国道291号 清水峠(新潟側) <リベンジ編> 序

公開日 2009. 2.16
探索日 2008.10.11

 忘れない。


2007年10月8日、午前7時08分。

もうどうにも進むことが出来なくなった我々が、遂に撤退を決心した、あの場面。


傍らには、滝が落ちていた。
“国道”を横断して流れ落ちる、小さな滝。
仰ぎ見る、上れない土斜面。
顔面を伝ったものは、滝の飛沫と前夜から降り出した雨の雫だけではなかった。


二日にわたる挑戦は、唯一の目的を果たせずに終わった。

まさか、我々が二人がかりで挑んでも駄目だなんて…。
そんな傲りをしたたかに打ち据えられた屈服感のなか、上擦った声で放たれた精一杯のことば。


「 くじさん。 このままでは終わらせないぞ…。 」






“ナル水沢の撤退” から1年、


約束に違わず、二人は再び未踏国道へ挑んだ。


※このレポートは、「道路レポ 国道291号 清水峠(新潟側)」の続きです。





群馬県前橋市と新潟県魚沼市を結ぶ一般国道291号のうち、群馬と新潟の県境にそびえる清水峠の前後約27kmが「自動車交通不能区間」に指定されており、車の通れない「酷道」、あるいは「登山道国道」などと揶揄されている。
だが、この道の「車道」としての歴史はたいへん古く、明治14年から18年にかけて内務省が建設した大規模な馬車道「清水越新道」に由来する。この道は当初から国道であったので「清水国道」とも通称される。

現在、この長大な「自動車交通不能区間」の中でも、ショートカットする別の登山道のある新潟側一部区間(約13km)の荒廃は特に著しく、長い間人を寄せ付けない状況となっている。(それでも帳簿上は現役国道)

前回の探索は、この13kmの「廃道区間」踏破を目的としたものであったが、麓から8.8kmの地点で遂に断念を余儀なくされた。

撤退から1年、いまだ踏破の名乗りは聞かない。
それは、私にとって唯一“恵まれている”と思える再訪条件だった。

清水峠は、今や私にとって特別な存在である。
本来私という人間とは縁もゆかりもなかった新潟と群馬の間の峠道だが、全力を尽くしてなお撤退した前回の体験が、私を夢中にさせた。
それでも丸一年間再訪を我慢できたのは、踏破達成への絶対の舞台が欲しかったからに他ならない。
くじ氏の参戦と、積雪に邪魔されない時期を選ぶこと。
これらは最低限必要な再訪の条件だった。

あの手痛い敗退は、我々からこの道に対するあらゆる幻想を奪った。
埋もれた産業遺産を世に問いたいという偽善的だが美しい使命感があった前回とは異なり、今回は単純に征服するためのリベンジ(復讐)である。
このリベンジ計画には、新発見に対する期待は一切無かった。
何時間耐えれば何キロ進めるだろうという、前回の探索をベースにした「計算」だけが、そこにはあった。





※この地図はスクロールします。

まず、前回の長い探索を短く振り返ろう。

前回は、「清水集落」から「通行止め」を越えて「下の分岐」に入り(ここまで自転車)、「上の分岐」までの約13kmの廃道踏破に挑んだ。
しかし、道路状況は想像以上に悪化しており、柄沢尾根、檜倉沢、檜倉尾根を越えてナル水沢まで進んだところで夜を迎え、ビバークとなった。
翌朝、悪いことに雨が降り始め、しかもナル水沢の谷底から“続きの道”へ上がる為の落差、おおよそ5mが手掛かりの無い土の急斜面であったために、これを登る術無く、また周囲に迂回可能な地形も無かったことから、断念を余儀なくされたのであった。

