2007/5/12 18:00
【ORJ-日本の廃道- vol.24】に掲載された「特濃!廃道歩き 束松峠」の最後の場面である。
束松隧道から西へ下ってくると、おおよそ800mの旧馬車道(廃道)を経てここへ達する。
これでも県道341号別舟渡線の現道であるが、詳しくは買って読んでね(はーと)。
地形図上では、昭和新道がこの辺りで分岐し、真っ正面の尾根へ登っているのだが…。
──見れば、確かに道がある。
…あるが、それは果たして昭和の…しかも戦後に造られたという新道…新しい車道なのか?
この他に、それらしい物はないが…。
夢破れた束松峠越えの道たちが集う、廃道交差点。
これはその全貌。
“我々”は、左の道を下ってきた。明治新道(県道)は低い築堤で谷地を跨ぎ、そのままのカーブで右の藪斜面へ入っていく。
だが、ここからの先の300mほどは、明治以降に切り開かれたらしい田んぼ沿いの農道に役目を奪われ、やはり廃道になっている。
その全容は農道から掴めるが、未踏破である。(県道は、あくまで明治新道に忠実に指定されている)
昭和新道は、明治新道と農道がぶつかるこの谷地から、源頭の斜面をよじ登るようにして、さほど遠くもない無名の峠を目指すことになる。(そこを「束松峠」と記す地図は誤りである)
今回の探索における最大の問題は、時刻である。
テレビの収録を兼ねて行った束松峠の探索は思いがけず時間を要し、それ自体は大成功だったのだが、私の個人的な「最後の楽しみ」であった昭和新道と戯れる時間を残さなかった。
現在時刻は午後6時ジャスト。30分前には鳥屋山の裏に太陽が落ちた。後はもう夜を待つだけだが、日の長いこの時期特有の白夜然とした残光が、曇天を充たしている。今はまだ行動に支障を感じない。
ここから昭和新道を通って、私とスタッフがクルマを停めている会津坂下町の本名地区まで行くとしたら、地図上の距離は約3.5km。
道路状況にもよるが、明るいうちに突破できるかは微妙である。しかし、峠だけは近いのである。
せめて、踏査報告のないこの峠だけでも確かめたいと思い、スタッフには後ほどクルマの前で待ち合わせと言うことにして先に帰ってもらった。
余計に心配されるといけないので、「私はこちらの道から行きます」とだけ伝えておいた。(←悪)
お疲れさまとスタッフ一同を見送って、私はおのが好奇心を満たすべく…
一人きりの最終戦へ。
えーと…。
これは…、 もしや……
出オチってやつでは?
だってこれ。
どう見ても、車道じゃないでしょ?
確かに、昭和になってから切り開かれた道ではあるかも知れないけど…。
ねー? TUKAさ〜ん。
いや、確かに道はあるよ。
それも、意外に鮮明な道がね。
山仕事に使われているらしく、急勾配ではあるのだが道を見失うような不安は感じない。
でもさー、これは俺の期待してた道じゃないんだなー。
まあ、TUKAさんよりも罪深いのは(←いや、TUKA氏は無罪でそ)
←これ
書いたヒト、
出てオイで。
痛くしないからさ。
絶対にこの勾配はオカシイよね。これ、車道じゃないよね。
そもそも、この太い線って、マジで測量とか空中写真見て引いたのかいね?
だって、等高線と道のカタチが全然ちぐはぐだよ。
オマエまさかガセじゃねーの??
“ガセ道”じゃねーの? この昭和新道って。
強烈な出オチをくらった気がしたが、取りあえずこの程度の道ならばポンポン進める。引き返そうと思えばいつだって下りだから帰れるしね。それからスタッフさんに追い付くことだって出来るだろう。
とりあえず、峠までは行ってみよう。
TUKAさんだって、あんなに何かを期待してたんだからさ…。
右の写真は、道ばたに落ちていた何かの木札。
文字が書かれていた痕跡があるのだが…。
現代に甦る、杣人の道普請!
その三種の神器、クワ! ツルハシ! 鉄の棒?
