道路レポート  
国道113号旧線 宇津峠 その3
2004.5.22


 宇津峠の峠道に自動車が通れるような改良が成されたのは、明治14年頃。
それまでも、十三峠街道とも呼ばれた越後街道最大の峠として、ほぼ同じ場所を街道が通っていたが、改良の指揮を執ったのは、“鬼”こと、三島通庸、初代山形県令であった。
廃道界ではお馴染みの、万世大路や大峠を指揮したのも、彼であった。

峠の標高は、約500m。
飯豊町の最終集落である手ノ子からの比高は約250m。
数字的にはこれと言って困難ではないが、その屏風のような急斜面は、困難な行路であったはずだ。

廃止後37年余りを経過する旧峠へ、チャリ同伴で突入開始。
これぞ、三島 VS ヨッキれん 戦いのはじめである。


飯豊町側 旧旧道入り口より
2004.5.12 9:47

  

 廃道である宇津トンネルを早足で戻り、チャリへ跨り、登ってくる最中に確認していた、旧旧道らしき脇道の入り口に戻った。
チャリの乗ってからは、下りも急で道も良いので、あっという間である。
この脇道以外には、紛らわしい道はなく、これが旧旧道と見て間違いないだろう。
というより、もしこれでなければ万事休すだ。

見たところ、一応轍は続いているが、大変に弱々しく、とても峠まで楽に行かせてくれる感じはしない。
でも、三島が廃道で攻めてくるなら、受けて立とうじゃないか。
そうそう、あの「主寝坂峠」の様な悲劇も起こるまい。



 そういえば、前夜は雨だった。
そして、今晩からはまた崩れるような予報である。
そんな、雨の合間の晴れに探索できることは、幸いはであったが、しかし前夜の雨は道をより困難なものへと変えていた。
旧旧道へ入って、最初に私を苦しめたのは、細い轍に流れる流水や水溜まりであった。
あたりは、杉の暗い植林地であり、景色も至って面白みがない。

ある意味、最も望まない展開だ。


 だが、早速に現れたヘアピンカーブは、かつては道幅が広かったことを感じさせた。
そして、まださしたる急な斜面でもないにもかかわらず、早速につづら折りを開始したことは、これがただの林道ではなく、非力な自動車でも通えるようにと勾配を精一杯緩和した、当時の車道であることを物語っている。

やはり、この道が旧旧道なのだと確信した。
あとはもう、万難を排してただ登って行くのみである。
俄然、やる気が出てきた。
三島が出てくると、どうしてこうもやる気が湧いてくるのか。


 側壁に、石組みではなく、コンクリートが使われている箇所があった。
現在の轍よりも、かなり山側に拵えられているのが、お分かりだろうか。
道路敷きは、幅5m程度あったものと思われる。
これは、万世大路などと同程度の、本格的な道だ。
コンクリの擁壁は、廃止された昭和42年よりも以前、しかし昭和に入ってからの建築であろう。

この先、しばし道路構造物に出会うことはなかった。



 入り口から約500m。
もうすでに、3から4回はヘアピンのカーブを過ぎてきた。
私が持参している道路地図帳には、縮尺も10万分の1であるし、さすがにこの旧道は描かれていない。
こういう場合には、事前にオンラインの地形図サイトなどから該当部分の2万5000分の1地形図をコピーし、一緒に持ってくるようにしている。
幸い、現在版の地形図にも、旧道はこの飯豊側が点線であるものの、記されていた。
ただし、この様な汗にまみれる藪道では、いちいち立ち止まって何度も地図なんて開いていては、虫に集られて不快だし、そもそも目印になる物がほとんど無いので、今どこまで来ているかは判然とはしない。
そのため、登り始める直前に、大体何カ所くらいのつづら折りが、どのくらいの間隔であるのかを覚えておくようにしている。
実際には、小さなカーブが端折られていたりするが、それでも大変に心強いものである。


 植林地では視界が特に利かず気が付かなかったが、まだ新緑の浅い雑木林には、自分が上っていく車道の他に、何か壕のような地形が、つづらを無視して直線的に、しかし付かず離れずに並走しているのに気が付いた。
全く事前調査がないので分からないのだが、もしかしたら、これは「越後街道」時代の道なのかも知れない。
写真の地形などが、まさにそれだ。
こういうのが、かなりの勾配で、所々に見られるのだ。

