国道46号旧旧道 仙岩峠(雫石側) 第3回

公開日 2006.07.31
探索日 2006.06.03



谷底に潜む明治道

全てが駄目な選択

 尾根の上から半ば思いつきで斜面を下る道を選んだ私。
そこには、私が辿ろうとしていた馬車道の痕跡は微塵もなく、急斜面に強引なつづら折れを描き、転げるように下る踏み跡があるだけだった。
 結果的に、この時の私の思いつきの道選びは、一度はロストしていた明治馬車道への復帰という、地形図も持たない中での“ウルトラC”を実現させしめたが、冷静になって考えると余りにも無茶で無謀で、思いつきで始め、怪我により開幕したこの日の探索の「出来の悪さ」を象徴するような行為であった。

 この判断の鈍さは、この後もを尾を引く。
まだ、血も止まっていなかった。



 下り始めて一つ二つのつづら折れをこなしていくうち、もう、この道が馬車道ではないことは間違いないと思われた。
では何かと問われれば、鉄塔の管理道に他ならない。
すなわち、下るだけ下っても、目的の鉄塔に着けばそこで行き止まりとなる公算が高い。
まして、首尾良く下山の途に付く道という希望的観測などは、神頼みにも等しいだろう。



 常識的には、引き返すべき状態にあった。
にもかかわらず、恥ずかしいことだが、私はただ無気力に、この下りへと身を任せるばかりだった。
そして、あっという間に、私は稜線からほど遠い谷へと近付いていた。
それがどこかを知る手掛かりを失ったまま。チャリと共に…。

 この日の天候の良さ、穏やかもまた、私が感じるべき危機感をおそろしく希薄なものに変えていた。
左に見える稜線が本来の秋田街道(江戸道)であって、そこからこれだけ外れてしまった現在地は、もはや手持ちの道路地図では特定不能であった。



 相当に斜面を下ったところに、案の定鉄塔があった。
綺麗に刈り払いされた鉄塔下の敷地に人の手を感じ、安心した。
いま下ってきた道を上り直すことも時間さえかければ不可能ではなかったが、この鉄塔の先に再び下っていく小径を見つけてしまった私は、ここでも何の根拠もない楽に流れてしまった。

 ここまで山歩きでのタブーを地で行く探索も、なかなか狙っても出来るものではない…。



 いよいよ森の中に小径は紛れ、行く手には、プラスチック板を埋め込んだいかにも鉄塔管理道路らしい階段が現れ始めた。
チャリを抱えて、こんな階段を何度も下った。
もう、引き返すことは数時間単位の重労働になるに違いない。
 斜面を転げるようにして谷底へ驀進していく私の状況は、まるで雪だるまのように借金を増やしながらも、大当たりの蠱惑から逃れられず破産へと突き進むギャンブラーのようであった。

 自分でも、この辺りでは流石に冷静になり始め、末恐ろしいものを感じていた。
写真を撮ることも、苦痛に感じ始めていた。
俺は、戻れるのか?



味方したのは悪運の強さ  だがそれも…


 尾根から道を外してから6分後。
いくつかの階段を経て、なんと、私は再び馬車道の上にいた。
たどり着いた段階では、この道がなんなのかてんで分からず、もう坂本川沿いの林道か、或いはその支線の作業道にでもたどり着いたのかと安堵した。



 しかし、実際に私がいた場所は、なお海抜750mの高所で、坂本川源流部に張り出した尾根の一部であった。
こんな場所に4輪車が通れそうな道があるわけもなく、これが明治時代の馬車道の名残だと気がついたのは、しばらく走った後だった。

 この意外な展開は前回のレポのルートミスを引きずっているわけで、本来は右の地図中の「A→C」の順に赤い実線を辿るべきだったものが、「A→B→C」という風に辿って、たまたま明治道に再合流していたのだ。
これも前回までの繰り返しになるが、「江戸道」と「明治道」を併記した地図が無いために、その分岐地点を取り違えて起きたミスだった。

