阿武隈高地は、宮城・福島・茨城3県の太平洋岸に連なる広大な丘陵性山地で、八溝山や霊山などがよく知られている。
昭和53年に出版された『ふくしまの峠(福島中央テレビ刊)』に「阿武隈高地最難所の峠」と紹介されているのが、福島県南相馬市(旧原町市)と相馬郡飯舘村の間にある八木沢峠(海抜520m)だ。
昭和52年に完成したという現道を行けば峠も遠く感じないが、旧道には7つの大曲りと23の小曲りがあったといい、ドライバー泣かせの難路として知られていたという。
また、この旧道は明治初期から2度にわたり開鑿された道であったともいう。
八木沢峠は典型的な“片越え”の峠で、原町側は鹿島区(旧鹿島町)橲原(じさはら)あたりから峠が始まり、約10km、高低差450mの長大な登りを要するが、一方で飯舘側は峠のすぐそばまで農地が広がっており、最も峠寄りの八木沢集落からは500mと離れていない。
峠の名は冠しているものの、阿武隈高地の上と下を繋ぐ長い坂道といっても良い。
左の地図をご覧頂こう。
いかにも車が喜びそうな現道(緑)に対し、ほつれ糸のような旧道(赤)が散見されよう。
今回はこの旧道を使って、原町側の坂下集落より峠を目指そうと思う。
この間の距離は現道ベースで5km、高低差は350mほどになる。
なお、図中で“塩の道”と示した点線は、藩政期までの古道で、旧八木沢峠越えの道である。
相馬藩の城下町中村(現在の相馬市)に通じ、主に塩や海鮮物が中通り地方へと運ばれていたというが、自動車時代の到来とともに廃道になり、いまは植の畑林道が概ね並行している。
ここからが昭和52年に廃止された区間である。
まずは築堤上から沢沿いへと緩く下る新旧道間の取り付け道(写真右)。
20mほどで下りきると、そこから本来の旧道が始まる。
なお、この一連の旧道区間は地形図にも記載が無い。(第3・第4区間は記載されている)
そのことから、現況への不安要素が特に大きかった区間でもある。
旧道に入ると、まずはその幅の広さに驚いた。
ちょっと大袈裟ではないかと思えるほどの幅がある。
その気になれば2車線が余裕にとれそうだ。
写真は旧道に入ってすぐの場所を振り返って撮影しており、右奧に見える青い橋が現道の坂下橋だ。
向かって左の法面はガチガチの岩崖だが、カッターナイフで切り取ったかのようにスッキリと処理されている。
これだけの道幅を確保しておきながら、鋪装されていた痕跡はない。
狭隘で急勾配、そんなありがちな展開を覚悟していたにもかかわらず、予想外。
“良ネタ”の予感に胸が高鳴った。
上真野川の細い流れと岩崖の法面に挟まれたカーブを1つ越えると、早速にして旧橋が現れた。
カーブの途中で川を渡って反対岸へ進路を取っているのだが、贅沢な道幅に対し路上の轍は中央に僅かばかりで、両側は冬なお青々とした笹に隠されている。
お陰でこの旧橋、見逃して通り過ぎかけた。
また、どうやってもその「橋らしい姿」を写真に収めることが出来なかった。
左は親柱だが、藪を掻き分け探し当てたところで、既に扁額はなくなっていた。
右は橋を振り返って撮影。
路面も土に覆われ、欄干もまるっきり見えない。いずれにしても特筆する事のない小さなコンクリート橋であった。
なお、右上のカーブミラーとガードレールは現道のものだ。
おそらく真夏にはこの微かな轍も緑の海に沈んでいるのだろう。
霜を被った枯草を踏むと、サドルを通じてサクサクと微かな抵抗を感じた。
並行する現道はもう、数学的に計算された近代的な道路線形を連ね、峠てっぺんを目指した高度稼ぎに入っている。
旧道の方はあくまでも地形の機嫌を伺いながらなので、沢に沿って辿れる内は無理もしない。
そのため、新旧道の高度差はどんどんと開いていくことになる。
やがては収斂する定めを知っているだけに、いまは楽であるにしても、一人沢底に取り残される心境は複雑だ。