結局、前進があったのは初日だけで、その距離は8.8km、要した移動時間は12時間だった。
また、帰路は檜倉尾根を直降したので、半日もかからなかった。

撤退の直接の原因は、土斜面を登る為の特殊な装備(くじ氏曰くそういうものがあるらしい)を用意していなかった事だが、そうでなくとも残りの限られた時間内での峠到達は難しかったと思われる。
それは、背負った荷物が野営道具を含む大がかりなものであったために、ジャングル同然の灌木帯での行動が極端に制限され、進行のペースが著しく鈍ったことに原因があった。

今回はその反省から、野営の道具を持ち運ばないなど、装備のコンパクト化を念頭に置いた計画となった。


<清水峠リベンジ計画>

■初日(入山)■
清水集落→下の分岐→十五里尾根→白崩小屋 (野営)

■2日目(アタック)■
白崩小屋→清水峠→上の分岐→(未踏破区間)→ナル水沢→(来た道を戻る)→白崩小屋 (野営)

■3日目(下山)■
白崩小屋→十五里尾根→下の分岐→清水集落 (解散)


この計画がいかに「ガチ」であったかは、行き帰りの道がまったく同じである事からも感じていただけるだろう。
あくまでも、「赤で示した部分のためだけ」の、2泊3日探索計画だった。

なお、当初から「完通」(下の分岐→上の分岐までを通して歩く)の計画はなかった。
それは、劇的に状況が変化しない限りは二度と「前回区間」を歩きたくないという、二人の共通した思惑によるものであった。


次に、未踏破区間の予習。





未踏区間は、ナル水沢の左岸に始まり、本谷沢をぐるりと巻いて「上の分岐」に至るまでの、約3.8km。
その海抜は1260mから1400mまでで、亜高山の領域である。
最新の地形図でも点線の道がはっきりと描かれており、“タレ”付きなのは国道だという主張だ。

 未踏破延長3.8km

それが今回の唯一目標。

前回の13km(うち8.8km達成)に比べれば小さく感じるかも知れないが、本谷周辺の地形は、地形図を見る限り露岩や崖の記号が多く、危険なアルペン的山容を予感させた。
そのような地形的困難の一端は、前回探索の終盤や、それより前に行った群馬県側の探索でも十分に垣間見ている。
ここはかの有名な「一の倉沢」を擁する谷川連峰の核心部なのだ。
…率直に言って、踏破の自信は五分程度。
ロッククライマーのくじ氏はともかく、もし本当に難しい岩場が現れてしまえば、私はどうなる。
最悪、くじ氏に成功を託する場面もあるかも知れない…。


また、今回のアタックは日帰りの「往復行程」であるから、実質的には3.8km×2倍の廃道を連続して歩かねばならない事になる。
そう考えると、前回より1日増えた2泊3日の行程とはいえ、のんびり探索というわけにはいかないと思われる。






本谷沢の最も奥まった場所にある「未踏区間」は、清水国道以外では一切アクセスする術のない場所であり、外部から状況を伺うことも困難で、その地勢も道路状況も謎に包まれていた。

3.8kmという距離は、何事もなく淡々と進めば1時間で踏破出来る距離だが、それでも予断を許さないと感じたのは、この不確定性の大きさゆえである。

これまで2度(前回と、前々回(群馬側探索がメインで、新潟側は居坪坂経由で下山))の清水峠探索において、本谷上流の山容を目にした唯一は、前回の【この辺り】からの眺めであった。(右写真)

残念ながら斜面を這う道の姿は見えないものの、本谷に向かって多くの尾根と支谷が集中している地形が一目瞭然である。
そして、奥の山腹には幾筋もの縦縞が見えている。
これが私を最も不安がらせた原因だ。
おそらくは、切り立った岩尾根が地表に並列しているのだと思う。
道はそこをどのように横断しているのか…。


果たして、本谷沢の奥地にはどんな「国道」が待っているのか。
怖くないと言えば嘘になるが、誰かが挑まなければ答えはない。
ならば、“やりかけ”の我々が先陣を切ろうと思う。

覚悟は出来た。
1年前の悔しさは、少しも色あせない。
己の持てる全ての力を、踏破、踏破、踏破の為に。


 そこに直れ! 清水国道!