…いまさら、こんなんじゃ盛り上がれないんだよね。
明るいうちに峠まで行ってさっさと帰ろう。
18:08
ガーン!
道普請道具が置き去りにされていた先は、道がまだ開通してなかった…。
ここはまだ峠じゃない。緩い斜面が奥へと続いているのだ。
どうもここは、もともと家屋敷か段々畑でもあったようだが、人里からずいぶん離れたところだ。
今は枯れそうに細い杉の苗木が植えられている。道普請の目的地はここだったのだろうか。
杉の苗場を過ぎると、いきなり斜面が急になった。
それに、鬱そうとした杉の植林地。
気分的に滅入るなぁ。
道も相変わらず無いままだし…。
どうせ戻ってくるだろうから、チャリは置き去りにして様子見に行こうかなぁ…。
うーーん…。
…よいしょ。 よいしょ。
何で連れてきたんだろ。
←こいつ…。
ひーー ひー…。
日が暮れちまうよ。
峠はまだか。
足イテぇ。
杉林をやや北東寄りを意識しながら登っていくと、遂に(とは言ってもせいぜい100mほど)造林地が終わって、同時に緩やかな山稜のカーブが見えてきた。
ああ、 きっとあれが目指す峠だ。
「束松峠」の名を、この国の最も権威ある地図によって2〜30年も
周りの山々よりは低いといっても、さすがに尾根のうえだけあって、ここはまだ結構明るい。
こんな日暮れ間際、チャリと一緒に道無き山の尾根にいるというのも、なかなか冒険らしい体験でワクワクする。
さあ。 鞍部をちゃんと見届けて帰ろう。
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18:23
見えてきたと思ってからが、意外に大変だった。
鞍部に切り通しでもあれば峠と明らかなのだが、私が登ってきた軽沢側に対しては非常に緩やかなものだから、どこが厳密に一番低いところなのか容易に計りかねたのだ。
しかも一帯は背丈程度の灌木と腰丈の笹藪とが斑模様に地上勢力を争っていて、視界のない中チャリを押しながら進むのは、余計な苦労であった。
登りはじめてから約20分で、推定標高420mの「偽束松峠」(適当な名称がないので…)に到着。
現在の地形図にも一応点線の道が残されている鞍部だが、見たところどこでも歩けそうなかわりに、どこにも道はない。
また、稜線から北の会津坂下町側は結構な急勾配で谷筋に落ち込んでいる。
峠に道らしいものがないことは見届けたし、後は来た道を戻ろうかと思ったが、平坦なところよりはある程度急斜面の方が古道の痕跡が(むしろ)はっきり分かる場合がある。
もしかしたら、峠の北側の斜面には何かしらそう言うものがあるかも知れない。
峠まで辿り着いたという安心感から、チャリは鞍部に停めたまま、身軽な状態で少し谷を降りてみることにした。
気になり始めると、とにかく徹底的に突き詰めないとならない質なのだ。
うあ… 道…
嬉しいような、見たくなかったような…。
鞍部から、北東方向に高度にして15m、距離にして25mくらい笹藪を下ったところで、鮮明な平場を見つけてしまった。
しかも、この平場は扁平な円形をしており、その東側のみやや細い平場に通じている。
これは、相当に古い車道の終点のようにも見える。
……うわー。 どうするよ…。
おそらく、これは間違いなく荷車道以上の広さを持った道の痕跡。つまり車道跡。
昭和の地形図に太く書かれていた道であるに違いない。
地図のように峠を越えてはいなかったが、峠の本当にすぐ下まで達していたのではなかったか。
そう言えば、「序」で紹介したTUKA氏のレポートを読むと、「昭和新道」の正体らしいという「天屋林道」の起点の標柱を天屋集落内で見つけているが、そこには全長3434mという表記があったようだ。
いま、地形図などからこの昭和新道の距離を測ると、ここから天屋地区まで約3km。(本レポの起点からだと3.4km…)
天屋からは他に3km以上も延びている山道はないので、きっとこの平場は天屋林道なのだと思う。
あと3km。
私は悩んだ。
こんな時間から、はっきり言って先の読めない藪道をしかもチャリ付きで3kmも行くことのリスクと、ここから延々来た道を戻る…そして束松峠なり藤峠などどちらかは越え直さねばならない撤退した場合の迂遠。
怪しい3kmか、安全な6kmないし10kmか。
悩んでいる時間も、どんどん明るさは失われていく。
よし、行こう。
TUKA氏のレポートを見る限り、3km全部が廃道というわけではないはずだ。おそらく1kmから、最悪でも2km。
もう30分は仄明りも残ってくれるだろうし、最悪の場合もライトや食料は十分ある。
行こう!