旧道は、杉の植林地に囲まれた谷底を、まるで廃道のようにトボトボと進んでいく。
そんな重苦しい景色の中、ふと見上げた視界に飛び込んできたのは、軽やか且つダイナミックに谷を跨ぐ、巨大な鉄橋だった。
その上を音もなく通り抜けていく車達が、いやに小さく見えた。
圧倒的な力の差を見せつけられ、旧道は戦意を喪失してしまったのか。
辛うじて続いていた轍も、無様に泥を抉った切り返しの痕を最後に消滅。
地図に書かれていない事も納得の、完全なる廃道が始まる。
この頭上の橋は、新道の構造物として最大の規模を誇る「沢見橋」。
橋上からは、沢どころか太平洋まで見渡せるという。
坂下橋から八木沢橋、そしてこの沢見橋までの現道は、谷の右も左も無いとばかり谷底から何十メートルもの高所に次々と橋架け、両岸山腹の美味しいところを贅沢に使って大ヘアピンカーブを描く。
これぞ、近代的道路の特権的道のりだとでも言いたげだ。
轍も消え、秋枯れの雑草が腰丈までのさばる旧道を、突き進む。
橋の真下に立つと、ようやく行き交うエンジン音やジョイントの鳴りが聞こえた。
この橋がもたらしたものは、快適なドライブの到来と旧来の道の忘却ばかりではなかった。
橋の下には夥しい量のゴミ、ゴミ、ゴミ。
ペットボトルや空き缶が圧倒的に多いが、廃道に似つかわしくないこのカラフルさは、まさに現在進行形で降り積もっている事を教えてくれる。
彼らは、下に誰もいない事をいちいち確かめた上でゴミを捨てているのだろうか。
美観どうのこうの以前の問題で、橋からのゴミ捨ては人殺しをも憚らぬ愚挙と言わざるを得ない。
近代道路の雄々しさに感激するはずが、余りのゴミの多さでテンション激下がり。
続いて現れた旧道の3本目の橋(この区間内では2本目)も、さらりとスルーである。
残念ながら、この橋の銘板も失われていた。
轍は消えても道路としての体裁は保っていた旧道の行く手に、木材の山が現れた。
杉の木を伐りだしてここに整然と並べ、あとは運び出すだけという状況だったように見受けられるが、なぜか放置。
一夏以上放置されているようだ。
これによって、チャリや軽バイク以外の車両は進入不可能となった。
そして案の定、ここから先の薮は、いままでよりも横柄な態度だった。
葉を落としているくせに、芯がしっかり生きているツタ類。
棘を隠し持っているバラ類など、より地に根を張った薮が現れだしたのである。
路面が流水で繰り返し抉られたせいで、そこに残っているのは拳大以上の瓦礫ばかり。
歩きにくい事この上ない。
チャリに跨ろうなどと言うのは無謀で、跨っても速攻タイヤが瓦礫の山にめり込んで傾く。
素直に押して歩くしかない。
相変わらず道幅は十分なのだが、しっかり廃道になってしまっていた。
写真はこの登りを振り返って撮影。
遠くには沢見橋が見える。
午前8時ちょうど、旧道もようやく重い腰を上げる。
180度ターンのヘアピンカーブが現れ、沢との決別を告げた。
写真左はヘアピンカーブの様子。
右より登ってきて、左のススキの原へ切り返す。
その鋭角な様子と、かなり広く取られた余地がお分かり頂けるだろう。
路面さえしっかりしていれば、こんなカーブの峠道は今でも沢山ある。
写真右は別れを告げる上真野川の谷。
すでに先ほどまでの穏やかさは消え失せ、源渓の荒々しさを帯びている。
さしもの旧道も、これ以上は谷沿いを進めないと判断したのだろう。
切り返し、今度は下流方向へと進路を向ける。
だがそれも長く続かず、すぐにまた切り返しのカーブが見えてきた。
すなわり、つづら折れの出現だ。
写真右端には、ガードロープの支柱だけが取り残されていた。
2つめのヘアピンカーブは、1つめに輪をかけて広い余地を外側に持っていた。
それにしても、大袈裟過ぎるカーブである。
普通車だけでなく、大型トレーラーの通行も考慮していたのだろうか。
当時は車の越せる峠自体が貴重であったから、今では考えられない通行風景もあったかも知れない。
