牛岳車道 (富山県利賀村) 序

公開日 2010.2.28
探索日 2009.4.29

先日、日本有数の僻山村「利賀村」(現:南砺市利賀)に関する最初のレポート「隧道レポート 栃折隧道」を公開したばかりだが、利賀村の探索自体は栃折峠がほとんどラストであった。

そしてこれから述べるのは、“利賀村への最初の進入”の場面だ。


利賀村への入路としては古くから2本のルートがあった。
ひとつは八尾方面から栃折峠を越えるもので、もうひとつは井波や庄川方面から利賀川をさかのぼるものだ。
いずれも現在では国道471号となっているが、その完成は一時に成されたものではなかった。

これから紹介するのは後者のルートで、特に青島(庄川)から高沼までの区間は、利賀村内を通った歴史的に最初の車道だった。
その開通は、明治時代にまでさかのぼることが出来るという。

牛岳(海抜987m)の山腹に「ある目的」をもって通じた道は、「牛岳車道」と呼ばれるものであったが、この後で述べる私との出会いは衝撃的であり、まだ見ぬ利賀村への興味を強く引き出すことになった。



いざ、利賀村へ!





利賀への道 その始まりと、衝撃


2009/4/29 6:15 【周辺図(マピオン)】

スタート地点は、砺波市庄川町示野(しめの)の国道156号と富山県道371号の交点にある、道の駅庄川。
前夜の車中地がそのまま出発地となった。

初めて利賀村へ行き、そして戻ってくる。
それが今日の目標だ。

なお、砺波市庄川町の地域は、平成16年まで東砺波郡庄川町だったエリアだ。
旧庄川町は、富山県で神通川に次ぐ大河の庄川が、砺波平野へと流れ出る地点に開けた町で、今のように庄川が多数のダムで埋め尽くされる大正期まで、水上輸送/交通の一大拠点であった。
今は川沿いの陸上交通路の要衝だ。




利賀への第一歩は、庄川にあり。

というわけで、国道156号を利賀へ向かって走り出す。
地形は扇状地状であり、さっそく緩やかな登り坂。
もっとも、今日は上りを嫌ってはいられない。
現在地の標高は100mそこそこだが、利賀村中心部は600mオーバーとなる。
じっくりと向き合っていかねばならないはずだ。

庄川町内では、国道ではなく、その旧道を通るように心がけた。
オブローダーならば当然のことだが、大抵こういう市街地内の旧道巡りは平和に過ぎ、レポートとして表に出ることは稀なのである。
だが実際、“主菜”である山の道や山の廃道に挑む前に、こうした麓で“前菜”に相当する旧道巡りを行う意義は小さくない。
それは“土地勘”という、旅の即席の羅針盤を形成する助けとなるからだ。




うおっ!

何だこりゃ?

110円だ…

道の真ん中に110円が落ちている…。

ジュース代か…? 今日の…。


まだ人通りも少ない朝の街路での、白昼夢のような110円との出会い。
なんとなく脳裏に浮かんだのは、朝練で飲むジュース代を落としてしまった無垢な少年の姿。
どこにあるかも分からない交番を探して届ける余裕はないが、110円という金額が生々しく、ネコババも気がひける(100円ならネコになったと思われる)
今に少年が拾いに戻ってくることを想像して、そのままにして行くことにした。

で、その直後。
地図にはない、そこにあるはずのない大通りが出現。
アサイチの道間違いに気付いたのだった。

上の地図を見ていただけると、私が旧道へ入った(と思った)交差点には、相当紛らわしいミスルートの存在することがお分かりいただけるだろう。
私はそこに嵌り、110円と出会ったのだった。




6:23

ミスから復帰し、正しい旧道へと入り直す

ここからは、国道156号の旧道と言うことになる。




旧道は道幅1.5車線。
道の中央には豪雪地の証し、消雪帯が敷かれている。
だが、あまり舗装が汚れていないところを見ると、この一帯の水質はよほど真水に近いようだ。
鉄分やらなにやらで、路面が赤く変色しているのをよく見るのだが。

そのまま庄川町金屋に入ると、西蓮寺の角で県道40号(主要地方道高岡庄川線)と交差する。
この交差点はややクランク状になっており、昔の城下町などに見られる「喰違い」の路網を彷彿とさせた。




