2008/7/4 7:14
国道41号の二つ屋橋上から西の岩壁に見える道形。
今我々はその一角に立っている。
そして、これからその最も際立った岩崖へと歩み出す。
約50メートル間の、クリティカルワールド。
高いところが苦手な人ならば、なにも好んで見下ろしたいとは思わない高原川絶勝。
しかし、この下に石垣があることを知っている私は、のぞき見をせざるを得ない。
とは言っても、やっぱり恐ろしいから首をつま先より前に出すことは出来なかった。
言い訳がましいかも知れないが、路面全体が盛大に谷側に傾斜している。
それに、そもそもこの路面の全部が本来の踏み固められた路盤ではなく、降り積もった土砂なのだ。
だから、あんまり堅い踏み心地ではないわけで…
何が言いたいかっていうと、足場がわるいから、これ以上は勘弁してくださいッ! ってことです…。
いくらこの石垣を築いた先人に敬意を払うとはいっても、こんなことまでは出来なかった…。
この道、地形図にも記載されていた。
もっとも、発電所裏から強引に登る部分は我々のオリジナルだが。
これを見る限り、水面からの高さは70mほどあるようだ。
「えっ? そんなに等高線あるか?」 そう思った人は、図をもう一度よく見直してみて欲しい。
道があるのである。
確かに、人が一人ずつ歩く分には、おそらく不足のないだろう道が、ある。
ただし、絶対に自分の肩幅よりも大きな荷物を背負った状態とか、牛さんと一緒のような状況では通りたくないし、すれ違いは死んでも嫌だ。
そのほか、雨、風、夕暮れ、夜、早朝、冬、春先、などというシチュエーションの時も通行は遠慮させてもらいたい。
はっきりいって、怖いのである。
これはもう、具体的に「どうして」怖いというような怖さではない。
足を踏みはずさないとは分かっていても…
そこに絶壁があり、それは自分と何ら画されていないこと、
圧倒的な眺望の広さに対し、安全と思える場所が紐のように細いこと。
それだけで、十二分に私は怖かった。
写真では分かりづらいと思うが(あとで動画で確かめて欲しい)、それなりに広そうに見える道は、実はぜんぜん余裕がない。
さっきも言ったように、相変わらず路面全体が谷側へ傾斜している。
しかも、足元の草が濡れていて、滑りそうな気がする。
はっきり確かめたわけではないし、確かめることは頼まれてもしたくないが、路肩のあたりは草が生えていて路幅に見えるだけで、かなりフェイクも混ざっている。
何度もいうが、絶対にすれ違いはしたくない。
怖いところでもっと怖い想像(仮定)をして現実の怖さを紛らわせるというのは、私が良くやる恐怖緩和策だ。
ここでは、 「もし目をつぶったまま、壁に片手を触れた状態で歩き通せれば100万円!」 を想像した。
実際にはやるはずのないことを想像するのがキモである。
折角来たのに、撮影がほとんどモノレールでゴメンなさいです。
でも、空撮でもない限り、変わったアングルでの撮影は無理ですから。
通るだけで、基本精一杯ですから。
ともかく、笑顔が張り付いたまま顔から剥がれない(いろいろな意味で)クリティカルゾーンは、ごくごく短い。
30mほどである。
この写真の所まで来れば、終わりは近い。
再び、緑が我々を収納せんと、慈愛の手を伸ばしてきた。
間もなく、
この純粋で混じりっけゼロの恐怖から開放される。
安全が担保された途端、自称「スリルジャンキー」としての“ムシ”が、今まで小さく縮こまっていたくせに急に騒ぎ出す。
あともう一歩だけ深い体験がしたいと思った。
恐怖の深さだけ、私の心に道は、深く、確かに、刻み込まれる。
それは、我が経験則として動かし難い。
私は、この道のことを…
もっと近くで
もっと深く
もっと感じたかった!!
来たる、 スリルエクスタシー …絶頂!