先回りして麓で待つスタッフたちの顔がちらついたが、これはもう、自分の冒険なんだ。彼らに一切責任はない。
それに、もし遅くなるようならケータイで連絡しよう。(電波は一本出ていた)
行く。
決断し、チャリを持って来るべく笹藪を急いで尾根に戻った。
が、ここで私は肝を冷やす。
チャリが見えない!
貴方には、チャリの姿が見えますか?
18:35
鞍部に戻ったとき、薄暗さと藪のためにチャリの姿を一時見失い焦ったが、青い顔してウロウロしているうちに見つかった。
で、すぐにチャリごと斜面を下降。
一応、戻れそうな場所のあたりを付けながら下ったが、暗くなれば相当に困難だろう。
笹藪の逆目(笹藪のいている方向と逆のこと)は、徒歩でも登攀が難しく、チャリ付きとなれば10mで30分はかかるかも知れない。
そんなことよりも、しっかりとこの道跡を辿り着くし、一切の未練無く東京へ帰ることを努力しよう。
写真は、これから進む山腹の様子。
道らしいものは見えないが、きっとあるはずだ。
(写真左)峠の鞍部と下降部を振り返って撮影。
この天屋林道は、本当に軽沢まで車道を延ばす構想で造られていたのかも知れない。直線ならば、あと300mで明治新道との合流地点に達する。
(写真右)そして、この先の道。
確かに車道らしい痕跡が続いている。ただし、明治新道との構造上の違いは見られない。
やべ。しくじった。
いったい、いつからの廃道なんだ。
路面状況は最悪最低。
雰囲気的には林鉄跡に似通っている。
歩き出してすぐに左写真の崩壊地が現れ、あとは断続的に笹藪の道形が残るだけの状況に。
結果的に無事生還できたから良かったが、完全に考えが甘かった。
もしこれが、チャリ無しでかつ日中の明るい時間だったら、多少スリリングでも自分にとって有意義な廃道歩きになっただろう。
しかし、これは一線を越えている。
“祈り”を始めた自分が、とても情けなかった。
道、死んでる。
肉体も精神も悲鳴を上げている。
さっき言った“祈り”というのは、「この後で、どうにも進めないような場所が現れないでくれ!」という一念だ。
もはやこれは運任せの旅。
真面目な話、今ではこの探索は失敗だったと思っている。後悔もしている。
やはり、引き返すべきだったのだ。どこか、早い段階で。おそらくは稜線で。
2007年の探索では、単独行だったこともあり、これが一番「遭難」の二文字に近かったと思う。
滑落でもしない限り“生き死に”には関わらなかったろうが、一晩夜明かしをする羽目となる可能性は低くなかった。
上の写真は、午後6時55分。
そして、左の写真はその2分後。
いきなり暗くなってきて、すごく焦った。
焦るのに、歩みは毎分30メートル。
猛烈な笹藪の底に無数の倒木が隠されていて、チャリは持ち上げて歩かねばならなかった。
私の相棒はすごく重い。まるで鉄の塊だ。
今流行の軽いナントカフレームではなくて、秋田のホームセンターに売ってた4万円くらいのナンチャッテMTBだからか。(そう言えばこの10代目は長生きだ。BPSさんのお陰か。)
そのさらに2分後、本当に夜になっちゃった。(涙)
まるで、「午後7時は夜なんだよ」というルールでもあるかのように、ほんの5分間で一気にライト無しでは歩けない暗さに。
マジで気をつけないと、遭難しかねないな…。
↑↑↑自覚が遅い!↑↑↑
黙々と歩いた。
数え切れないほどの倒木を潜り、跨ぎ、チャリを放って越えたところもあった。
