国道46号旧旧道 仙岩峠(秋田側) 第一回

公開日 2006.10.02
探索日 2006.09.26

 私にとって、本格的な廃道デビューの地「仙岩峠」。
秋田岩手両県にとって最も重要な交通路であるこの峠の一帯には、戦国時代よりも昔から道が存在していた。
だが、秋田県仙北郡と岩手県岩手郡の頭文字を取って名付けられたのは明治8年のことで、それまでは国見峠と呼ばれていた。
我々オブローダーにとっての仙岩峠と言えば、昭和52年に「旧道」となり、そのまま廃道化した旧国道が有名であるが、それ以前にも車道があったことは殆ど知られていない。
それこそが、明治8年に秋田・岩手両県合同で整備を開始した、初代・仙岩峠である。

 もっとも、この時の道は車道と言っても馬車がようやく通れる程度の内容で、しかも秋田県側の整備は明治末まで遅れたという。
また、自動車の台頭にあってはもなすすべもなく、結局昭和37年に先の“旧国道”が完成するまで、殆ど地図上だけの道であったと記録されている。

 私がこの仙岩峠“明治道”に着目したのは2006年の春頃だったが、その後6月に一度挑戦している。
そこでは、県境から岩手県側の現道合流地点までを、準備不足ではあったものの概ね走破することに成功した。
残るは秋田県側だけになったが、こちらは岩手県側よりも地形的には数段険しく、十分に準備をしたうえで徒歩にて臨む事とした。
そして、9月26日に探索は実施された。
当初、細田氏とトリ氏の3人で行く予定だったが、細田氏が急遽参加できなくなったこともあり、トリ氏と2人きりの探索となったものである。



国土地理院発行五万分の一地形図「雫石」(大正元年測量同4年発行)より

 大正元年測量の右地形図には、現在の図には跡形もない明治道が、県道を示す線でしっかりと描かれている。
当時、生保内村と雫石村を繋ぐこの道は、岩手県で一等県道に指定していた。(秋田県側も県道だったが等級は不明)
一方、国見峠のある尾根に点線で描かれているのは、藩政期を通じて使われた生保内街道(角館街道・秋田街道などとも)筋である。
国見峠の道もまた、明治道同様に廃道化して久しいのだが、なぜか現在の地形図にも点線で残っている。
後から登場した筈の明治道が旧国道の出現によって完全に地図上から削除されたのとは好対照である。明治期の道が、いかにも不完全な“つなぎ”だったことを示すかのようだ。
(余談だが、鳴り物入りで登場した旧国道もまた、様々な事由によって開通後僅か16年で廃止され、いまや秋田県側に限って云えば藩政時代の道と同様の点線表記に落ちぶれている。)

 次図では、最新の地形図に代表的な4代の峠道を併記した。
我々が探索する明治道は赤の実線で示した。


 「明治道」は、尾根の上を通った街道とは異なり、山腹や沢筋にその道を求めた。
また、途中で勾配のきつい部分にはつづら折れを配するなどして、馬車による交通にも配慮した。
しかし、この明治道の利用実績はあまり高くなかったようである。
むしろ、後述の年表の如くに何度も改良が普請されていたという記録ばかりが残っている。
また、昭和37年に開通した旧国道はほぼ全区間で全くの新道を採り、明治道は踏襲されなかった。

 明治道は、いかにして“失敗作”となったのか。
不遇に終わった明治道の真実は、現地踏査によって明かされるのだろうか。

 次に、この謎多き明治道に関する、秋田県側中心の年表をまとめておく。

仙岩峠明治道(秋田側)に関するできごと
で き ご と
明治5年
  (1872)
雫石村の上野辨吉による国見峠道改良計画が、秋田・岩手両県に願い出られる。この計画では、自らが独自会社を設立して国見峠を馬車が通れるように改修し、同時にこれを有料道路として費用を回収するというものだった。それは、当時閣議に上っていた「道路法」(結局未成立に終わった)で規定される予定であった「私設道路」の一種として計画されたものであった。
この申し出を受けて両県は調査官を派遣しその妥当性を現地調査しており、そのことが後の国見峠改修新道工事に繋がった。
   8年
  (1875)
秋田・岩手両県合議の上、内務省の許可を得て国見峠の県道の改修工事を行う。
秋田県側の改修は、5月から12月の短期間で完成したが、これは不十分なものであったという。
しかし、秋田県権令(後の知事)石田英吉は次のように工事完了の公示を行っている。
   国見峠ノ儀頗ル峻険ニ付右峠東南ノ間ニ更ニ一条ノ新道開鑿既ニ落成ニ付人馬通行差支無之候

