった。
さらに本文として、著者がチャーター船に乗って海上よりこの廃道や、寒川集落があった函館山の海岸線を眺める描写、そして関係者からの聞き取りや資料から得られた寒川集落の来歴なども、書かれていた。
私の廃道探索のきっかけとしては、やや出来が良すぎるくらいの情報源だった。
しかし、集落跡へ通じる唯一の陸路だと本文で明記されている吊橋が、ものの見事に架かっていない! ……しかもその足元が波濤渦巻く海であることは、この道の踏破を目指す上でのあまりにも大きな障害だった。


……この情報提供を得た2018年というのは、私が新たな探索手段を手にした記念すべき年であったので、この障害の突破方法は、はっきりしていた。
しかし、それを直ちに行動に移すには、当時の私はあまりにも“新たな探索手段”に拙く、もう少しの経験値、いわば修行が必要だと考えた。
そうしているうちに、数年が経過していったのである。

そして、令和2(2020)年3月、今度はsdtm氏という方から、同じ寒川集落に関する情報提供メールを頂く。



sdtm氏の情報提供メールに掲載されていた写真

函館山に登り、寒川コースという廃登山道(通行禁止になっている)を利用して海岸に降りると、かつて山麓にあった寒川集落の跡地にいくことができます。
東へむかうと、未成の廃隧道があります(写真)。潮位が低かったため、少し中をのぞくことができました。
かつてこの集落には、函館山西岸の道からのアプローチができたようですが、現在は橋が落ちていて、寒川コースからしか到達できません。なお、海岸沿いの道には貫通している隧道もあるようです。

sdtm氏による情報提供メールより

ここについに、陸路から集落跡がある海岸線に到達した探索者が現われた。
函館山から300m近い高低差を克服して海岸へ通じる「寒川コース」という封鎖された廃登山道が存在するらしく、この道を踏破することで、陸路による到達が可能だというのである。

しかも集落近傍の海岸線には、“未成の廃隧道”と解釈されるモノまであるというのである! (右画像がその坑口で、海面に近すぎて海蝕洞のようにも見えるが、同封された内部写真は確かに人道規模の隧道に見えた。しかし、未成であるというのは、行先のない隧道という意味なのだろうか…?)


さあ、これで行き方は二通りが示されたぞ。
探索をこれ以上引き延ばしている理由はなくなったな!


ここで、この廃道の目的地であり、現役当時ほぼ唯一の利用者であった寒川集落の位置を、地図から紹介しよう。

右の画像は、昭和26(1951)年版の地形図と、最新の地理院地図の比較である。

見るからに大都会である右半分の函館市街地と、複雑な等高線の模様から突兀とした山岳風景が窺い知れる函館山の対比の凄まじさは、現在も昔もほとんど変わりはない。
だが、旧地形図をよく見ると、函館山の西側の海岸線に沿って1本の道が描かれていて(緑線の部分)、その行き止まりに近い位置に、「 寒 川 」の2文字を見つけることが出来る(赤丸の部分)だろう。

そう、ターゲットは函館の市街地から函館山を隔てた、“裏山”と言うべき位置の海岸に存在する!




左図は、集落跡や道があった部分を拡大したものだ。

昭和26年の地形図には、函館の観光スポットとして知られる外人墓地のある船見町(旧名:台町)や入舟町(旧名:山背泊町)のある函館山北西岸から、海岸沿いに寒川へ通じる道が描かれており、集落に全部で6戸の家屋が狭い海岸線に並んでいることも確認できるが、道はいわゆる徒歩道を意味する「小径」の記号で、その途中には「穴澗(ま)」という注記がある崖に囲まれた小さな岬が描かれている。

この「穴澗」こそが道中最大の難所で、先ほど見ていただいた『深夜航路』の落ちた吊橋の写真も、この穴澗で撮影されたそうだ。

一方、比較した現在の地理院地図では、集落も道も穴澗の注記も全て消え、ただ地形だけは変わらず険しい姿でそこにある。(情報提供にあった「寒川ルート」なる廃登山道も、描かれていない。)
これを見る限り、函館山の西岸は原始のままの海岸線だと信じそうだ。