    いざ尋常に 勝負だ!






雨のゲートイン


2008年10月11日、清水峠リベンジ計画初日。

雨。

まるで、前回からそのまま引き継がれたような雨だった。

だが、この雨は越えていかねばならない。
天気予報を信じれば、明日と明後日は天候が回復する。

この少し前、午後2時30分に清水集落のバス停前で落ち合った私とくじ氏
彼とは丸1年ぶりの再開だった。つまり、前回の清水峠以来だ。
ごく簡単に1年の近況を報告し合い、互いの“時計”を合わせる。
その最中も手は休まない。自転車、リュック、食料…。
慣れた手つきで戦うための道具が揃えられてゆく。




だが、ここでトラブルが発生。

前回は何台もの車が既に停まっていたバス停前の広場は、今回はバス転回場ということで車を停められなくなっていたのだ。
やむなく別の駐車スペースを探す我々。
結局500mほど国道を前進した「自動車交通不能区間」の入口となるロープゲートの脇に、広い余地を見付けた。
計画を変更し、ここを今回の出発地点とする。
少しだが峠は近くなった。

改めて自転車を降ろし、リュックを背負う。
前回不調だったくじ氏の自転車は、今回新車に変わっていた。
気が急いていた私は、危うく車のキーを抜き忘れるところだった。

午後2時45分。 出発。




初日の予定コースは右図の通り(クリックで拡大別ウィンドウ表示)だ。

清水集落(通行止め地点に変更となったが)を出発したら、あとは最短距離で清水峠の肩に建つ山小屋を目指す。
この上りのルートは登山道として使われているが、「十五里尾根」または「謙信尾根」と呼ばれており、清水峠越えの最も古く、かつ長期間にわたって利用されてきたルートである。

清水峠がいつ頃切り開かれたのか確かな記録は残っていないが、戦国時代には「直越(すぐごえ)」と呼ばれ、三国峠越えの本街道に対する近道として主に軍事的な用途に使われていた。
特に越後に本拠を置いた上杉家と関わりが深く、戦国末期には「越後の虎」こと謙信の命を受けた軍勢が、関東地方へ繰り返し遠征した道である。
「十五里尾根」という名前は、清水から水上までの峠道が尾根伝いに15里もの距離があったことにちなむとされる。
本来の十五里尾根は、清水峠から北に延びる(現在の登山道がある)尾根だけを指すものではなくて、峠道全体を示していたとも考えられる。

この十五里尾根を使った清水峠の道は江戸時代には幕府の命により封鎖されていたものの、明治になって再び近道として注目されるようになり、明治7年に熊谷県令の河瀬秀治が民間から寄付金を集めて整備した記録がある。
この整備が大久保利通など政府高官の目に停まり、その効用が認められて後の清水新道開削計画に繋がったものである。すなわち、清水新道の「新道」とは、この十五里尾根に対しての新道だと考えられる。

なお、清水峠へ向かうもう一つの道に「居坪坂新道」があるが、これは清水国道が通行不可能となったのをうけて、六日町(南魚沼市)の商人が開削した賃取道路(有料道路)であり、その開通は明治23年と3本の中で最も新しい。(当時は十五里尾根も廃道であった)
現状では、清水峠を歩く人の大多数がここを通るので、最も安定している。




ゲートを越えるとすぐに未舗装となる。
ここを通るのも、往復を2度と数えりゃ5回目だ。
快走だったのは最初の1回だけで、後は全部俯いていた気がする。

雨雲に隠されて見えない峠は、どう構えたって気楽になれるような眺めじゃない。
しかも今回の峠は、「待ったなし」だ。
それは、まさにいまの我々に課せられたものだったのだから。

今夜は、あの峠の上で明かさねばならない…。
午後2時半集合では、どうやっても夜の峠を登らなければならなくなるということは、当然分かっていた。
しかし、善良な社会人(岩手県在住)を2泊3日の探索に駆り出すためには、初日と3日目は半日ずつしか行動出来ないのもやむを得ないことだった。