同年9月、内務卿大久保利通が雫石から生保内へと新道を通行している。この時の記録『大久保利通日記』には、岩手県側の新道開墾を功労する記述があるが、秋田県側は特に触れられていない。
   9年
  (1876)
3月31日付けで、新道の峠を「仙岩峠」と名付ける旨公示される。この名は「仙北郡」と「岩手郡」の頭文字を取ったもので、大久保利通が名付けたとも言われる。
同年4月よりこの道は「郵便路」に指定され、生保内と橋場郵便局間で飛脚による隔日逓送が行われた記録がある。
   23年
岩手県知事石井省一郎によって、仙岩峠改修費12000円の予算を議会に提出したが、否決される。(具体的な改修計画は不明)
   32年
岩手県御所村長石井保造を会長とする「秋田街道変更期成同盟会」が結成された。(具体的な活動内容は不明)
   35年
秋田県側の改修が、工事費30000円で着手されたが、日露戦争に遭い全体の5分の1で工事は中止された。
   40年
上記工事が再開され、生保内村西南の源太坂まで完成(全線開通?)したと記録がある。それでも秋田県側は岩手県側の峠道に較べ悪路の誹りは免れなかった、とも。
昭和26年
大正から昭和初期にかけて仙岩峠は、ただ地図上の道として放置されてきたが、昭和26年に国が策定した「阿仁・田沢特定地域総合開発事業」の一環として、車道新築が決定した。
(昭和28年二級国道105号指定、同37年一級国道46号昇格)
工事着工は昭和32年、竣功は同37年で、これが現在の旧国道である。
参考:
『仙岩峠 歴史と文化 (最上源之助著)』
『一般国道46号仙岩峠直轄改修誌 (建設省東北地方建設局)』


 仙北市生保内郊外の旧国道から仙岩峠を俯瞰する。

 ここの直線路は、秋田街道と明治道、そして旧国道までが重なる唯一の区間で、一里塚の跡もある。
仙岩峠の一番好きな絵は、ここから見上げた姿である。
山肌にくっきりと刻まれた旧国道の九十九折り、現国道の連続する高架橋、稜線に映える高圧鉄塔の列など、現代的な峠の在り方や歴史を感じさせる。
 仙岩峠の旅路は、いつもこの景色から始まる。
今回は、謎に満ちた明治道、その秋田県側踏破を狙う。



あらわれた、明治道

峠の茶屋から登り始める

<現在地>AM 9:33

 国道46号仙岩峠の入口にあたる湖山トンネル、その前に店を開く「峠の茶屋」から、いざ出発。
茶屋の向かいには昭和52年に廃止された旧国道が分かれており、明治道へのアプローチにはしばらくこの旧国道を歩くことになる。
旧国道の折り重なるような連続つづら折れで、元もとここにあった明治道は完膚無きまで寸断されており、痕跡は見つけられなかった。
また、茶屋のすぐ下を流れる六枚沢にも明治道は橋を架けていたようだが、そこには砂防堰堤が築かれており、橋台さえ見つけられなかった。

 旧国道は普段鍵付きのゲートが閉じられているが、東北電力や山仕事の車が時折通る。
この日も、歩いている最中に何度かすれ違った。



 旧国道を通った場合、県境の仙岩峠までの距離は7.4kmほどで、この間の高低差は500mに達する。
明治道もまた目指す県境は同じ地点だが、古い地形図から読み取れる道は全般的に直線的で、目測6kmほどの距離だ。
地図の不正確性も疑われるが、明治道は勾配がきついとも言えるだろう。