6:32 《現在地》

西連寺を過ぎると登り坂が急になり、いよいよ山谷の中へ入っていく感じがする。

そして旧道に入ってから1.2kmで、右手から現国道が合流してきた。

これで庄川町内の旧道探索は終わりである。
そして、実は表題の「牛岳車道」とは無関係である(笑)。




国道156号に関しては、すでに「山行が」にも数回登場しているが国道156号旧道内ヶ戸歩危、日本列島を横断する長く険しい山岳ルートのスタートが、この庄川町金屋である。

この道の旧道巡りも利賀村に負けない興味深い題材で、事実この翌日を捧げることになった。
よって、いずれそのレポートを作成した際に、当回は再び参照されることになるだろう。

写真は、長い山岳道路の始まりを予感させる、萌える標識や電光掲示板である。
幹線道路が入山を前にすて矢継ぎ早に標識を示すシーンが、私のツボだったりする。(分かってくれるよね?)



(←)
なんという漠然としたイメージ!
「この先 急カーブ多し」って…、ようは「覚悟しろ」ってことか。

(→)
「156祖山トンネル 車両制限 高さ3.8m以下 重量20t以下」
まだ見ぬ…読み方さえも分からないトンネルなのに、萌えるなぁ。
明日は味わえるかなー?




6:35 《現在地》

そういえば、旧道から国道に戻って以来の国道は156号だけでなくて、471号とも重複したものである。

そして、いま再びここで旧道が左に分かれる。
今度は国道156号と471号共通の旧道かと言えばそう言うわけでもない。

ややこしいが、国道471号が国道156号の上に重複指定された平成5年当時、既に“旧道は旧道だった”のだ。
だから、この旧道は国道156号の旧道であって、国道471号の旧道ではないのだ。

どうでも良いようなことだが、そう言うところが気になるのがオブローダーの性である。




ということで、前哨戦の一貫として立ち入った二度目の旧道である。
この旧道を約1.2km先の終点まで行けば、いよいよ本題の国道471号に出られるはずだ。

さして重要なものがあるとも思わなかった“通り道”だが、ここで、
トンデモナイものに出会う。

それは、普通なら路傍にあっては許されないほどの、異様な存在感を持っていた。

そしてこの遭遇は、今日前半戦の“味わい”を何倍にも高めてくれた。

全く予期せぬ遭遇だった。








6:38 《現在地》

なななんじゃ
こりゃー!


ちなみに青いリュックは、サイズ比較用に置いた私のリュック。
そう小さいものではないのだが…。


このサイズと、ひな壇を削り出したような形…。
ここに大仏様でも安置したらサマになりそうだが、
よく見ると、奥の方の平滑な面に文字が並んでいる…。




塹山堙谷牛嶺乎
平五箇多産来貿
得便中越之富不
竭源泉


 明治廿三年九月
   加賀北方蒙題


これは…

 これはっ…!


「 山を暫(ほ)り谷を堙(ふさ)ぐ牛嶽か、
平 五箇(ごか)に多く産す
来たり貿(あきな)いて便を得、中越の富
源泉竭(つき)ず 」

砺波市市指定文化財」より




砺波市指定文化財
「牛嶽車道開通記念碑」

 この記念碑は、明治二十三年九月二十三日に建立されたものである。
 牛嶽南側一帯の山地は、通称石灰山と言って比較的大規模な鉱床として知られ、江戸時代末期頃から盛んに石灰を採掘、三里の道を人の背に委ねられて搬送されていた。
 水田の肥料として石灰の需用が増大する中で、地元の人びとが発起人となり「牛嶽運送株式会社」を設立して、石灰山から金屋まで馬車で石灰を運ぶための私道をつけることを計画、十五年間の賃取償却道路として許可を受ける。この車道の完成を祝って建てられたのが、「牛嶽車道開通記念碑」である。
碑面の漢詩・揮毫は、金沢の僧侶で、書家として高名な 北方 蒙(号心泉)である。

加えて砺波市の公式サイトも見てみると、そのサイズは碑面だけでも「高さ約2.5m、幅約1.7m」もあるという。
目測だが、下から上までの全体の高さは6mくらいあるだろう。
これだけの巨石を人が運び込んだとは考えにくいので、元もとここにあった岩を成形したのであろうが、それにしても大胆だ…。




流石にこの巨大さ、捨て置かれてなどいなかった!

市指定の文化財だ!!
(私が国王なら国宝にするが)

「牛岳(嶽)車道」との唐突な出会いだった。


しかも、

事前になんら調べをしてこなかったにもかかわらず、

私の進路はぴたりと 「牛岳車道」 を指していたのだから…


利賀への運命を感じた!