栃木県道28号大子那須線 伊王野不通区 前編

所在地 栃木県那須郡那須町〜大田原市 
公開日 2007.12.27
探索日 2007. 4.22

 茨城県の最高峰八溝山(海抜1022m)は、阿武隈高地の南端に位し、八溝山地を経て筑波山で関東平野に没する、本州北彎(わん)山系外帯の一角をなしている。
その山頂は茨城県大子(だいご)町に属するが、山頂付近には福島県棚倉町および栃木県那須町との県境線があり、いわゆる三国峰となっている。
標高はたかだか1000mに達する程度だが、周辺には他に目立って高い山がないことから360度のパノラマに優れ、古くから観光登山の対象となるとともに、山頂には八溝嶺神社が、また八合目に坂東二十一番札所の日輪寺があって、信仰の山としても著名である。

 この八溝山一帯の道路は、外周をなす国道118号、294号、461号および福島・栃木県道60号と、これらの道路上から山頂へ向けて延ばされた数本の県道・林道によって構成される。
右の図は主要な道路を示したものであるが、県道28号と八溝林道を利用することによって山頂付近まで車で上ることが可能である。
その一方で、県道28号の栃木県県内区間および県道248号には未開通区間が存在し、さらに福島県側からの唯一の道であった県道377号は平成18年以降、災害のため終わりの見えない通行止になっているなど、全体的に交通網の途絶が目立つ。
したがって、福島や茨城県側から山頂まで車で行こうとする場合には、一旦県境を越え栃木県大田原市を経由する必要がある。


 上記の通り、八溝山には未開通の県道が二本存在しているわけだが、今回はそのうちの一本である栃木・福島県道28号(主要地方道大子那須線)の不通区間をご覧いただこうと思う。

右の図は当該区間の地図であり、不通区間は栃木県那須郡那須町棚橋地内から大田原市境までの約2.6kmである。

市販の地図では多くがこのように、道自体は描かれているものの点線表記であったりする。

次に、新旧の地形図を比較してみる。




大日本帝国陸地測量部 5万分の1地形図「大田原」 昭和2年版

 左の図は最新の地形図で、一部に色づけを施している。
ちょうど道は那須町と大田原市の境界線で点線に変わっているのが分かる。
しかし、点線の道も等高線をなぞるように描かれていて、いかにも車道のようである。
以前より、そう思っていた。

 で、旧地形図を見ると、やはりかつては車道だったようである。
しかも、さらに時代を遡っていって、最も古い明治末頃の地形図でもやはり同じラインの道が描かれていた。
どうやら、かなり古い時代から存在する道のようだ。

 これは、歴史のある不通県道なのかも知れない。
(なお、県道28号の路線指定は昭和49年である。それ以前は不明。)


 本文中で、旧地形図を見て呆気なく「車道だったようである」と断じているが、なぜそう判断できるのか。
ここで簡単に、旧地形図における道路記号の読み方を整理してみたい。
ただし、明治末から今日まで地形図の「地図記号」は頻繁に改訂されている。だから、以下の分類が当てはまらない版も多数ある。あくまで昭和初期から40年頃までの版に当てはまりやすいだけであることを、お断りしておく。

 これは、昭和2年の地形図の欄外にある凡例の一部である。
現在の地形図との決定的な違いは、当時は路線の格付けによって記号が異なっていたということだ。
現在は、国道と有料道路は色づけによりそれ以外と区別されるが、記号の太さは道の太さに対応している。
だから、古い地形図ではいくら太い線で描かれていても(国道)、とんでもない狭い道だったと言うことが普通にある。
しかし、そのままでは不便だと言うことで、古い地形図には「荷車を通ぜざる部」という記号が用意されていた。
この記号は、「小径」と「間路」を除く4種の道路記号と重ねて使うことが出来る便利なもので、その道の勾配や道路構造が荷車の通行に耐えるか否かを示しているのだ。
先ほど本文中で使った古地形図を見ていただきたい。
現在では消滅してしまった「十文字」という峠の道は、「聯路」+「荷車を通ぜざる部」である。






 先細りの主要地方道 

 東山道の宿駅・伊王野から東へ


2007/4/22 8:50 

 那須町伊王野(いおうの)から、不通区間を越して八溝山へ向かうことにする。
国道294号沿いにある“道の駅伊王野”から、チャリにて出発進行!