現に路線バスはかなり昔からこの峠を越えていたようだ。
2つめのヘアピンを抜けたところで、問題が発生。
行く手が想定外の薮となってしまった。
しかも、この写真に写るコンクリートの壁も、もともと旧道のためにあったものではないような気がする…。
嫌な予想は的中していた。
実はこのとき、旧道は強引にヘアピンカーブを重ねて一気に現道との高低差を縮めようとしているのだが、現道側でこれを阻止する動きに出ていたのだ。
具体的には、現道の路肩を保護するための崩落抑止構造物を、旧道敷きの上に多数建造していた。
この段階では、まだ私はその悲しい旧道の定めを知らなかった。
ただ、この不可思議な壁の出現に首をかしげるだけだった。
極端に狭まった道幅を不審に思いながらも、他にどうする事も出来ず、薮に溢れた平場を進む。
雨水で抉れた斜面には、大量の砂利や、コンクリート製の埋設物が露出していた。
それらは補強された法面や工事現場にはあっても、この古びた旧道にはあるはずのないものだった。
ますますつのる怪しみの気持ち。
決定的なのが、これ。
旧道敷きじゃないでしょ。 これは。
道を間違ったわけではないが、旧道の九十九折りが現道の法面工事によって破却されてしまったのである。
さてどうするか。
遙か上の方に現道のコンクリート吹きつけの法面が見えていたが、まだ高低差は20m以上ある。
しかもひどい薮のため、チャリごと登っていける見込みは薄い。
救いの手を探して谷側を見下ろしてみた。
まだ平和だった頃の旧道がすぐ下には残っていた。
だがそれは、つい数分前に自分が辿った道に過ぎなかった。
駄目だ駄目だ駄目だ。
上を見なくちゃ。 駄目。
おそらくかつては3つ目のヘアピンカーブがあっただろう場所。(写真左)
いまも当時広かった余地の一部が残っているようで、平坦だ。
しかし、現道との高低差はご覧の通り。(写真右)
一気によじ登れば現道にカムバックできるだろうが、よく整形された法面は手掛かりに乏しく、チャリを連れて行く事は難しそうだ。
旧道がそうであったように、私もここで切り返した。
コンクリートの埋設物が露出した斜面を、チャリを押して進む。
あくまでも、旧道敷きをなぞるように。
すると、再び旧道の遺物に遭遇した。(写真右)
コンクリート製のガードレールというか、支柱である。
相当に古い造りだと思われる。
おそらくここには左の図のような線形があったのだろう。
4つ以上のヘアピンカーブで一気に50m近い高度を詰めていた。
なおも進むが、ついに道は猛烈なブッシュと、どこが道か分からぬ傾斜に取って代わられてしまった。
これはイケマセン。
ここまでよく頑張ったが、私は旧道の前途を悲観し、脱出することにした。
現道までの高低差はまだ10m以上あるようだが、延々と引き返すよりはマシだ。
この区間の旧道に入って13分経過、午前8時13分。
道を棄て、斜面に対し私とチャリの連合軍は、宣戦を布告した。
よっじっのっぼっれ!
うんとこどっこいしょ♪
うんとこどっこいしょ♪
衰えたりと雖も、ここで引き返すわけには行かぬ。
ここまで私を、徒歩の何倍ものペースで連れてきてくれた愛車であっても、容赦はしない。
引きずって引きずって、引きずり抜いて、引き揚げろ!!
ヨッシャー!
ガードレールに到着ッ!!
ひでぶー。
ガードレールも、まだ旧道でしたよ…。
でも、とりあえず現道はすぐそこに見えたので、セーフ。
セーフ……。
間違った所へ上ってきてしまったかと、一瞬慌てた。
(このガードレールはなんだったんだろう?厳密には新道とも旧道とも付かぬ場所だ)
想定外の苦労もあったが、午前8時22分、無事に現道へと脱出。
第2の旧道区間を終えた。
こちら側からは、旧道がここにあるなど気付きようもないだろう。(写真右の電柱の下に旧道が隠れている)
次回は、いよいよ峠への長い旧道区間へ。
美しき峠路へ、ようこそ!!