これらは、残念ながら私の範疇ではない。
むしろ、相互リンク先の「街道WEB」様や「越の山路」様の世界だろう。
解明をぜひ、お願いしたい。


 9時58分。さらにつづら折りを重ねて上っていくと、初めてやや開けた場所に出た。
とはいっても、ここもまたつづら折りの途中でしかない。
また、この辺まで来ると、もう僅かだった轍も消えてしまった。
どうやら、本当に誰も来ていないらしい。
泥の上にも、足跡一つ見あたらない。

なんか、ここまでは奇跡的に藪も浅く、チャリでの往来に支障はなかったが、この後の困難は避けられなそうだ。
あとは、峠より小国側は現役の林道であるようなので、向こうからの轍が、こっちへどこまで伸びているのかによって、その辛さも変わってくるだろう。
徒歩と違い、チャリだと道路状況によって要する体力や、時間に大変な開きが生じるものだ。
まして、チャリがあったために突破が出来ないというような、最悪の事態も常に付きまとう。
それで、神経質にならざるを得ない。
この辺、当初からチャリを捨てて挑む林鉄探索とは、また別の面白さ…というより、辛さがある。


 つづら折りを主体とした、比較的緩やかな勾配はまだまだ続く。
そして、久々に道路構造物が出現した。
それは、林鉄探索ではもうお馴染みの、玉石の石垣である。
或いは、万世大路でも広く見られたものである。

写真は、切り立った石垣の上から、3mほど下を覗く。
さすがに、こういう部分では道幅も狭く、僅か2m程度となっている。
いよいよ、等高線も密になってくるのだ。
現在、高度350m。あと峠までは推定150m。


 地図上でもそう見えるが、実際の印象として、最も険しいつづら折りだったと思われるのが、ここからの100mほどの区間だ。
ほとんど、スイッチバックのようなカーブが数度続き、一気に見晴らしのある場所へと脱しようとするのだ。
ここは、廃道化も早かったのか、既に踏み跡も稀となっていた。
倒れかかってきたままに、そこで成長を続ける木々が覆い被さり、また足元はしつこい笹が覆う。
じっとりと全身に汗が滲む、力業のチャリ押し突破ゾーン。
持ち上げと引きずりを駆使して、余りにも邪魔くさいチャリを進める。
これに耐えねば、山チャリにまた敗北することになる。

三島との万世対決は、私的には負けだ。
トンネルの閉塞を突破できないのはやむないとしても、福島側では根負けして、遂にチャリを放棄してしまったから。
今回は、意地でもチャリごと突破。
そうしなければ、宇津峠の攻略すら不可能になる。(時間的に歩いて突破してしまえば、あとが無くなる)


 つづらの最中、視界がふと開けた。
もし、事前につづらの位置などを把握していなければ、このまま真っ直ぐ藪に入り迷うかも知れない。
それほどに、この区間の道は判然としなくなっていた。
地図があっても、ここは一瞬焦った。
振り返ってみて、そこにやや藪の薄い場所があったから、行く手を見失わずに済んだが。

正面に立ちはだかるあの山肌は、まだ峠ではない。
あのさらに裏、そこに宇津峠は眠っているはずだ。
高度はかなり上げてきたが、距離はまだまだ。
…期待通りのアツいバトルである。


宇津峠旧旧道 試練
10:08

 急な斜面に強引に削って、そこに道形を得た場所では、その斜面の角度に応じ、高い石垣が築かれていた。
ここの石垣は特に高く、さらに上段の道へと繋がっている。
これだけの高さは、万世大路にも見られなかったと思う。
万世大路が奥羽山脈を越えていることに比べ、その高度や、山の厚さでは到底及ばないが、地形の難しさは相当のものである。

最初、宇津峠の稜線を遠目で見た時から、その勾配のきつさは予感されるものがあった。
或いは、地形図の等高線に然りだ。
現代なら、まずはトンネルとなるような山越えであるが、トンネル工事にも積極的だった三島をして、なぜ宇津峠を総明かり区間とせしめたのかは、分からない。

もしや、三島は既に「ステクタイト」の困難さを知っていたのだろうか?



 しばし、人の気配のない山中だったが、道の上に一つのヘルメットが落ちていた。
そこには、「那須建設(株)」の文字があり、作業員が残していった物らしい。
かの会社のWEBサイトによれば、山形県長井市に本社を置き、建築・土木・採石まで手がけるようである。
崩壊地として悪名高い、米沢市板谷の蟹ヶ沢の砂防ダム工事も、この会社の施工であるらしい。

残念ながら、この宇津峠で、彼らがどのような活動を行ったのかは、サイトには触れられていないので分からなかった。



 ひとまず、このカーブでつづら折りは終わりだ。
もはや、車が通っていた形跡を路面に求めることは難しいが、地形全体を見渡せば、確かにそれは車道である。
地形さえ許せば、この様に充分な余地を持って、カーブも作られている。
チャリで登っていくのは大変ではあるが、やはりこの様な景色に出会うと、嬉しくなる。