ここは、古来から東北地方の入口であった「白河の関」からわずか10kmほど南の街で、東北なのか関東なのかと問われれば、当然関東に違いはないのであるが、4月も末になってこの風の冷たさは、東北のそれとたいして違いはない。



 駐車場から国道に出て北に向かうと、すぐさま分岐が現れる。
県道28号の入口であるが、起点でも終点でもない。起点は不通区間の向こうの「茨城県大子町」だし、終点は同じ那須町内でもここではないからだ。
ここから北の国道294号は、県道28号との重複区間になっている。

また、肝心の青看にも県道28号のサインはなく、代わりに27号と付いている。
こちらもまた、重複路線なのである。
さらにいえば、行き先表示にも大子はない…が、これは“不通”なのだから、当たり前か。



 右折すると、すぐに国道の旧道を十字に横切る。この国道側には古い白看が残っていた。
さらに進むと伊王野の中心街区となる。

県道にしては通行量が多い印象だが、実はこの道と重複しているのは県道27号と28号だけはなく、さらに60号もある。
また、60号からは数キロ先で73号が分岐しており、この伊王野は主要地方道4本の通行が集約する扇の要なのである。
へたな国道以上の通行量も頷ける。



 商店街の狭い歩道に辟易しながら進んでいく。
直角曲がりをひとつ越えてすぐに、重複路線のひとつが離れる。
直進は県道27号で、我が28号および60号は、仲良く左折する。
左折の行き先表示は、当たり前のように棚倉=60号の行き先である。

ここまで、国道から500mほど。



 以前は県道27号の起点がこの交差点に置かれていたようで、角に0キロポストが残されていた(写真左)。

 また、同じ交差点の別の角には、大理石の立派な標柱が立っている(写真右)。
「郵政省用地」とあるのだが、見たところ郵便局があるでもない。普通に商店の店先だ。
この標柱は初めて見た。
郵政省は戦後まもなくからつい数年前まで存在したが、豪勢に大理石を使っているあたり、かなり古そうである。



 左折して少し進むと町並みも疎らになり、切れ間に田圃が現れ始める。

前方の山並みは八溝山の北の山々、すなわち阿武隈山地の南端であり、東北と関東を分ける境界でもある。
この県道を黙って進んでいけば、県道60号が福島県棚倉に、73号は古蹟・白河の関を越えて福島県白河市へ続く。
我らが県道28号はひとりそっぽを向いて南東方向へ進み、茨城県大子を目指す。
路線番号こそ若いものの、不通のせいか妙な疎外感が漂っている…。(←被害妄想!)



 長閑な田園風景を横切って川沿いの道が続いているのだが、我が県道28号はここでひとり川を渡り、南東への進路をとる。

いままでの“別れ”と違って、“手向けの言葉”(=青看)も、“心ばかりの餞別”(=信号)も無い。

写真遠方に小さく写る橋が、その入口。真っ直ぐ行くのは県道60号。
なぜか、これより近づいて写真を撮っていないという不思議(笑)。




 先細り



9:02 坂本橋 (出発から2km地点)

 事実上の不通区間入口である坂本橋。
これより奥に進むと、基本的にどの道を選んでも行き止まりになるという意味で。

橋はここ数年以内に前後の道とともに拡幅・改良されたようであるが、徒花に終わらない保証があるのだろうか。
そんなことを言えば地元の人には怒られてしまうだろうが。


 三蔵川を坂本橋で渡った県道28号は、今度はその支流大和須川沿いに展開する。
写真は分岐から少し入った所にある大和須川を最初に渡る橋。
べつに変わったところのない、強いて言えば銘板さえないことに昭和40年代の雰囲気を感じる程度の橋。
路幅は依然2車線あるがセンターラインは描かれておらず、如何にも行き先不詳の閑散路だ。



 数百メートルごとに数軒の屋敷が固まって現れる農村の道。
路傍には風化した地蔵や石塔がときおり見えて、古くから人の暮らす地域だったのだと感じられる。
前方の八溝山はまだ遠い感じで、これからその頂の近くまで登っていくという実感は乏しい。




ギョギョ!