そしてこの海岸に面した沖合を行き交うのが、函館港に出入りするあらゆる船舶である。
そこには青函航路を往く津軽海峡フェリーや青函フェリーの旅客船ももちろん含まれる。
人目に付きづらい函館山の裏側と思いきや、実はこの地を目にするだけなら容易くて、デッキからでも船室からでも、天気が良くて明るい時間に青函航路を旅すれば良いのである。
まあ、私を含めたほとんどの人は、敢えて意識をこの海岸線に向けてこなかったと思うわけだが……。

だが、函館山の100万ドルと持て囃された夜景を魅せる“表側”と、あまりにも人の気配に乏しい“裏側”の海岸線。
この強烈な対比が、『深夜航路』著者の感性を激しく刺激し、本来冒険好きの著者が(彼の『秘島図鑑』は愛読書の一つだ)フェリー深夜便を紹介する内容をそっちのけで多くの誌面を、廃村と廃道への言及にあてさせたようだ。

(チャーターした)漁船で目指すは、函館山の海側。このあたりは、断崖絶壁のため陸路では近づけない。函館山は、明治時代後半から第二次世界大戦までは一般の立ち入りが禁止されていた要塞だった。そのことからもわかるように、周囲の大半は海から切り立った崖になっている。ゆえに、青函航路の船上から函館山を眺めると、人工物が見当らず、こんもりと深い緑に覆われた山に見える。
2016年12月に青森行の青函フェリーに乗った際は、函館発が午前2時だったため、函館市街の灯が船上からもよく見えた。そして、煌々とした街の灯とは対照的に、黒々とした影絵のような函館山が異様な存在感で鎮座していた。街の明るさと函館山の暗さのコントラストが、何より印象的だった。

『深夜航路』より転載

ここに登場する、函館山が明治から太平洋戦争まで要塞地帯だったという記述は重要である。ここは津軽海峡を防備する、津軽要塞に属した。
全国の要塞地帯はどこもそうだったが、部外者が地帯内に立ち入ることはもちろん、近隣地帯での撮影や模写などの記録も禁止されており、このことは寒川集落をより秘密めいた存在としていた理由の一つだった。
集落は要塞地帯の中にポツンと所在を認められていた(その理由があった)が、それでも砲台が存在した函館山を越えて函館市街と通じることは許されなかった。そのため、海岸沿いに穴澗の難所を越えるか細い陸路か、あるいは小舟を使った海路で函館市街と行き来をするしかなかったのである。

陸の孤島を絵に描いたような寒川の地に、敢えて人が住んだ理由にも素朴な疑問を感じるところだが、これについては――

寒川集落のはじまりは、明治17(1884)年。
総勢8戸20名の漁師が、富山県宮崎村から入植した。浜辺の手狭な場所ではあったものの、ここには湧き水が流れていた。当時、寒川の沖合では、ブリやマグロ、イカなどが豊富にとれた。

『深夜航路』より転載

……といった、一般的な北海道開拓のイメージである農民的集団移住とは異なる、漁場開拓的な理由であったようだ。
最盛期には富山県人を中心に60名以上が暮らしたそうだが、もともと生活の基盤が脆弱であり、戦後は一気に離散が進んだ。そして昭和29(1954)年に我が国史上最悪の海難事故を函館湾に引き起こした洞爺丸台風によって集落も決定的なダメージを受けると、ほとんどの住人がこの地を離れた。昭和32(1957)年に最後の住人も離村し、おおよそ70年続いた寒川は無人に帰したそうだ。




といったところで、受け売りの前置きは終わろう。

ここからは、私の探索の話をする。

まず、選ばねばならない。

私の伝家の宝刀であるところのカヤックを持ち出しての海岸ルートからのアプローチか、函館山から下る廃登山道を用いたアプローチのどちらを使うか。

これについて、今回は前者をチョイス。
というのも、集落が存在した時代の生活の道としては穴澗を越える海岸ルートが王道であったようなので、できる限りこのルートに沿って探索を進め、集落跡へ辿り着きたいと思ったのである。

あと、せっかくの修行の成果を試したいというのも、もちろんある(^_^)。初投入からもう4年も経つし、もう少しは活躍しているところを見せたい。(廃登山道についても、今後別に探索する可能性はある)

これで計画はだいたい決まった。
あとは、いつやるかだ。
絶対に重要なのは、海況がとても穏やかであること。
『深夜航路』でも、チャーター船の船長が、この海域は荒れやすいということを述べているくらいだ。無防備に手漕ぎのゴムボートを浮かべられる海じゃない。

2022年10月、念入りに日和を探り……

決めた!

