産業遺構レポート  田瀬ダム コンクリートプラント跡  <第二回>
公開日 2005.7.3



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3−1 謎の橋脚群を観察する


 田瀬ダム造成のためのコンクリートプラント跡と思われる遺構群のひとつ、砂利積み出し用の隧道の終点まで到達した我々。

 次に我々は隧道から出て、隧道内の天窓から見上げることが出来た橋脚群の詳細を調べるべく、坑口が口を開けている石垣の脇を登り、隧道上部の窪地へと至った。

 間近に迫った橋脚群は、異様なムードを醸し出していた。
私が真っ先にイメージしたのは、いつか本で見たことがある関東の廃モノレールの写真だ。
我々の前に林立する橋脚もまた、劣化したコンクリートならではの頽廃感を、全身に纏っていた。



 橋脚の本数や位置関係については、申し訳ないが記録していないのでここで子細に申し上げることは出来ない。
ただ、その位置関係は単純な同一直線にあるものではなく、またその向きも様々であり、そこがますますこの遺構の謎度を高めている。
統一されているのは、橋脚のてっぺんの高さであり、斜面の上部に立つ橋脚は胴体その分短く、下部のものは長い。
ゆえに、橋脚の上部には索鉄が敷かれ、砂利を運搬していたものと想像する。
また、橋脚の胴の太さや天辺の形も異なるものがある。(写真左)




 橋脚が林立している範囲は、半径30m程度の半円形に近い自然の(ものと思われる)窪地内部と、その北側の登り斜面である。
登り斜面上部には、先ほどまで見えなかった石垣が見えており、次の目的地を斜面上部と定めた。
おそらくは、橋脚群の起点もまた、その石垣の上部であろうと思われたからだ。
 なお、窪地内から脱するように伸びている橋脚の列は一つしかない。
この橋脚の列は、笹藪の急斜面に沿って、西の地点の貯水槽跡(?)の方面へと続いている。
この部分については、後ほど改めて紹介するので、今回はまず、橋脚群の起点へと進む。


 窪地の地面には、複数の穴が口を開けている。
これは言うまでもなく、先ほど紹介したばかりのの隧道の天窓である。
穴群は直線上にあり、橋脚の内の数本の足元に開いている。
ただし、橋脚との位置関係に目立った法則性は感じられない。
また、地面に口を開けている穴は、隧道内部からも確認されたもののみで、ホッパーが設置され砂利の詰まっていた穴については、雪原の底になっていたこともあり、確認できなかった。

 橋脚と穴との間に関連性があるかは不明だが、あるとすれば、砂利を橋脚上の索鉄端点から穴に続くホッパーへと落としていたと考えるのが自然であろう。
ただしこの推論には、多くの「もしも」が含まれていて(索鉄の使用など)、根拠は弱い。



 石垣のある斜面の足元には、大量の砂利が散乱しており、橋脚群の運搬物が砂利であったと言う推論を支持する。
斜面の中程まで登ると、いよいよ勾配はきつくなり、手懸かりとなる木の枝などに体重を預けて慎重に高度を稼ぐ。
振り返ると、天辺に帽子のように残雪をいただいた橋脚たちの軽妙なシルエットが、キリッと締まった朝の空気に映えていた。

 遺構の規模は当初に駐車場から見えていた以上に大きく、進むにつれ新たなステージが出現する状況には、二度目の探索であるにもかかわらず、えらく興奮した。


 斜面の途中に立つ橋脚をつぶさに観察する。

 使用されているコンクリートの品位は相当に低いようで、倒壊や傾斜には至らぬものの、かなり削げ落ちて根本に砂のように崩れたコンクリ片が散らばっている。
場所によっては、手で引っ掻くだけで削げたりするほどに、脆い。

 これは、建設当時(ダム建設に関連した施設だと仮定すると、昭和16年頃から29年の間に使われていたのだろう)のコンクリートの品質が低かったと言うよりも、一時的にしか利用しない予定だったので、それなりの強度で作られたと見るべきかも知れない。
いずれにしても、このまま風雪に晒され続ければ、軽微な地震などでも倒壊するものが出る危険がある。


 急な斜面をあえぎながら登り切ると、舞台は移り変わる。
そこはもう、駐車場からは見えなかった場所である。

 この写真は、斜面上端付近から振り返ったもの。
橋脚のひょろ長さや、その足元に一直線に連なる穴など、特異な景色がある。




 



3−2 正体不明遺構


 斜面の上部には、幅広の平坦部があり、そこには石垣やコンクリートの段差があり、何らかの建物や施設があった痕跡を留めている。
しかし、残っているのはそれのみで、具体的にどのような建物があったのかを窺い知ることは、難しい。
写真は、この部分の全景であり、手前には2段になった石垣が、奥にはコンクリートの基礎が見えている。




 しかし、この場所が遺構全体において、何らかの重要な場所であったことは間違い無いと思われる。
なぜならば、地形図に記載されている点線の道(おそらくはこの施設への連絡道路の跡)は、この場所より始まっている。
 右の写真は、その道の痕跡と思われる平場であり、松林の中を緩やかに東へと続いていることが確認された。
しかし、もはや使用されている気配は全く見られない。


 特徴的なのはコンクリートの基礎の部分で、写真でも分かるとおり、かなり複雑な形状をしているし、段差も通常の民家の基礎などよりも深い。
ここは橋脚群の始点となっており、積み下ろしの為の大規模な施設があって然るべき場所である。
写真でも、冬枯れの木々の向こうに白っぽい橋脚や、僅かだが田瀬ダムの堤体が見えている。



 謎の建物基礎跡から東には車道跡と思われる平場が続き、一方で、西へ向かっては、ご覧のような狭い凹地が伸びている。
南側は我々が登ってきた斜面で、北側は急な雑木林になっている。

 我々は次の進路、西側へと定めた。
おそらく我々は、コンクリートプラント内の砂利の移送方向を逆から辿っている筈だった。




3−3 移送路跡


 凹地の中を50mも進むと、前方に高い壁が見えてきた。

隧道の気配を感じ、思わず駆け寄りそうになるが、よく見ると様子がおかしい。




 残念!

隧道ではなく、直角左カーブであった。

しかし、斜面をかなり深く掘り割って直角カーブが刻まれており、これがただの通路の遺構ではあり得ないことを示す。
進行方向に向かって、一方的に緩い上り坂が続いており、その傾斜は積み出し隧道内のそれに近い。

 崩れ落ちて堆積した土砂を乗り越え、カーブを曲がると…。


 さらにまっすぐの上り坂が、今度は南へ向けて続いている。
そして、そこには隧道内で見たものと寸分違わぬ、支柱が立ち並んでいる。
この発見により、隧道内と共にここにもベルトコンベヤが稼働していたことが、決定的となった。

 今より半世紀以上も昔、この山中で、おそらくは砂利を満載したベルトコンベヤが、けたたましい音を立て稼働していた。
初春の日差しの中に佇む遺構は、そんな喧噪を完全に忘れ去ったかのように静かである。


 次回は、いよいよ最終回。
遺構の全容解明なるか?!



 






つづく

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