何度か小さな沢があって、私はそこでホタルを見た。
だが、沢を越えるのが大変だった。(写真左)
橋なんて無いし、路盤は深く穿鑿されていたからだ。
チャリを谷底へ降ろし、膝から下をびしょびしょにしながら、なんとか対岸へ投げ上げた。
投げたのに、笹に跳ね返されて頭上へ落ちてきて、なんだか泣きたくなった。
何度かそんなことをして、ホタルの谷を越えた。
午後7時05分頃、スタッフに電話をかけた。
別れて1時間が経ち、もしかしたらもう麓に回り込んで待っているかも知れなかった。
だが、無情にもケータイの電波が弱すぎて、発信すれども呼び出しの途中で切れてしまう。
あああ。
ああー。
遭難したと思われたくない。
なんとか、無事な声を聞かせなきゃ。
メールが出来たら良かったのに、アドレス分からないしな…。
取りあえずまだ一時間、心配するには早いよなぁ…。
本当に夜になってしまった廃道で、路面の状況は相変わらず劣悪の極み。
チャリが無くても大変だったろう。
しかも、ただ藪が深いだけではなくて、ヒタヒタと滑落の危険も迫っていた。
ほとんど周囲の景色は分からないが、とにかく道の左側に深い谷があるのは感じられた。
笹の密生が途切れたと思えば、そこには大概地面がなかった。
この左の写真のような、底の見えない闇が口を開けていた。
地図を見ると、この谷底にも道は無さそう。
このことが、大きなストレスになった。
逃げ場がないとはこのことで、天屋林道の周囲は深い谷と険しい稜線に隔離されていた。
19:31
廃林道をチャリとともに歩み始めて50分あまりを経過。
真っ暗になって30分、途中でなんとかケータイの電波を捕まえ、スタッフに電話を入れることが出来た。
「藪が深くて難航していますが、順調に近づいています。ご安心下さい。先にお戻りいただいても構いません。」
連絡が取れたことで、気持ち的には幾分楽になった。
最悪道が無くなって動けなくなったら朝まで待機しよう。ちゃんと食べ物も防寒具もある。
明るくさえなれば、引き返すことも出来るだろうし。
そして、進めるうちは進もう。
ズサッ!
あっ!
ウッ! あ あー。
あぶねー…
危なかった。
疲労が限界に近づいていたせいか、焦りから解放された気の緩みからか…
路肩と思って踏んだ笹藪の下に地面がなかった。
体の右側に押していたチャリはそのままに、体だけ真下に落下。
咄嗟に伸ばした右手に笹や灌木が握りしめられていた。
親指と人差し指の間は擦りむいていた。
全身の体重を瞬間的に支えたのだ。
完全に私の不注意だった。
ここで落ちていたら、万が一もあり得た。
しばらくは動悸と冷や汗がとまらなかった。
写真は、どんなときでも記録写真は忘れまいとする私の撮影。
上の写真など、片手で体重を支えながら、もう片手で咄嗟に撮影していたようだ。(撮った憶えはなかったが)
異常に目が冴えてしまった。
周囲の深い藪が、何かひそひそ話をしているような錯覚さえ憶えた。
あっ!
こ、これは!!
真新しい刈り払いの跡だ!
やったー! 生還できそうだぞ!
19:40
文字のかすれた木の標柱とともに、広い空き地が現れた。
地形的に、ここは鞍部になっているようだ。
すかさず地図を見る。
たしかに、昭和新道にはその中間地点あたりにもう一つ峠がある。
海抜は390m。
ようやく半分か。
でも、刈り払いが現れたということは、このあとの見通しは明るいような。
しかも、下りだろうし。
見えてきたぞ、今日中の無事な生還!
