茨城県の最高峰八溝山(海抜1022m)は、阿武隈高地の南端に位し、八溝山地を経て筑波山で関東平野に没する、本州北彎(わん)山系外帯の一角をなしている。
その山頂は茨城県大子(だいご)町に属するが、山頂付近には福島県棚倉町および栃木県那須町との県境線があり、いわゆる三国峰となっている。
標高はたかだか1000mに達する程度だが、周辺には他に目立って高い山がないことから360度のパノラマに優れ、古くから観光登山の対象となるとともに、山頂には八溝嶺神社が、また八合目に坂東二十一番札所の日輪寺があって、信仰の山としても著名である。
この八溝山一帯の道路は、外周をなす国道118号、294号、461号および福島・栃木県道60号と、これらの道路上から山頂へ向けて延ばされた数本の県道・林道によって構成される。
右の図は主要な道路を示したものであるが、県道28号と八溝林道を利用することによって山頂付近まで車で上ることが可能である。
その一方で、県道28号の栃木県県内区間および県道248号には未開通区間が存在し、さらに福島県側からの唯一の道であった県道377号は平成18年以降、災害のため終わりの見えない通行止になっているなど、全体的に交通網の途絶が目立つ。
したがって、福島や茨城県側から山頂まで車で行こうとする場合には、一旦県境を越え栃木県大田原市を経由する必要がある。
上記の通り、八溝山には未開通の県道が二本存在しているわけだが、今回はそのうちの一本である栃木・福島県道28号(主要地方道大子那須線)の不通区間をご覧いただこうと思う。
右の図は当該区間の地図であり、不通区間は栃木県那須郡那須町棚橋地内から大田原市境までの約2.6kmである。
市販の地図では多くがこのように、道自体は描かれているものの点線表記であったりする。
次に、新旧の地形図を比較してみる。
大日本帝国陸地測量部 5万分の1地形図「大田原」 昭和2年版
左の図は最新の地形図で、一部に色づけを施している。
ちょうど道は那須町と大田原市の境界線で点線に変わっているのが分かる。
しかし、点線の道も等高線をなぞるように描かれていて、いかにも車道のようである。
以前より、そう思っていた。
で、旧地形図を見ると、やはりかつては車道だったようである。
しかも、さらに時代を遡っていって、最も古い明治末頃の地形図でもやはり同じラインの道が描かれていた。
どうやら、かなり古い時代から存在する道のようだ。
これは、歴史のある不通県道なのかも知れない。
(なお、県道28号の路線指定は昭和49年である。それ以前は不明。)
本文中で、旧地形図を見て呆気なく「車道だったようである」と断じているが、なぜそう判断できるのか。
ここで簡単に、旧地形図における道路記号の読み方を整理してみたい。
ただし、明治末から今日まで地形図の「地図記号」は頻繁に改訂されている。だから、以下の分類が当てはまらない版も多数ある。あくまで昭和初期から40年頃までの版に当てはまりやすいだけであることを、お断りしておく。
これは、昭和2年の地形図の欄外にある凡例の一部である。
現在の地形図との決定的な違いは、当時は路線の格付けによって記号が異なっていたということだ。
現在は、国道と有料道路は色づけによりそれ以外と区別されるが、記号の太さは道の太さに対応している。
だから、古い地形図ではいくら太い線で描かれていても(国道)、とんでもない狭い道だったと言うことが普通にある。
しかし、そのままでは不便だと言うことで、古い地形図には「荷車を通ぜざる部」という記号が用意されていた。
この記号は、「小径」と「間路」を除く4種の道路記号と重ねて使うことが出来る便利なもので、その道の勾配や道路構造が荷車の通行に耐えるか否かを示しているのだ。
先ほど本文中で使った古地形図を見ていただきたい。
現在では消滅してしまった「十文字」という峠の道は、「聯路」+「荷車を通ぜざる部」である。