 旧国道の折り重なるつづら折れもまた、最急勾配10%に達する難路であった。
歩きでも、残暑を背負って往く勾配は、ずっしりと足に堪えた。



 車がギリギリ通れる幅を残し、あとは夏薮に没している旧国道だが、本来の道幅は2車線分があって、夏草の中に立ち残る道路標識が散見される。

 私は、明治道がこの旧国道から別れる地点は、2つ目のヘアピンカーブだろうと読んでいた。
だが、確信はなかったので、あやしい分岐が他にないか探しながら歩いていた。
私は、嫌な汗をかいた。
最悪、こちらの入口を特定できなかった場合、県境側の入口を捜すことも考えていたが、出来れば峠は登りながら探索したいものだ。



<明治道 0km地点>AM 9:54

 そして、運命の第2カーブ。
そこには、夏草に邪魔されながらも、はっきりとした分岐の痕跡が存在していた。

 私は、思わず安堵した。
これまでも、何度となく旧道は通っていたが、まさかここにさらに古い道との分岐があるとは思っていなかった。
自分自身、今年春に岩手県のNPOが主催した「仙岩峠フォーラム」を拝聴するまで、明治道の存在をまるっきり知らなかった。



 出発から約20分で、日陰に転がる死体となり果てているのは、今回のたった一人の同行者トリ氏である。
この人。皆さんの期待に反して(?)、理解に苦しむ癖がある。
山の中で唐突に寝るのである。
短い休憩の合間とかも、気付くと寝ている。
この現象は、私以外にも多くの人に目撃されており、例えばちい氏たつき氏も証言している。

 なんだよ…、ハイキングデートかよ。

そうお嘆きの、あなた!
裏切られましたよ、 私は。
侮りは死。 
この峠路はやがて彼女自身に己の限界を感じさせることになった。
そればかりか、私も一人で来なかった事を安堵したくらいであった。



 寝ているトリ氏を放っておいて、高台からいま来た道を振り返る。

 山肌にはっきりとした傷跡となって残るのが、旧国道。
下の方の更に大きなコンクリートの法面は、現国道のものである。
遠くには生保内の街、さらに向こうの霞んだ山は田沢湖外輪山で、旧国道をもう2kmほど登っていくと鏡のような田沢湖を見ることも出来る。



明治道 はじまる


 20分後の10時20分。いよいよ明治道へと出発する。

 この先の明治道は、地図の読みでは県境まで約4.5kmといったところである。
途中で他の道にぶつかることもないと思われるが、中盤で高圧鉄塔線に遭遇するはずで、まずはそこまでが一区切りだろうか。



 少し歩き始めると、すでに周囲は360°緑の森に包まれた。
私は、未知の道に出会った喜びと、この先への期待感に思わずニヤけた。

 道路地図には載っていない道。
しかし、その幅は確実に馬車道を意識している。
それに、この穏やかな勾配。これもまた、馬車道らしい特徴だ。
私は、今回の探索で最初にして最大のポイントであった「明治道の発見」を、無事に完遂したのだった。
そして、発見された道が、このような純然たる姿で、私を迎えてくれたのだ。



 少し進むと、道に沿う一本のゴムのホースが現れた。
現れたときのことを覚えていないが、路肩下の斜面から現れたのだろう。
ホースがずれないようになのか、粗製のコンクリでホースの通る溝が造られていた。
いまは使われていないようだが、果たしてこれはどこまで続いているのだろう。



 明治道を歩き始めて15分。
相変わらず気持ちの良い森の小径が続いている。
年に一度くらいは刈り払いされているのか、それほど薮化もせず、歩きやすかった。
勾配は緩く、チャリで走ってもきっと楽しいだろう。

 我々は口々に言った。
こんなに気持ちの良い道が、地図にも載らずに残っていたなんて。
これは大変なお宝道だと。この先も楽しみだと。
かつて工事用道路を探索したときには、もう仙岩峠のことは知り尽くしたとさえ思っていたが、全く別にこれだけ大規模な旧道が眠っていたとは。



 石垣来た!