自転車は快調だが、道は着実に上っており、しかもこの荷物だ。

堪えないわけがない。


しかし、明日だけはこの大荷物から解放される。

それだけが楽しみだ。

リスのように身軽に、トリのように軽やかに、藪を駆け抜ける(予定)。




15:10

出発から25分。
前回のスタート地点である「下の分岐」に辿り着いた。

左が国道291号の現道で、ここから8.8kmの地点までが既知である。
そして13km先で、右の居坪坂新道を6km進んだ地点に合流している(上の分岐)。

右は十五里尾根ないし居坪坂新道を経て清水峠に向かう道で、現在は上流で砂防ダム建設を行っているために轍が深くなっている。

今回は右へ行く。
この先に自転車で入り込むのは、居坪坂新道を無理矢理自転車で下ってきた最初の探索以来だ。

ここも5回目だが、6回目はぜひガッツポーズをしたいな…。




分岐を過ぎると道は一時下りとなって、その底に東屋沢が待つ。

 うあ。 なんじゃこりゃ!

水がめっちゃ増えてる。
こんな時のために、山側に小さな丸太橋が架けられているのだが、さほど気にせず突入していくくじ氏を、私は黙って見ていた。


 くじさん! 流されてるよー!! 笑


この男、山には入れば確実に俺より上手。
だから、チャリのうちに少し凹ませておいても罰は当たるまい。




15:15 《現在地》

さらに300mほど進むと、またしても道が二手に分かれる。

左は砂防ダム工事の作業道路で、本当は一般車通行止めなのだが、これまで2度の下山では常にこちらを使っていた。
チャリを通すとなると、右の旧登山道は不利なのだ。

今回は初めて右の旧登山道へ入る。
居坪坂新道であれば左からも行けるのだが、謙信尾根へは右から行くより無いからだ。

右の道はいきなり荒れていて、どこまでチャリで入れるか不安だが、行けるところまで持っていこう。
今回の計画では行きも帰りも同じ道だから、その意味では気楽だ。




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砂利にポヨ草の浮いた道を100mほど進むと、再度分岐が現れた。

いよいよ地形図に無い分岐だ。

あたりに頼るべき案内板も見あたらない…、登山道なのに…。

しかし、前方に大きな砂防ダムが見える。
そこで私は考えた。
右が本来の地形図にある道だが、ダムの完成によって廃道となったのではないだろうか。
そして、左の急坂が付け替え路ではないだろうか。

そう踏んで、左の道へ入った。




どうやら読みは当たっていて、左の道は間もなく砂防ダムとは思えない巨大な堰堤を上り始めた。

これしき、峠の高低差を思えば前哨戦以下のはずだが、早くも息が上がってしまう。

清水新道とは違って廃道じゃないだけに、休憩の糸口が掴めない。
しかも、普段は撮影を頻繁にして休憩の代替としているので、こんなアルバイト的な登山はまったく不慣れである。
つうか、背中の荷物はナンナンデスカ。重すぎませんか?

これは意図してペースを落とさなければ、明日を迎える前に干上がってしまう。
前をすいすい歩くサラリーマンくじ氏を見て、最近の廃道偏重主義による己の未鍛錬を悔いた(←絶対にもう遅いから…)。




堤上からの眺め。

せき止められた本谷に、右から丸ノ沢が合流している。
我々が上りに選んだ謙信尾根は、この出合に鼻を突き出した真っ正面の山を登り詰めるルートだ。
雲に隠されて脚しか見えないが、いやはや。

これはこれは…。


……。






登山だろこれ。

清水峠を出発地にしようなんて“口”にすればヒトクチだけど、過去に1度行ったことがあるからって、アソコを軽く考えすぎていたかも知れない…。
誰が本州の分水嶺登山を午後3時に始めるんだよ。