何があったんだ…。

時速100kmで突進したか……。




 「那須霞ヶ城ゴルフクラブ」の大きな看板が出された交差点を過ぎ、また淡々とした道を進んでいくと、しばらく付かず離れずだった大和須川を渡る橋が現れた。

肉厚なコンクリートの至って至って平凡な橋。
欄干の低さに若干の古さを感じる程度である。
(なお、現在の「道路構造令」や「防護柵の設置基準」に定められた欄干の高さは60p以上1m以下、歩行者自転車用柵については1.1mが標準である。)

 だが、この橋は“ただもの”ではなかった!





 ぐ ではなく…


 親柱の文字が

大きい!



   …以上。


ちなみに、4本の親柱全てがこのように大きな文字を直接親柱に刻んでいたが、内容は橋の名前「棚橋」と「たなはし」、川の名前「大和須川」と「おおわすがわ」だけで、竣工年は分からなかった。




 地味だけど意外な展開に、ちょっと吹き出した。

いやね、さっきの橋の親柱のことだけどさ。

…なんか、笑える。

どうしてあんな奇抜なことを思いついたんだろうな…。
「俺は常識に囚われない新しい橋造りがしたいんだ!」
そんな親方だったんだろうか。

馬鹿なことを考えていると、すぐに次の橋が現れた。
また同じ形だけど…  も し や…。




やっぱり(笑)

心持ちさっきの棚橋よりもサイズは控えめだが、いやいや、やはりでかいよ。
しかも、相変わらず達筆。

親方…気合い入れて家で作ってきたんだろうな…。
「おい、見てみろ。どうだこの出来は!」
なんて、次の朝に誰より早く現場入りした親方が職人たちに自慢したんだろうな。
なんかカワイイ。

 って、そんなことはどうでも良いんだが、橋の名が想像力を駆り立てる。
文政って、年号の文政(1818-1829年)だろうか。まさか、親方の名前がふみ(ry




 相次いで大和須川を渡り再び、もとの右岸に戻ると、前方の山際にひとかたまりの家並みが現れた。
県道沿いの最奥集落である棚橋だ。
ここの家の数は決して多くないのだが、一軒一軒が巨大である。
ちょっとした城郭のような屋敷や、立派な白塗りの蔵まで見える。蔵の壁に燦然と輝く家紋も。

 ちょうど庭の桜が満開で、空気の澄んだ山里に彩りを添えていた。




9:21 棚橋 (出発から5km地点)

 ここで道が二手に分かれるのだが、県道は右折する。
特に案内はないが、右の道の方が広い。
あとは、不通区間まで一本道だ。



 追分の真ん中に立つ、大きな馬頭観音碑。
見たところ道標らしい内容は刻み込まれていないが、追分を意識したものに間違いないだろう。
さきほどの「文政橋」の名前は正体不明だが、途中に点々と見られる古碑などは、江戸時代からの道と思わせるものがある。

7世紀末には日輪寺がひらかれた八溝山は、「八溝知らずの偽坂東」という言葉が残るほどに関東一円で響いた霊場であったから、山の四方から登り口があったと想像するのは難しくない。
そして、今回の旅の始まりであった伊王野は中世の東山道、近世の奥州街道がともに通った宿場であり、そこから山頂を目指す最短ルートにあたる大和須川沿いの道は古くからひらかれていたのだろう。



 右折すると、すぐに橋がある。
今度の橋は「棚橋」「文政橋」とは異なり普通の親柱であるのだが、その代わり、欄干のデザインが非常に変わっている。
ちなみに、橋の名前は「大井橋」である。

欄干が、なぜかコンクリート製の薄い板。
なぜコンクリートでこんな形を実現する必要があったのか…。見ればみるほど、 変だ。




 橋を渡ると集落を後にして少しばかり本格的な上りが始まる。
この辺りの標高はだいたい400mほどで、不通区間が明ける大田原市境の峠は650mほどである。
それなりの上りは覚悟しなければならない高低差だ。
もっとも、そんなことよりも心配すべきは、ちゃんと道があるのか否かだが。