間違いなく、無名の峠に私は立っていた。
いままでは法面だけしか見えなかった南方に空間が広がり、遠くの地表に、いくつか固まった灯りを見つけた。
方角的に考えて、これは柳津町の光ではないか。
今日午前中、昭和30年代まで束松峠のてっぺんに住んでいたというおばあさんから聞いた話を思い出す。
峠からは、柳津の夏祭りで打ち上げられた花火が奇麗に見えて、毎年の楽しみだったと。
ここは束松峠より1.2kmほど北東だが、見える景色はそう違わないだろうと思う。
峠付近には、松の巨木が多く立っていた。
しかし、灯りに照らされた多くの松が、既に立ち枯れていた。
その中には、ご覧のように恐ろしく巨大な… 峠の名の由来となった「束松」を彷彿とさせる樹形のものもあった。
どうも、松枯れ病が猛威を振るった後らしかった。
闇の中でボウッと現れる立ち枯れの巨木ほど、臆病風を誘う景色はそうない。
彼らは白骨のように白い姿で、妬みの視線を容赦なく向けてくる。
19:43
予感は的中し、峠からの下りは格段に楽な道だった。
相変わらず藪を交えた廃道ではあるのだが、以前は砂利舗装もされていたようで、自動車道路だった名残がある。
小刻みなカーブとかなりの急坂の連続で、南東方向へグイグイと下っていった。
久々にチャリに跨ることも許された。
生還できる喜びと達成感でみたされた気持ちのまま、ブレーキとハンドルの操作にだけ注意を払いながら下っていくと、5分ほどでご覧の巨大な露頭に出た。
横断する道は路肩が失われ、危険な状況だった。
恐る恐る縁から下を覗いてみると、20mはあろうかという断崖絶壁になっていた。
さっき私が落ちかけたところは、微かにさえ下が見えなかったが…。
ここの谷底からは、ジョロジョロと少量の水が流れる音が、妙に鮮明に聞こえた。
この直後、同規模の崩壊箇所がもう一箇所あった。
TUKA氏のレポートで見覚えのある東北電力の鉄塔巡視路を示す標柱が現れた。
この先からは、比較的新しいブルの轍が現れるようになった。
どんどん生還の近づいているのを実感した。
依然として勾配は厳しく、カーブも細かい。
これは明らかに林道、それも低規格なものであり、“戦後に開設された車道”という『歴史の道調査報告書』の記述に嘘はなかったかも知れないが、決して明治新道の後釜として建造された一般道路…いわゆる「昭和新道」などと呼べるものではなかった。
あわせて、「昭和43年版五万分の一地形図」も誤りであったというほか無いし、その後の地形図がごく最近の版まで本道に「束松峠」の表記を置いていたことについても、、やはり誤りであったろう。
19:54
峠から推定500mほど下ったところで、別の広い林道に突き当たった。
ここは、TUKA氏のこのレポートの一番上の写真の地点だ。
氏が訪問した当時よりも、ブルが少し奥まで(鉄塔巡視標識まで)伸びていたことになる。
あとはもう何も心配することはない。
この日の旅のスタート地点であって我がクルマが待つ本名の集落へと、砂利の林道を駆け下るだけである。
ごく平凡な林道を、極めて昂揚した心境で下っていくと…。
20:03
ものの数分で道は平坦に変わり、田んぼが現れてきた。
そして、路傍に埋もれたような林道標識が現れた。
「国有林林道」のマークとともに、「天屋林道」と書かれていた。
やはり、間違いなくこの道は林道であった。
また、その隣には「起点より230m」という表記もあった。
国有林林道であるとしたら、確かに戦後作られた可能性が高いだろう。
ひどい廃道になってはいたが、もともとはあの峠下の平場まで、約3kmの自動車道だったのだろう。
20:04
さらに230mほど進むうちに舗装が復活し、さらに狭い路地を通ってから、約12時間ぶりに県道341号へ戻った。
束松峠を巡る四代の道を辿る旅が、これで一周したことになる。
ここは、束松峠の会津若松側の入口として、江戸時代を通じて栄えた天屋と通りを挟んでの本名、この二宿の合体宿場である。
この宿場から束松峠への道については、ぜひORJ本誌をご購読いただきたい。
⇒【ORJ-日本の廃道-vol.24 2008/4/15発行】
さらに5分ほど走って20時07分、クルマへ戻った。
なんと、まだスタッフの皆さんが私を待ってくれていた。
ご心配おかけしました。 ≦(._.)≧
そして、東京を目指し帰途についた。