 と、ともかく。
ミスは多かったが、なんとか目指す明治道に最小のロスで復帰できた訳である。
ここからは汚名返上・名誉挽回と行きたいものだ。



 今度こそ、本当に馬車道だったらしい。
現在の地形図には全く記載されていない道であるが、その道幅たるや現在も車の通行を許すかと思えるほどで、しかも、僅かではあるが、ダブルトラックが刻まれているではないか。
この道を、開通間もない明治9年の7月、内務卿大久保利通が私とは反対に、盛岡側から秋田へとこの峠を馬車に揺られて越えている。
「大久保利通日記」に伝えられるそのときの模様を要約すると、次のようになる。


 十時、雫石に到着して昼食をとったあと、是より新道につく。
これまでは馬も通れなかったほどの険しく難儀な所に島県令(初代岩手県令)はこの道を開いた。
それは三里の間、岩石を砕き、いばらを開いて今は馬車も通れるようになった。 昨年この工事に従事した等外官員も随行していたので、工事着手の様子を聞く。 実に容易でないこの工事は、島県令も大変だっただろう。
山の峰に登ると、そこがいわゆる国見峠(※)で岩手県下が一望できる。
一休みしたあと、下り道にかかって秋田境に至り、五時に生保内に着いた。    以上は、「大久保利通日記」より要約

※この時点で利通が「国見峠」と言っているのは、この年の三月に自身が「仙岩峠」と名付けた峠の筈だ。



 安穏とした馬車道との遭遇によって安定した探索に復帰できるかと思われたが、やはり馬車道は完全なる廃道なのであった。
というのも、数百メートルほど進むと再び周辺の傾斜が厳しくなり、つづら折れの下りが再開したのであるが、それと同時に、こんな写真のような分岐が現れたのだ。
馬車道らしい傾斜の緩やかな道が真っ直ぐに続く一方、その一部を削ったスロープのような急傾斜の階段が、分かれている。
そして、真っ直ぐの道は分岐のすぐ先で背丈ほどの笹藪に覆い隠され辿れない(少なくともチャリ同伴では厳しい)。
 



 やむなく、鉄塔管理道らしい急な階段に進路を向けると、これはほぼ直線的に斜面を下っていく。

 ふたたび馬車道をロストしてしまうのだろうか?
そう思いながらも、チャリが邪魔で笹藪には侵入しにくい状況にあり、とにかく目に見える道を辿ることが先決であった。



 20mほど下ると、何とそこには見覚えのある平場が。
ついさっきまで辿っていた馬車道とうり二つである。
そして、小径はこの平場を横断して、再び下り階段に入り、その下った先ではまた、同じような平場を横切る……。
この繰り返しなのであった。
 つまり、ゆったりとした九十九折りを繰り返していた馬車道に対し、たまたま同じ場所を通ることになった鉄塔管理道路が、その冗長な九十九折りを串刺しにするようにしてショートカットしているのである。
季節が良ければ馬車道を丁寧に辿ることも出来るかも知れないが、薮が深くこの日は断念した。
 ともかくそんなわけで、とりあえずは馬車道を見失わずにかなりの高度を下り稼ぐことが出来た。


 いまとなっては、もはやこの場所を正確に把握する術がないが、私はやがて、三方を峰に囲まれた深い原生林に導かれた。
木々の合間に見上げた空の色は、峠で見たのと変わりはないようだったが、空と強烈なコントラストを描く緑は濃く、現在地点が地形的にやや行き詰まっていることを感じさせた。

 幾度となく馬車道跡と交錯しているうちに、今自分が辿っている踏み跡が果たしてそれなのか、或いは鉄塔の管理歩道なのかも、よく分からなくなってきた。


 やばい〜!

 恐れていた事態が発生してしまった。
目の前に現れたお椀か擂り鉢のような谷は、見た瞬間にもう、チャリでは乗り越せないことが明白だった。
悲しいことに、対岸の今居るのと同じくらいの場所には、細くてもの凄く急な階段が続いているのが見えているが、谷底の部分には階段さえなく、どうやら雪崩か何かで押し流されてしまったのだろう。
落ち葉が堆積した土の斜面はもの凄く急そうで、とてもではないが、チャリを押し上げることは出来なさそう。


 どうする。
この谷をどこまでも下っていけば、やがて目指す坂本川に行き当たるだろうが…、それは余りにもリスキー。
普通なら、戻って馬車道を探すか、あるいは潔く引き返すべき場面。