ここまでは、通行止めの「つ」の字も出ていない。
所々に県道のキロポストや標識が立っていることで、県道だと知れる程度だ。




 再び大和須川を渡る。
「山東橋」であるが、再び親方の肉筆か。

そういえば、この道にある橋はどれも幅が広い。
2車線道路を意識して建設されているようだ。
ただのひとつも竣工年が分からないのは惜しいが、欄干の低さや作りの古さを見るに、昭和30年代くらいの架橋ではないだろうか。
もしそうだとすれば、当然行き止まりを前提とした道路造りではあり得まい。戦後だとしたら参詣のためでもあるまい。何かもっと、時代の欲求に根ざしたような、おそらくは工業・鉱業に関わる、産業道路としての改良ではなかったろうかと思うのである。

現在「那須町誌」を手配中なので確認次第追記したいが、もし何かご存じの方がいらしたら、ご一報お願いしたい。



 34kmポスト出現。
全国的に広く見られる、三角柱のプラスチック製の奴だ。

ちょうどこの辺りから勾配が増す。
しかもこれまでとは違って、一度加えられた角度がなかなか緩まない。
気を紛らわせるものの少ない直線的な上りなので、私は早速に息が上がった。



 げげー。


なんか、うんざりする景色だ。

広域農道チックというか、つまらない峠道の定番風景…。
コンクリートとアスファルトの雛壇かよ…。

行く手のもっさりした高みが、八溝山である(山頂ではないが)。



 石仏さまだって、いくら元々の位置から動かさないタテマエだとしても、ありがた迷惑だろうさ。あんな場所では…。

そもそも、危なくてお参りに行けないし。

ちなみに、路幅が広いので読者様も騙されているかも知れないが、ここの勾配はかなり来ている。
写真右下の路面を見て欲しい。
まったく、チャリ泣かせの坂である。



 キ・チー!

地形図や市販の地図上では、すでに細い道として描かれている区間だが、実際の道は立派そのもの。
2車線分の幅があるし、作りも新しい。
写真では見えないが、ガードレールの外は広大な築堤になっていて、下には民家がある。

 とにかく素晴らしい道ではあるのだが、全くもって人通りがない。
かといって、通行止めを予感させるものがあるでもない。
なんか、変な感じである。




 ようやく大きめのカーブが現れて、私を苦痛な退屈から救ってくれた。変化に乏しい上り坂ほど嫌なものはない。

 そういえば。
この法面の施工、なんか見たことある。

  そうだ…。

六角形のコンクリートブロックといえば、同じ栃木県の塩那道路だ。




 ぎゃあ。
またキツイ登りが現れたー。

しかし、なんだか様子がおかしくなってきたぞ。
道の立派さは相変わらずだが、路傍の雑草が…。

これは、いよいよ廃道の前兆っぽい。
平成に入ってからのものと思われる近代的道路も、ついに力尽きるのか。

最近わたしが一番好きなのは、こういった未成道路である。
この光景なんて、めちゃくちゃ誘惑してくる。
コイツが最後、どんな風に力尽きるのか、 たーのしーみだ〜〜。






 ムムッ 未舗装化!

 さらにあの青のは!?





 うにゅー。

妙に新しそうだ。
このへキサも。




 棚橋集落の分岐地点から、約2kmを15分かけて登ってきた。
現在地の標高は450mで、峠まで高低差200m、距離で2.5kmほど。

道は直前でついに未舗装となり、路面は工事中の道路らしい粗目の砂利になった。
それでも、作り自体は豪華な道がまだ続いている。
あたりは静かで、工事をしている様子はない。

もうそろそろ、地図上の通行不能区間(点線部分)に入ろうとしている。




 ここでようやく、はじめての通行止め表示およびバリケードが現れた。

全オブローダーの血湧き肉躍る瞬間。

その先にもまだ、立派な道は続いている。
バリケードと言うほど堅牢でもなく、ただコーンやら看板やらを置いているだけだ。車でさえ脇を抜けることが出来そうだし、そもそも簡単に寄せてしまえる。



 そしてこの名文句を見て欲しい!(→)

 こ の 先
 交通不能区間につき
 通行出来ません


 なんて当たり前なんだ!!!