予報を見ると、10月27日の明け方から午前中にかけては前日に続いての晴天で、かつ風も極めて弱く海上の条件も良いと考えられたので、前日に青森港を出る最終便23:30発の青函フェリーに荷物を満載した愛車と一緒に乗船した。函館着は当日3:20で、計らずも私も“深夜航路”でのアプローチになった。もっとも船内では爆睡していて、例の黒々とした影絵の如し存在感を見せたであろう函館山を見ることは適わなかった。
函館着後夜明までの2時間半は、市内での移動や、セイコーマートでの「ザンギ焼きそば」購入、そしてカヤックの準備に使い……




5:48 《現在地》 探索準備完了!

いざ、幻の集落へ!




 絶対的途絶を魅せる、“ 穴 澗 ”


2022/10/27 5:48 《現在地》

薄暗い写真で恐縮だが、まだ日の出前だ。
道の行き止まりに車を停めて、来た道を振り返っている。
ここは函館市入舟町の町外れで、現地にはそれと分かるような看板類は全く無いが、地図によって「穴澗海水浴場」(スーパーマップル)であったり、「入舟前浜海水浴場」(グーグルマップ)の注記がある。当然、10月末の早朝に、海水浴場の賑わいは無縁だ。

浜前の道沿いには海の家ではなく普通の民家があるが、隣には漁場番屋風のバラック然とした建物も建ち並んでいるなど、道路が未舗装であることと合わせて雑然とした雰囲気があった。それがいかにも前時代的な町外れの印象を与え、一言で感想を申せば、孤独な朝を迎えるにはいささか寂しい場所だった。わずか1.5kmの至近距離に市電の終点である「函館どつく停留所」があり、町外れといっても決して不便な立地ではないはずだが、地図に描かれている間近な注記が斎場やら墓地ばかりというのも、外縁という印象を特に深くしていた。



しかし、かつてここはまだ“町外れ”ではなかった。

なぜなら、この先に寒川という富山県の漁民が住まう小さな漁村があったからだ。
市電の駅からここまで約1.5kmだが、ここから寒川集落の入口までの距離は、さらに1.3kmくらいあったようだ。
数字としては大した距離ではないが、容易でないことは事前情報から判明している。
私はこの距離を、“舟”と“足”とで、埋めたいと思う。

先ほど「道の行き止まり」と書いたが、寒川に伸びていた陸路の名残はまだあった。
それはオブローダー受けのする閉じたゲートとして、すぐ近くで朝露に濡れていた。




突然明るい写真になったが、これは同日の日中に改めて撮影した、閉じたゲートの様子だ。

道路だけでなく、道路と同じ高さにある土地全体をフェンスで封鎖していて、これ以上海岸線を南下できないようにしている。この先の土地は、かつて採石場であったそうだが、現在は終了しており、跡地を函館財務事務所が管理しているようだ。同所名義で立入禁止の看板が立っていた。

オブローダー的には、フェンスの脇をすり抜けて先へ進むのがセオリーだろうが、今回は敢えてしない。しない理由がある。



今回の計画では、この車を停めた車道の終点から、直ちにカヤックに乗り換えて進む必要がある。

というのも、私のカヤックは空気で膨らませるタイプ(インフレータブルカヤック)なのだが、積載量に余裕を持たせるため2人用を1人で使用しているため、膨らませる前の収納状態でも結構な大きさと重さがあって、陸路を何百メートルも持ち歩くのはキツイのである。
だから、車を停めた地点から直ちに海路を取りたいのだった。

そんなわけで、今回は右図の通り、「現在地」でカヤックを膨らませて出航する。
出航後は、海上を南下し、吊橋が落ちているために陸路が途絶えているとされる「穴澗(あなま)」を通過することが、カヤック唯一の目標である。
通過後はそのまま海路で寒川集落跡に上陸することも可能だろうが、出来るだけ陸路を重視したいので、上陸可能な地形を見つけ次第早急に上陸し、陸路で集落跡を目指すプランだ。

仮に右図のプラン通りに行動出来たと仮定すると、カヤックでの移動は片道約800mで、その先の陸路は寒川集落の最も南(集落の外れで、“未成の隧道”があるとの情報あり!)まで片道約1.5kmの歩行となるはずだ。


山行がでは久々かつ2度目の登場となったINTEX社の2人用インフレータブルカヤック「EXPLORER K2」が、いま陸上でスタンバイ!