確かに十五里尾根は近いよ。ここから峠まで、水平距離で3400mくらいしかない。
でも、その間に清水国道が13kmもかけて登ろうとした高低差がギュギュ、ギュグググググギュムチムチッ と集約されているわけで…。
実にその高低差は700mにも達しているんだぞ…。

この焦り、たぶん私だけのものだった。

くじ氏は平然としていたから。

平然と…、チャリを堰堤上に藪の中へ隠していた。




徒歩に切り替え、堰堤の先の狭くなった踏み跡を辿る。

チャリとは違って、背中の重みがより直接的に来る。

1年前よりも確実に衰えてないか俺。

色々言い訳は出来るけど、この期に及んで大丈夫か俺。

読者だって見たくないだろう。
俺がへばったために下山する合調隊なんて…。
しかし、いかんともし難いこの初期性能不足…。
とにかくここは、自分をいたわり、可愛がりながら行くしかない。
今はまだこの荷の重さに体がびっくりしているだけだと思うから。
やがて、“本調子”というようなものが、体の底からわき上がってくると思うから…。

案内板の立つ分岐を、謙信尾根と書かれた右の道へ。




15:40

間もなく現れた本谷徒渉。

ゴーロになった中州を挟んで、二筋の甲乙付けがたい水流が行く手を阻む。

脚を濡らさないで渡れればベストだが(最初から沢足袋のくじ氏は気にしないで真ん中を渡っていった)、これだけの荷物を背負っていると飛び石渡りというわけにはいかない。
それでも足掻いて跳ねた私は、案の定飛距離不足で片足を沈めた。

ふっ。
ヨッキれんは脚が濡れてからが本番なのさ……。




確かにここは清水峠だ。

いきなりそう感じたのは、きっと植生に特徴があるからだろう。

どういう特徴だといわれると難しいが、おそらく藪の林相(藪相)には、道毎に手相並みのオリジナリティがある。

1年前あれだけ苦汁を舐めさせられて、清水の藪を体が覚えていたのだと思う。




本谷両岸の氾濫源(砂防ダムによる堆積川原)を出ると、“山”が始まった。


いきなりごらんの有様だ。

チャリには跨れないまでも、ポンポン歩ける居坪坂とは根本的に違う。
そこは、ちゃんと気を遣わないと崖に落ちてお陀仏になるような道だ。

ようは、まっとうな登山道だ。

…せめて尾根筋に登り着くまでは明るくあって欲しい。
尾根に登れば、そんなに危険な場所はないと思うから。




あぁきっつ

上杉謙信、アンタは虎やのぅて鬼や!

こんな道、甲冑や兜を身につけたまま歩かせるなんて、鬼や!!

確かにこんな“木の根道”が無ければ、樹林帯の中を3km少々で700mも登れないというのはアタマでは分かるのだが、ガキの頃に闇雲に駆け上ってバテ死んだ太平山旭又登山道を彷彿とさせる上り坂。

ああ! 頼むからオヤツにスルメはやめてくれ!
バナナはつぶれるからリュックに入れないでくれ!
アハハハハ 沢に投げ入れたラムネ菓子がバブのようだ!
悪夢だ。ああ、悪夢の上りだ。


くじさん、まってくれぇ











16:32 

川を渡って50分。
だいぶ暗くなってきた。

見上げた先に、見覚えのある鉄塔が現れた。
この場所は初めてだけど、この隣の鉄塔はたぶん見ているはずだ。前回、清水国道の上で。
これは清水峠を越えるJRの送電線だ。




地形図で現在地を確認すると、この50分で高低差280m近くも上り詰めていた。
とっくに尾根筋には入っているのだが、その尾根が非常に急なのだ。
この先はいくらか等高線の隙間は緩むが、それでも峠の近くまで急坂は続く見込み。

出足の悪さが心配された我が脚も、なんとかスイッチが入ってくれた。
今はおとなしく80〜90kgを持ち上げている。

この調子で、峠を目指すぞ!





スタートライン、まだ遙かに高く…