これぞ、好ましい峠道の姿ではないだろうか?
無論その感想は、探索者として、であるが。
昭和42年頃には早々とトンネルが開通している道であるだけに、舗装される前に役目を終えている。
それ故探索は困難だが、古道的な味は舗装廃道に勝る。



 悲しい出来事が発覚した。
それは、1枚目のスマートメディアが撮影した写真で一杯になる直前に、ふとデジカメを入れるポシェットを見た時だった。

 あれ?
メディアが、一枚もない。

 馬鹿者は、なんと前回の山チャリの後で写真をPCに取り込んだ時のまま、予備のメディア3枚全てを自宅に置いてきていた。
あんまりにも、悲しいではないか。
この先は、もう撮影できないのか。
取り合えず、これまでに撮った写真で重複する物を多数削除して、さらに、これから撮る写真の画素数を最低の640pxまで落とすことにした。
それでも、あと30枚くらいしか撮れない。

 シクシク…。
三島よ、私は馬鹿だった。
許してくれ三島。
私は、お前の作品を最後まで見届けられぬかも知れぬ。





 気を取りして(いやさ、実際の探索時には、もうブルーすぎてブルーすぎて、一挙に全身に疲れが押し寄せました)、レポに戻ります。
 道は、予想していなかった展開になっていた。
写真を見ても、よく分からないと思うので説明しませば、旧道敷きはそっくりそのまま、遙か100m以上も下にある旧道は宇津トンネルの雪崩防止柵の設置場所として転用されていた。
丁度、このあたりはつづら折りを伴う高度稼ぎも一段落し、等高線に沿って峠へ近づいていく部分なのだが、この道に高い柵が点々と設置されている。
もはや、道としての往来は徒歩が精々で、そりゃ地図上からも抹消されるのも分かる。
ただ、往来が減って、或いは崩壊によって廃道化したわけではなく、この様な障害が人為的に作られているとは、思わなかった。



 この様に柵が続いている。

写真ではそうでもないが、日当たりがよいこともあって、ここの藪は手強かった。
美観を考慮したのか、緑色にペイントされた雪崩防止柵。
確かに、この斜面の下には旧道の坑門があり、雪崩は恐ろしかったはずだ。




 柵地帯からは、この様に宇津トンネル飯豊側坑門付近が一望できる。
広場のように見えるのは、坑口側の建設資材置き場だ。
無論、もっと遠く、長井市や米沢市の方向もバッチリ見える。
この日は、ちょっと日射しが強すぎて、霞んでしまっていたが、景色は文句なく良い。

いよいよ、峠が近いという実感が湧いてくる。

 柵区間は50mほどつづくが、終われば再び笹藪の多い一人の道となる。
峠が近いことは、風が出て来たことからも感じられる。
しかしまだ、轍は復活しない。
出来る限りチャリに乗って進もうとするが、藪に足を取られることしきりで、イライラが募る。
勾配は、相変わらずそれほどにキツいと言うことない。



 入り口から48分経過、やっと峠の切り通しと思われる、稜線の凹部が見えた。
あと少しに見えるが、山のこの距離というのは、まだ侮れない。

それでも、樹海の向こうに遂に見えた峠は、いよいよ攻略を意識させるに充分な近さに見えたのは確かだ。
三島よ、また一つお前の峠を頂くぞ。


 また視界が悪くなり、藪となる。
しかし、ひと頃よりも確かに、道の痕跡は確かになりつつある。
相変わらず、自動車で踏み込んだ形跡はないが。

地形に逆らうような、或いは地形を無視するような場所は全くなく(すなわちトンネルや橋だ)、全く正々堂々と、カーブと切り取りだけでここまで登ってきたのだ。
こんな道を辿って成す峠越えは、特に充実感がある。
なんといっても、峠を登ってきたという実感の濃さが違う。



 個人的に、この宇津峠で一番の収穫だと思ったし、嬉しかったのは、この写真である。

写っているのは、殆ど法面に埋もれるように、それでも確かに残っていた、道路標識である。
この発見は、誠に予想外であった。
旧道化した後にも、林道などとして使用された時期があって、その際に設置されたのだとしたら、糠喜びと言うことにもなるが、そうでなければ、これは貴重な昭和40年頃までの標識である。
そして、特に嬉しかったのは、何の変哲もない今と同じデザインの標識ではあるが、昭和40年代に廃止された道での、自身における、標識の初発見例となるからだ。
万世でもかなり探したが標識は一つも見あたらなかったし、猿羽根峠や主寝坂もそうだった。
だから、かの時代は道路標識などわざわざ山間部には設置していなかったのかも知れないと思い始めていたのだが。
どうも、そうでもなかったらしい。