収納状態からの組み立て(というか膨らまし)には15分くらいかかるが、暗いうちから作業を行い、夜明け前に準備は万端整った。

振り返ると、山行がでのカヤックは2018年のデビュー以来もう4年が経過しているが、レポートへの登場機会としてはまだ2度目だ。実際の探索での使用回数は15回目くらい。ちなみに同じ機種で一度買い換えているので、これは2号機だったりする。




経験者なら分かると思うが、カヤックでの大きな悩みどころというか腕の見せ所は、どれだけスマートに陸から漕ぎ出せるかというところにあると思う。

カヤックに適した海況であることはいうまでもないが、その前の段階として、漕ぎ出しに適した地形を見つけ出すこと、そしてそこまで自力で舟を移動させること、上手くバランスを取りながら荷物を載せつつ自分も乗り込むこと、そして漕ぎ出し…、この一連の岸辺作業の部分が、最も転覆や破損(ゴムのカヤックは岩に強く擦るとパンクしてしまう)のリスクが大きい。

今回は、海水浴場と呼ばれているにしては荒々しい、おそらく採石によって切り出されたらしき大岩がゴロゴロしている岩石海岸からの漕ぎ出しであり、これは個人的には好みだった。砂浜からの漕ぎ出しよりも難しそうに見えるかも知れないが、実際には遠浅の砂浜は波の影響を受けて漕ぎ出しにくいので、遠浅でない岩石海岸は、出航地点としては理想的だ。



いよいよ岩場に舟を浮かべ終え、後は乗り込むだけの段階だ。
サンダル履きの足を目が覚めるような海水に洗われながら、深呼吸と共に函館湾をいっぱいの視界に望見した。
湾の向こうの北斗市の海岸線までスッキリと見通せた。
深夜航路の終わりを告げる早暁の連絡船(奥の大きな船体は津軽海峡フェリーのブルーマーメイドだ)が滑るように入港していく。

我ながら感動的なほどの海の穏やかさである。凪いでいる。おそらくこれまでの海上でのカヤック時の海況としては、2番目の穏やかだった。願ったり叶ったりである。
とはいえ、朝に平穏だった海が昼には荒れているなんてこともザラにある。今日の予報なら急激な時化はないと思うが、この理想的な凪を最大限に活用するには、時間を惜しんですぐに出航すべきだ。まだ日は出ていないが、それも間もなくだ。

5:54 出航。




離岸成功。

波と呼べるほどの纏まった水の動きを持たない渚を、1本のオールに操られたカヤックは涼やかに離れた。

海上に出て最初に感じたことは、真水のように透き通った海水への驚きだ。
これは東北地方の海を見慣れている私にとっても驚きで、25万人が暮らす大都会の面前にこの海があるのはなんとも羨ましい。
波が穏やかなので浅からぬ海底までスッキリと見通せて、その立体的な映像美は空中浮遊を思わせる感さえあった。




唐突だが、道路というのは、陸の楽しみとしては最高のものだ。しかし、好き過ぎて目を離せないが故に、陸にいる限りは決して逃れることの出来ない軛(くびき)でもある。そこから強制的に切り離される水上旅行は、私にとって開放の楽園であった。

何年も前から島旅と船旅に深い愛着を持っている私が、小さなものではあっても自前の舟を手にしてしまえば、そこに填まり込むことは、自分を雁字搦めにする癖がある道路愛好へのカウンターとして、自然の道理であったと思う。いま私は解放の海に躍っている!!