ヨッキれん、
道との情姿。
二足直立は、ぎりぎりの矜持。
で、そっから撮影した写真。
写真では今ひとつ分かりづらいが、この岩場、すなわち「割石の高崖」には、江戸時代から次のような謂われが伝わっている。
面白いので、『神岡町史』から引用する。
割石の高鼻 とて難所の保木道あり、此次に高さ三間余・横六、七間の岩壁一ケ所あり、往昔、( 役 の行者此岩長刀にて大川東の道より菱成にきらせ給うよし。(
─飛騨国中案内より
役の行者とは、奈良時代の有名な陰陽師「
対岸の道から振るった刀の衝撃で岩壁を穿つとは、彼はアニメのキャラも顔負けの超人であったようだ。
さらに、同時代の「飛騨遺棄合府」なる書は、この菱形の亀裂の入った高鼻(高崖)の岩場自体が「割石」という村名のもとになったと伝える。
村名についてはもっと直接的な表記をしているものもある。
この処、高端 の絶壁の大岩を穿ち割って、現今に見る如く険しき道を開きしより、割石村の名に負いつらむ。(
─斐太後風土記より
そのものずばり、この道を切り開いた事蹟自体が村名になったというのだ。
多くの風土記に名を残す割石の高崖。
道が全般に険しかった往時であっても、相当に看過できぬ難場であった証だろう。
7:18
無事に通り抜けた。
対岸谷底の国道のシェッド群を木々の隙間に見ながら左へカーブすると、すぐにまた明るい場所が見えてきた。
そこには、北陸電力の高圧鉄塔が一本建っていた。
ここが、現役の管理歩道であることを忘れていた。
鉄塔の先にもなお道は続いていそうだったが(地形図には西漆沢あたりまでずっと道がある)、今回は「神岡軌道」の探索に戻らねばならず、撤収した。
来た道を、撤収。
地図を見る限り、ここはもし来ようと思えば、チャリでも来られたっぽい。
俺。 最初に入る道を間違えて、本当に良かった!
こんなところを騎乗のママ通過するのは、自慰どころか完全に自殺行為だ。
でも、チャリを連れてきていたら、試さずにはいられなかっただろうオレタチ。
7:31 国道に帰ってきた。
まるで白昼夢のような「割石の高崖」探索は終わった。
江戸時代に切り開かれ、明治中頃まで盛んに利用されていたこの道の正体は、「越中中街道」という脇往還だった。
有名な「五街道」を国道とするならば、県道クラスの道といえば分かりやすいか。
この図のように、越中街道(もしくは「飛騨街道」)と呼ばれる道は、猪谷(富山市)〜上広瀬(高山市)の間で3本に分かれていた。
この高原川沿いだけでも、左岸の「中街道」と右岸の「東街道」とは、途中で一度も交わることなく、しかも同時代に併存していた。
いずれの道にもこの「高崖」のような難所があり、落石や雪崩などによる通行止めを余儀なくされることが多かったがゆえの3本並列であったろう。
参勤交代に使う大名の無かったせいか、街道には付きものの「宿場」という名称も一里塚も無かったようだ。
それでも高山以南の内陸地方にとって、貴重なタンパク源や塩などを移入するための、生活必需の道であった。
神岡鉱山の採掘が盛んになると、「ドシマ」と呼ばれた駄牛輸送者や、ボッカ(歩荷)の人々が、重い鉱石を運ぶこともあった。
前話の最初の方で「…そんな「超自然力」を得る前の道が、この高原川沿いには少なくとも3本ある。」と書いたことをおぼえているだろうか。
そのうちの1本が、「越中中街道」であった。
そして、「越中東街道」が右岸にあったはずだが、これは数に含めないことにする。
なにせ、良く場所が分からないので。(必ずしも今の国道と重なっていたとも限らない)
だから、あともう2本。
「素直な崖伝いの難路」があることになる。
…察しの良い人ならばもうお分かりだろう。
次の写真に、その2本の道が揃って写っている。
上、下 2本だ。
見つけて欲しい。
同じ割石地内の国道から、対岸(すなわち右岸)を撮影した写真。
見つかりましたか?
ゴミクソのような石垣の残骸しか見えないかも知れないが、それは正常である。
ここに、神岡軌道の線路跡と、国道41号の昭和39年まで使われていた旧道が、上下二段に並んで通っていると言われても、信じがたい。
こっちは、険しくとも、「廃道」ではなかった「高崖」と違い、 マジモンだ。
事情を知らないまま、「これから行く場所だよ」なんて耳元で囁かれたら、俺なら気が変になったかも知れない。
nagajis氏だったから耐えられたのかも。
いまは、中盤戦で一進一退、ノロノロやっている「神岡軌道」のレポートだが、終盤ではここに踏み込むこととなる。(というか、この日この後で…)
「神岡軌道には、探索上で3箇所のハイライトがある」と神岡軌道のレポートの中で何度か書いているが、これはその2番目となる場所である。