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  [No.9494] 山崎峠 投稿者:MR   《URL》   投稿日:2015/12/30(Wed) 19:26:42
山崎峠 (画像サイズ: 500×335 101kB)

旧道は行きました?
私も実際には逝ってないのですが、あの爆撃隧道(ヘナリ様命名)の上に隧道が出来る以前の道がある様です。


  [No.9498] Re: 山崎峠 投稿者:ヨッキれん   《URL》   投稿日:2015/12/31(Thu) 00:28:00

> 旧道は行きました?
> 私も実際には逝ってないのですが、あの爆撃隧道(ヘナリ様命名)の上に隧道が出来る以前の道がある様です。

それは存じませんでした。
歩道ではなく車道だったならば、ぜひ挑戦してみたいですね。
結構高さもあるので、アプローチを含めたら、案外長いのかも知れませんし。
ちなみに、明治41年の地形図だと、山崎峠を超えてから、隧道がある尾根を伝って麓まで降りる徒歩道が描かれていますが、それとは違うのでしょうか。


  [No.9508] Re: 山崎峠 投稿者:MR   《URL》   投稿日:2016/01/01(Fri) 11:16:50

>それは存じませんでした。
> 歩道ではなく車道だったならば、ぜひ挑戦してみたいですね。
> 結構高さもあるので、アプローチを含めたら、案外長いのかも知れませんし。
> ちなみに、明治41年の地形図だと、山崎峠を超えてから、隧道がある尾根を伝って麓まで降りる徒歩道が描かれていますが、それとは違うのでしょうか。

私がレポした当時では鉱山にまつわるルートとして最初は宮城県側(発見もその後の鉱山運営会社も宮城の会社だったため)に、江戸末期は現在の隧道の上に道があったとされます。
ただ当時はいわゆる狸堀りなので産出量も少なく、その道で十分だったようです。
その後明治に入り次第に掘削技術が進歩すると鉱脈に当たり、鉱山は明治・大正と少しずつ大きく成っていきます。
隧道自体は鉱山が最盛期を迎える昭和17〜8年頃に貫通(これは車道としての完成で歩道としてもっと前に掘られていたかも知れない)したと思われます。
しかしこれは、鉱山に千人以上の人が住み、病院や学校、映画館まで造られた記述があり、会社登記が宮城県と言う事からも大量の物や人が宮城県側から運ばれる為には、それなりの道があったのではないか?という推論でしかありません。

一方、掘り出された鉱石自体は日本鉄道東北線が福島側の国見に藤田駅を開設(駅誘致の理由の一つ?)するに伴い鉱石は福島に牛などで降ろした、その人員は国見の人たちという記述が郡史などにあり、ヨッキ氏の言う明治道はコレに当たると思われ、写真にあるセローの方々もその道を走っているようです。山崎峠の現車道は戦後の開鑿ですが、それまでは以前の尾根道だったという確証のある記述は未だ発見出来ません。

ただ、ご本人らはそれが明治道とは知らない様ですし、隧道頂上から北側、つまり林道達沢線(石母田峠)側の坑口方向に向かう道を確認してない様で、隧道の誕生も含めた全体像もまた「激藪の中」であると思っています。


  [No.9619] Re: 山崎峠 投稿者:甘英   投稿日:2016/02/28(Sun) 09:12:36

私事ながら、むかし間違って入り込んだことが有ったため、この赤井畑国見線と言う道には私もそれなりに興味を持っていました。
しかし、その後も何かとちまちま調べていたのですが、この道は調べれば調べるほど謎が多すぎると、最近は難渋してしまっていたところでした。

例えば、この道の肝とでも言うべき七里沢隧道の場合、開通年に関しては[みやぎの峠]と言う本に『明治のトンネル』との一文が見られます。
しかし、1/5万地形図では1935(s10)年のものが隧道の初出となっていますし、[山形の廃道]さんのリストを見れば1953(s28)年の竣工となっており、数少ない資料同士が互いに矛盾しあう状態となっています。

一応1926(t15)年発行の地形図には隧道らしきものが確認できないので、根拠の不明確な明治隧道説は一旦置かなければなりませんが、それにしたところで地形図と[山形の廃道]さんのリストの間に有るおよそ18年の時間差はかなり大きいように思います。特に、この道の存在意義ともいえる三泰鉱山がその間に閉山していたかもしれない(「特設電話所」の廃止が1948年)となれば尚更です。
この問題の答えとしては正直、MRさんの言われた『最初は歩道隧道(として竣工したもの)だったかもしれない』との推論にとても説得力を感じてはいます。ただ、前後に連なる道が1935年の時点で既に車道の可能性も否定できない「連路」表記となっていることがやはり気に掛かります。

また、最大時でも4千人に届かなかった当時の小原村の人口が、『千人が働いていた』と言われる三泰鉱山の推定閉山時期にほとんど減っていない事も不自然に感じています。これでは小原村外から数百人規模もの人々が、毎日あの隧道を通って鉱山まで通勤していたと言う事になってしまわざるを得ません。それも戦前、戦中と言う困難な頃に。

この赤井畑国見線と言う道は、一事が万事こんな調子です(苦笑。

ちなみに前述の1935年の地形図には、隧道を通る連路と、旧道となった小径の両方が並存しているように描かれています。それを見ると明治41(1908)年版にも載っている旧道の方は、どうも わらびの碑で知られる熊野神社の辺りから尾根を越えていたようです。
状況証拠的には江戸時代初期ごろ既に存在していた可能性が有るなど、それなりに由緒有る道ではあったようですが、残念ながら小径表記でしかなく、隧道表記なども存在しないため、恐らくかつての道筋をトレースする事はほとんど不可能な状態になっているものと思います。