とはいえ、心ははしゃいでも、実際の行動は極めて臆病だ。陸から必要以上には離れないし、慎重に海底の浅薄を見極めながら最短距離で目的地へ向かって漕いでいる。ライフジャケットがあっても、海上で不慮の事故に遭えば、陸のようには助からない。いかなる凪でも緊張感は強い。



6:01 《現在地》

採石場だった岩石海岸を横目に5分ばかり漕ぎ進めた。
穏やかな海をのんびり漕ぐと、私のカヤックは、ちょうど歩行するくらいの速度が出る。
5分間で300mほど海上を南下し、早くも採石場エリアの先、いかにも陸路の往来を妨げる障害として分かり易い切り立った海崖が、岬のように突出した風景が近づいてきた。
現代の道路があったら、確実にトンネルで貫いていく地形だろう。

最大の難所とされた穴澗は、もう間もなく現われると思う。

ん?!




さっそく隧道を発見!

今回の探索にあたっては、お二人からの情報提供メールの内容と、『深夜航路』の内容だけを事前情報として入手済みであったが、『深夜航路』にもこの隧道の存在は記載があり、著者の清水氏は私が車を停めた地点から陸路でこの隧道を訪れ、くぐって失われた穴澗の吊橋へ達していた。
したがって私も隧道の存在を知っていたわけだが、肉眼で目にする印象は当然にして新鮮さがあった。

もともと寒川への道は完璧な人道で、一切の車両交通を容れないものだったというが、なるほど、隧道のサイズからもそれが如実に感じられた。現代的要素を全て排した純人道サイズの隧道が、岩壁の基部に怪しい黒口を開けていたのである。




このとき、すぐさま上陸して隧道へ訪いた衝動が起こったが、
グッと堪えて、その楽しみは帰路に回すことにした。
まずは今の最良と思われる海況であるうちに、穴澗の難所を突破してしまいたい。

というわけで一旦スルーして先へ進む。
この写真の左側に聳えている黄土色の岩脈を、隧道は貫いている。
その先に岬を形成しているさらに大きな岩脈があり、こちらは隧道ではなく、
海岸スレスレの岩場を回り込むような形で寒川道は通じていた。



6:04

現在、海岸線から30mくらいの間隔を空けて、穴澗のある岬を通過中。

北海道の海岸線で良く目にする、溶岩が直接海水に接触して作られたらしき豪快な岩脈だ。
しかも、汀線近くに波蝕棚や磯場がなく、いきなり深い海へ落ち込んでいる。
ここに道を通すのは固い溶岩を砕いて作るよりなく、たとえ人道でも容易ではないだろう。
そして、その道を通ることが死の危険と隣り合わせであったろうこともまた想像に難くない。

こんな平穏な海の日ばかりなら、まだ良いだろうが……。

そんなことを考えていると、早くも――




見えてきた!

モノクロで【見覚え】がある、穴澗吊橋の主塔や階段が!



さらに近づき、橋の見え方が変化する。
吊橋の主塔は向こう岸にしか残っていないらしい。
こちら岸のは失われている。ならばどんな吊橋でも落ちて当然だ。

これは、主塔がコンクリートの巨大なアンカーに植わっている珍しいタイプの吊橋だ。
多くの吊橋では、アンカーは主塔の後方にあって主索を支えているが、
本橋は、アンカーが直接に主塔を支え、また橋台を兼ねる形になっている。
通行のためにアンカーの両側が階段になっているのもまた珍しい。

人道用吊橋というと、どうしても遊歩道的な活躍場所をイメージするが、
本橋については後日の机上調査(後述)によって、昭和20年代に現在の型式で架けられたもの。
すなわち、集落が健在だった時代に、生活路として往来された橋であることが確かめられている。

純然たる生活道路として誕生し、使われた橋なのだ。(落橋は昭和40年頃で、以後再建されていない)


そして、この距離までは、橋が必要な意味が、景色としては理解できなかったのだが――




6:05 《現在地》

必要!!!

穴澗と呼ばれる不気味な海蝕洞が、この橋を、

圧倒的に必要なものとしていた!!!



すっげー立地だな……おい……




しかも、高巻き許さぬ圧倒的切り立ち方ッ!

何でもこの柱状節理も鮮やかな直崖には、“勘七落し”なる古称があるそうで、

その由来は、名前から皆様の想像するとおりである。(トリさんが好きそうな名称…)




多分奇跡的な静海だ。

この地形なのに、波の音さえほとんどしない。

異常に静かな、穴澗の暗がりを前にしていると……



…………。