 私は思わず声を上げた!
急な斜面を横切るように続く道の路肩と法面のそれぞれに、どことなく清楚な印象の石垣が積まれていた。
以前、雫石側を探索したときには、橋台跡らしい石垣一箇所を発見したのみで、このような石垣との遭遇はなかった。
それもあって、余計に嬉しかった。



 この石垣は、これまでに見たことのないデザインであった。
よく見るのは玉石を交互に積み上げた玉石練積みで、大小混ざった石を使ったものは珍しい。
その上、大小さまざまの石が器用に組み上げられており、さらに水平方向には何らかの規則性が感じられ、芸術的な印象さえ受ける。
どちらかというと民家の石垣のような感じであるが、相当に手間がかかっただろう。

 岩手県側に較べ道が悪く、「悪路の誹りを免れなかった」などと記録されているが、岩手県側に遅れること30年余りを経て明治末期に完成した道には、その分、多くの拘りが込められているのかも知れない。
この発見は、嬉しい誤算だった。



 更に進むと、いよいよ斜面の傾斜が厳しくなりそれに合わせて路肩の石垣も足が長くなってきた。
だが、規模の大きくなり始めた石垣は、重力に耐えきれなかったらしく途中からすっぽりと落ちていた。
石垣ばかりでなく、道幅の半分以上が崩れて消えていた。
いよいよ、ここまでは至って穏やかだった明治道が、その魔性を示すときが近付いていた。


 ますます傾斜が極まってくると、滝にも等しいような沢が前方に現れた。
明治道の入口からは約500mの地点である。
水量は殆ど無いが、道はここに木橋を架けていたのだろうか、あるいは暗渠だったのか。
直前でこれまでの平坦な道は途切れ、草付きの岩崖に半身を預けて進まざるを得ない。
僅かな平場には、鉄パイプやゴムホースや一斗缶など、古ぼけた道具が散乱していた。
突然濃くなる、日曜大工の気配。



<0.5km地点>AM 10:39

 水量は殆どゼロだが、かなりの落差を有する滝。
これが道路上に、水量によっては文字通り降り注ぐ形になるだろう。

 ちなみに、沢を真っ直ぐ上に詰めて高低差200mも登ることが出来れば、そこに旧国道があるはずだ。真上の旧国道はちょうど連続つづら折れ地帯を抜けて、かつて峠の茶屋があった瞰湖台付近に達しているだろう。
逆に下へ降りた(落ちた?)としたら、高低差80mで現国道の須神橋に至る。
どちらへも水平距離は300mくらいしかないが、三道路間は完全に途絶している。



 ちょうど滝壺となる場所に、木の板で塞がれた小さな井戸が二基残っていた。
井戸の周囲を固めているコンクリートが、ここまでの道すがら見た物とよく似ており、ずっと続いてきたゴムホースも片方の井戸に繋がっていた。

 かつてこの滝と井戸を水源としていたのは、「峠の茶屋」だそうだ。
現在は使っていないとのことで、ゴムホースもここで断裂していたし、奥の方の井戸は土砂に埋もれていた。

 トリ氏が不用意にも井戸を塞いでいたベニヤの板に乗ってしまい、あやしい音が響いた。
一つ言えることは、私や細田氏がもし乗っていたら、確実にドボンしていたということだ。



 滝壺にて一休憩。
だが、落ち着いていられない、ある問題が発生。
虻か蠅のような黒い羽虫が、大量に我々の周囲に集まり始めたのである。
見慣れた虻ではなく、蠅よりも小さい、しかしその形は蠅に似ている。
この謎の虫には、この後かなり長い間悩まされ続けることになる。
とくだん刺したり噛んだりはしない事が分かってくるまで、特に気が気でなかった。

 そして、問題はそればかりでなく、ここで路盤消失!

よーく見ると、20mくらい先から再び平場が復活しているようだが……。


  いざ、廃道へ!

 難所の存在は覚悟していたわけで、ともかく初めの500mほどを楽に突破できただけでも感謝するべしと、意を決し一面の緑の斜面に突入開始。

 ただし、トリ氏がこんな展開を覚悟していたかは疑問。
というか、トリ氏は合調となればいつも果敢に付いてくるはくるが、自身では余り下調べをしていないタイプだ。
目の前に示された道があれば臆せず突入し、膂力・運ともに恵まれているのか、意外に柔軟に突破してくる。
彼女は何か特別な経験を積んできたわけではないのだが、まだ挫折を知らないゆえの力業。
悪く言えば女ヨッキなのだ。

 この探索後は、自分でも下調べして一人で廃道へ行くようにもなってしまったようです。ますます…オブ化進行中とのこと…




   こうして始まった仙岩峠、 最後のたたかい。

 私の想像を遙かに上回るスケールで、明治の難路が現れはじめる。


 その結末は、はたして?!