宇津峠旧旧道 最終ライン
10:39

 再び視界が開けた時、峠はさらに接近していた。
だが、なお高度差は縮まっていない。
その、最後の登りは、ここからの九十九折りだった。
偶然だろうが、万世の山形側に異様に似ている展開だ…つづら→まっすぐ→つづらで峠と。
そして、ここの最終つづらは、万世のそれよりも遙かに巨大な石垣が待ち受けていた。

写真でも、その大規模な施工が見えるだろう。
下段の直線を右から左へ抜けて、次は上段を左から、右へと登っていく。

この景色。この展開。
一言で言えば、

キターーーー!! 
ってやつ?!



 まるで、トウモロコシのように見える石垣。
一体、幾つの石が使われているのか。
これだけの構造物が、何の保存や保護も受けず、ただ山中に没しているとは。
明治期のこれだけの構造物、私には価値があるように見えるが。

ただ、道という本来の機能を失った物が、博物的な価値だけの為保存されるというのも不自然な姿なのは間違いないし、やはり役目を終えた物は、それらしく没していくのが相応しいという気持ちもある。

人の庇護の元で、文化財という剥製になるか。
人の手を離れ、自然の一部に還っていくか。

あなたなら、どっち?



 石垣をよく見ると、一度で全て作られた物ではない。
隅の方は、後から補われたらしく、材質が丸石ではなく、住宅地などにもかつて見られた、コンクリートブロックである。
写真にも、その混在が認められよう。




 10時42分、大ヘアピンカーブ。

この180度の大カーブで切り返し、今度は石垣の上段へ移る。
そして、前方の切り通しへ繋がっていく。
私は訪れた時期が良かったが(というか、この様な展開を考えて、去年の万世に引き続きこの5月を選んだのだが)、このカーブなど日当たりが最高であり、一面ススキの枯れ原となっている。
時期を誤れば、視界ゼロの最終難関となっていたはずだ。

それにしても、このカーブは美しい。
今日では、道と道の外の区別は厳然としているのが普通だ。
例えば、ガードレールがあったり、白線が敷かれていたり。
でも、ほんの一昔前の山越えというのは、どこもこんな景色だったに違いない。
自動車のドライバーは、それぞれが道路幅を自身が判断しながら、慎重に進んだのだろう。
その集中力たるや、恐るべし。
まして、ここも路線バスが往来する峠であったというから…。

稜線を越え来る風が、谷底に点々と残る雪渓を見下ろして吹き抜けて行く。
涼しげな水音をに振り向けば、私の背後にも雪解けの水が小さな早瀬を作っていた。
残雪も僅かだが、手の届く場所にある。
峠を前に、何とも好ましい開放感だ。


 次のカーブは、厳しい物であった。
右の道から、左の道へ殆どスイッチバックのような急角度で遷移する。

また、前後の線形を合わせると、うまく言葉では言い表せないが、これまでの道路経験でも見たことがないような、変なカーブである。
前後のカーブとの関連性が薄い、突拍子もないカーブである。
大概のドライバーがギョッとするだろう、危険なカーブである。
この怪しい線形は、地図にはない。

なんだろう。
私は、思わず「三島め、これはないだろ。」
と、説教をたれたくなった。
そんな、怪しいカーブである。



 怪しいカーブを過ぎれば、そこから峠の切り通しまでは一登り、50mたらず。
見下ろせば、そこにはさっきの大カーブが見えた。
急な斜面に、今はもう道形だけしか残ってないが、かつては埃舞う幹線道路だった。
山形と新潟とを結ぶ、最短の国道であったのだ。



 遠く見えるは、磐梯の山々か。
かつて、峠の切り通しから飯豊側へ抜けてきたドライバーが、はじめに見た景色は、この景色だったに違いない。
それから、この青々とした樹海を、幾多の九十九折りで下っていくのだ。

宇津峠を、今極める。



 10時52分。入り口からは約1時間6分、約2500mの廃道であった。

宇津峠は、穏やかな、そして広い、切り通しである。
古き国道の峠だ。
ここまで来て、なお轍一つ、空き缶一つ無い。

自然にとけ込んだ宇津峠の姿は、文句なしに、美しい。
三島との戦いも忘れ、私はしばし目を瞑るのだ。


胸の鼓動の治まるまで。








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