秋田県由利郡矢島町は人口6000人ほどの過疎の山村だったが、平成17年に晴れて広域合併を果たし由利本荘市の一角となった。
霊峰鳥海山の北陵に座し、町域の半分以上をその広大な裾野が占める。
町の中心地は子吉川の左岸の盆地にあり、古来より河川交通と陸上交通が交わる交易の地だった。
広域合併前は周辺町村と共に由利郡の一部であったが、廃止の危機に面した国鉄矢島線を全国に先駆けて第三セクター化し黒字経営を達成したり、自前の光ファイバー網を有するなど、そのアグレッシブな町政には定評があった。
この矢島町が最近は私の第二の故郷となりつつあるので、特に興味を持って町を見回してみると、なるほどなかなかに面白い町である。
例えば、明治維新後の廃藩置県では、僅か数ヶ月だが矢島県という独自の県だったこともあるし、それ以前は矢島藩生駒氏がこの地を治めていた。
古くは鳥海山修験道の舞台でもあったし、日本海沿岸の仁賀保地方と内陸仙北地方とを結ぶ塩の道の中継地でもあった。
どこか、平凡な田舎ではない異彩を放っている。
ここは歴史の授業でも、町の感想を述べる場所でもないので、道路の話をしよう。
右は、現在の旧(以下煩雑になるので旧の文字は略す)矢島町の国道および主要地方道の配線図である。
子吉川に沿って町を横断する動脈国道108号線と、これとクロスする主要地方道32号仁賀保矢島舘合線がメインの道である。
さらに矢島町中心部からは2本の主要地方道、58号(象潟矢島線)と70号(鳥海矢島線)が生まれており、これら三つの主要地方道と国道が、僅か2km四方ほどの空間に格子を形作っている。
僅か人口6000人の町にしては、過剰なほどの県道網ではないか。
そのような余計なお世話的疑問は、町の人口が1万人を越えていた昭和25年頃の路線図を見ると消散する。
なるほど、町は栄えていたし、県土にとっても重要な要衝だったのだと納得させるだけの説得力が、当時の路線図にはある。
左図が、昭和27年に旧道路法から現行道路法に法律が代替わりし、旧制の県道網が一斉に消失する直前の頃の路線図だ。
当時は国道がまだ通っていなかったが、矢島町はまるで…都心のような道の集中を見せている。
そして、その多くの路線が、矢島を起点にしていることも注目に値する。
一概にそれだけで町の優劣を決めつけることは出来ないが、本荘や湯沢と言った現在も栄える市名に先じて起点となっている。
かつて一国の中心地であった矢島が、一時期は県南で最も重要な交通上の要衝だったとは、言えるのではないだろうか。
さて、このように多くの道が存在する矢島町であるが、オブローダー的にはやはり、新旧の道を比較し、そこに廃れた道がないかと言うことに興味が向かう。
そう言う目線で先の2つの図を見比べると、いくつものバイパスが開通し道が遷移した痕跡の影に、ある一つの道の消失が、鮮明に現れてくる。
お気づきだろうか…。
失われた道は、右の図で紫色に塗った路線だ。
矢島町史や、現地に刻まれた記念碑を精読すれば、この道の正体がおぼろげにだが見えてくる。
明治ごろまでは鳥海修験道の山伏たちが通った登山道であると同時に、鳥海高原や鳥海山の山襞を縫って日本海岸に続く街道の一部であった。
明治に入り初めて道に等級が付けられたとき、この道は県道に任ぜられ「仁賀保線」と称された。
大正9年に旧道路法が交付され、この元での県道は昭和27年まで増加し続けるが、この時は県道「矢島平沢線」となった。
昭和27年に現行の道路法に改められると一転、その道は県道の座から滑り落ちた。
一方で、その南寄りに位置し、昭和5年に未完ながらも県道指定を受けていた「矢島象潟線」は、鳥海山の観光登山道路として整備される幸運に恵まれ、いち早く車道化を完了、昭和27年以降も県道として現在まで健在である。
そして気がつけばこちらの路線、二つの県道の重用区間にまで出世している。
以上をまとめると、本稿で私が問いたい事は一つ。
明治時代から昭和27年頃までは県道として確かに存在していたはずの道は、現在どうなっているのか。
地形図によれば点線で描かれてはいるが、車道のようには見えない。
次回より、先頃行われた現地踏査山チャリの模様をお伝えしよう。
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