遂に始まる、地図から消えた廃馬車道


 写真からはそこまでのピンチに見えないかも知れないが、いやはやこれはかなり危機的状況である。
眼前には、チャリではとても登っていけないような崖の道。
仮にここをどうにかこうにか越えたとしても、もはやこの先に目指す馬車道があるとは考えにくく、おそらくは本来の目的地…鉄塔へと向かうに違いない。
引き返して本来の馬車道を探すのが筋だろうが、それがどこで見失ったのかも分からない状況。

 私は、ここで苦渋の選択をした。
眼前にある谷を、直接下っていくという選択だ。
見たところ、谷は水量も少なく、それほど急でもない。
ここよりも下流のどこかの地点では、馬車道がこの沢を跨ぎ、さらに下流へと進んでいるはずだという推測だけが、この行動の根拠であったが、むしろこれはもう、神頼みにも近い心境だったかも知れない。



 だが、この場面でも私の神懸かり的な悪運が発揮される!
浅い沢水に足を浸し、チャリを押し押し下っていくとすぐ、左岸に明らかに道形と思える地形が出現したのである。
この間、ほんの50m足らずであったと記憶している。

 私は、藁にもすがる想いで、この平場へとチャリを押し上げた。
そして、周囲を見回した。



 キタッ!

 私は再び馬車道と出合ったのである。
このきわめて文明の希薄な森の底で私は二度も彷徨い、その二度ともに、目指す馬車道が私を救った。
これは、愛のなせる技なのか。

 写真は、平場から上流を振り返って撮影。
どうやら、この沢には土橋か木橋をかけて渡っていたようであるが、現在はその両岸を繋ぐものは何もない。
ただ、地形的な痕跡のみだ。



 だが、一度はそのたおやかな手をさしのべた馬車道も、決して健在ではなかった。
私を迎え入れた直後から、再び道は不鮮明となる。
だが、次にこれを見逃せば、もう二度と捕捉できない可能性が高い。
私は、何としてでも今度こそこの道を辿る決心だった。

 眼前には、崩れてから相当年を経過したらしい傾斜地が広がった。
沢へはもう逃れられない。
なんとしても、ここを乗り越えて道を辿るのだ。



 手掛かりにするにはあまりに頼りない若草に私とチャリの荷重を托し、一歩一歩、慎重にこの崩落を乗り越える。
眼下の谷は擂り鉢状で、一度滑落が始まれば谷底に連れて行かれる可能性が高い。
その場合、チャリの救出はもはや絶望的になるだろう。

 だが、ここが確かに道であった痕跡は、こんな崩壊地にもあった。
崩れた道路の断面には、砂利の層が綺麗に残っていたのである。
どうやら、明治新道にはかつて砂利が敷かれていたようだ。


 どうにか斜面を乗り越えた私の前に次に現れたのは、古い造林地だった。
そして、あらゆるものを紛れさせる雑木林。

 またしても、馬車道の痕跡はきわめて希薄となった。
基本的には地形が平坦なれば直進しているだろうという推論のもとに進路を選ぶより無かった。
この場所で感じた心細さは小さなものではなかった。
次々に繰り出される私を脱落させるための罠に、なお僅かに出血を続ける私が、祈るように挑み続けた。



 さらに進むと、僅かだが道形が現れ、ホッとさせられた。
しかし、今度は前方から沢の音が聞こえてきた。
険しい地形が待ち受けているのかも知れない。
そしてそれを裏付けるように、間もなく前方には、斜面が白く反射する谷が見えはじめた。

 もはや現在地も知れず、ただ、道に促され、また本能の赴くままにこれを辿る私であった。



 私は、谷の縁まで進んで驚いた。
なんと、谷底へと通じる、まるで段々畑のような道が続いているのが一目で見て取れたからだ。
まさに、つづら折れ。
というか、斜面に刻まれたジグザグ道。
馬車を通すために、苦肉の策として描かれた線形に違いない。
確かにその勾配は緩やかである。



 その姿は、往来が絶えて何十年も経過した古道そのもの。

 いよいよ次回、決定的な遺構に遭遇し、旅は衝撃的な結末を迎える!