陸の孤島。
少しばかり使い古された表現だが、それでも私はこの言葉だ大好きだ。耳にするともれなく、テンションが上がる。そして同時に、「いかほどのものか、名前負けではないか」を、自分の目と足で確かめてみたいという衝動に駆られる。
北の大地にも、こう呼ばれた過去を持つ土地がたくさんある。
たとえば、明治以前より「西蝦夷三険岬」(にしえぞさんけんみさき)と呼ばれて船乗りからも陸の旅人からも恐れられてきた三つの険しい岬の周辺が、そうだった。
そのうちの一つ茂津多(もった)岬は、北海道の大きな地域区分である檜山と後志(しりべし)を分ける日本海の突角で、海抜1500mに達する狩場山地が海面からそそり立つ、西海岸道路有数の大難所であった。
ここに自動車が通れる道路が全く貫通したのは昭和51(1976)年11月のことで、それまでは岬の前後に、一方にしか道の通じない袋小路の海岸集落が、一つずつ存在していたわけである。
その状況も、いわゆる“陸の孤島”に近いものがあるが、一方であっても車道が通じているなら、まだマシといわねばならなかった。
ここにはその頃まで、もっと酷い状況におかれていた集落があったからである。
須築(すっき)。
好きとか嫌いの話じゃなくて、「スッキ」という集落の名前。
左図は、茂津多岬周辺の中縮尺の地図である。
須築集落の位置を赤文字で示した。
この集落は、郡境である茂津多岬のすぐ南側にあって、檜山地方の最北に位置している。
そして、集落のある小さな平地を茂津多岬と挟み撃つように、南側にも藻岩岬という名の険しい海崖がそそり立っていることが、特異であった。
この地形を理由に、須築集落への自動車の導入は昭和44(1969)年まで遅れた。
小樽と江差を西海岸沿いに結ぶ国道229号が初めて指定されたのは昭和28(1953)年のことだから、それから16年ものあいだ、いわゆる“点線国道”だけが通じる秘境であった。
国道が指定されているのに車では行けない集落なんてものは、それが廃村でなければまず考えられないことに思えるが、北海道に限っては昭和の終わり頃まで一つならず存在していた。
“陸の孤島”というのは、本来こういう土地を指していう言葉だろう。
右図は、須築に車道がもたらされる前後の地形図の比較である。
昭和53(1978)年版地形図では、国道の着色をされた太い道が、多数のトンネルを従えた姿で須築を南北に貫いていて、この僅か2年前まで南行のみの袋小路であったことも、9年前まで完全な“陸の孤島”であったことも、過去へ捨て去っている。
ここに須築は、国道沿道の一集落というありきたりな景色に収まったように見える。
対して、大正6(1917)年版地形図は……、
地図上でもはっきり分かる、みごとな、“陸の孤島”ぶりだ!
惚れ惚れする。
瀬棚の町から約12km北上した「美谷」(びや)という集落までは、太い県道の記号で道が描かれている。だが、その先の「横滝」(今はないが当時は集落があったようで家屋の記号がいくつも見える)から先は点線となり、点線は「藻岩岬」を海抜240mくらいの高さまで一気によじ登って乗り越えると、再び磯に下って海岸伝いに「須築」へ達している。美谷から須築までは約4kmあり、記号は徒歩道を示す点線だが、途中約2kmごとに水準点が描かれており、この頃から既に名目上においては重要な路線であったことが分かる。
また、当時の須築には意外に多くの数の家屋が建ち並んでおり、学校の記号もある。
明治35(1902)年には82戸、482人が住んでいた記録があり、特に鰊(にしん)漁期には2000人以上の入稼人があって、大いに栄えたそうだ。ようするに、完全に海に根ざした暮らしぶりを立てていて、人の移動も専ら海上交通によっていたようだ。その意味でも“陸の孤島”であった。
『北海道道路史』(平成2年/北海道道路史調査会)には、明治35年に須築集落の代表者が記した「郵便、切手受取所設置請願書」という文書が掲載されており、当時の交通不便の有様が如実に表れている。一度読むと忘れられないほどの強烈な表現が登場しており、本編前にちょっと胸焼けがするかも知れないが、転載したい。
実ニ巍峨(ぎが)タル山脈重畳(ちょうじょう)、其(その)険侵ス可カラズ。一歩ヲ誤ラバ渓谷ニ生命ヲ害(そこな)フニ至ル。如何ニ巨萬ノ費ヲ投ジテ開鑿スルモ到底車馬ノ通行ハ無想ダモ視ル不能(あたわず)。旅人ハ僅カニ渉歩スルニ不過。為メニ道路ハ人跡ヲ踏マザルノ結果、鬱叢(うっそう)タル雑草、繁茂セル篠竹等ノ密生シ、自然道路ヲ閉塞シ、漸一(ようやく?)、二尺ノ道路形ヲ存スルノミ
明治の人の感性で書かれた文書ではあるが、「いかに巨萬の費を投じて開鑿するも到底車馬の通行は無想だも視るあたわず」というのは、交通の絶望を感じさせる表現だ。
明治35年といえば、既に日本は中央分水嶺を乗り越えるような鉄道を敷設する程度の土木技術を獲得しており、本州にはその恵沢がもたらされつつあったのだが、筆者がそれを知っていたかは分からない。
しかし、その無想が現実となるのに後の60年余りを要した事実を見ても、決して大袈裟な表現ではなかったように思われる。
“陸の孤島”を肴にたっぷり暖まったところで、本題だ。
今回紹介するのは、須築集落を孤立させていた原因である、藻岩岬の旧道だ。
前述したとおり、ここには昭和44年に国道229号の須築トンネルが開通し、初めて自動車の乗り入れが叶った。
それ以前の道は、大正6年の地形図に描かれ、明治35年の文書にも難所として描かれた藻岩岬の上を越える峠道だろうということになるが、どうやら実際には、それ以外の道もあったようなのだ。
なぜそんなことが言えるかといえば、実際にこの目で見て、この足で歩いたからである。
しかし、先に書いてしまうが、机上調査でも正体を完全には解き明かすことができなかった、“謎の旧道”だ。
さらに、歴代の全ての地形図に描かれたことがない。
そんな道を私はここで偶然発見して探索した。それを紹介する。
なお、左図は最新の地理院地図だ。
前掲した昭和53年の地形図とほとんど変わっておらず、須築トンネルの近くに旧道らしい、いかなる道も描かれていないのである。
それでは、レポート開始!