皆さん!
22日のテレビ朝日「スーパーモーニング」はご覧になりましたか?
この中で「口野隧道」(仮)が取り上げられました。
そして明らかとされた、驚愕の真実!
口野隧道2
いやー。衝撃的でした。
「テレビの本気」を垣間見た思いがします。
しっかり否定されてしまった私の「切り通し隧道跡説」ですが、これは完敗…、
いや、正しい歴史を発掘してくれたテレビ朝日さんに「乾杯!」ですね。
私のレポートとの重大な相違点を上げてみたいと思います。
■切り通しは隧道跡ではないか? →
切り通しは近世から切り通しとして存在していた→
隧道は石碑の置かれているあの穴自体だった!
※VTRに出ていた「伊豆長岡町誌」は私も読んでいたつもりだったんですが、近世以前は読まなかったのが失敗でした、猛省。
■石碑に刻まれた隧道の長さは「十間」 →
専門家の解読の結果、「数十間」という意味であると判明しました。これについては、目に見えている「十間」の文字が強すぎて、疑う余地がありませんでした。反省。
口野隧道1
また、隧道の図面がいまも残っていた事も驚きです。こういう図書館で気軽に見ることが出来ない資料については、現状の山行がの探索深度では辿り着くことはありません…。
私の中での比重がどうしても【踏査>机上調査>聞取調査】となっていることと時間的な制約から、こういった損失は各レポートで起きているものと危惧されます…。
→調査専門家チーム設立キボン!(笑)
そしてここからは、私とディレクター氏の個人的なミーティングで明らかとなった事実です(放送では使われていません)
■わずか30間(54m)の隧道に15年(明治5年着工〜20年竣功)した理由は?
■隧道としては不自然きわまりない、洞内屈曲の理由は?
石商人の山田氏は、明治5年頃からあの場所で石切場(丁場)を操業していた。次第に山の両側の丁場が接近してきたので、これを接続して隧道として用いることを思いつく
→
県に工事の許可や補助を求める文書を出す(文書現存)
→
丁場同士の接続と、その前後の道路改修工事を実施し、隧道として開通する(これが明治20年)
→
明治35年頃に海沿いの新道が出来て廃止される
→
昭和の時代に再び別の人が石切場として操業して、現状のように改変する
という新しい流れが解明されました!
これなら屈曲も15年という工期も納得ですね。
最後になりましたが、私の調査力不足から、いままで誤った情報を掲示し続けた事を、読者の皆様にお詫びします。
このレポートを作ったのが私一人なら晒し首も良いのですが、レポ内にも書いたとおり、このレポには情報提供者さんがおります。そして、石碑の解読に至っては、このサイトの多くの読者さんにもお手伝いしていただきました。(本当にありがとうございます)
彼らのミスではありません。あくまで私の個人的な誤診でした。
その上で、結果的に間違ってはおりましたけれど、自説として一つの結論を出せたことは、無駄ではなかったと思います。
何よりそれを公開していたことで、今回テレビ局の目にとまり、こうして謎が解明されたのは事実なのですから。
実はこのディレクター氏とのお付き合いはもう少し前からありまして、すでに放送は終わっていますけれど、何箇所か当サイトがネタ元となっての調査が行われています。
いずれ機会があれば、そのお話しもしたいかなと思います。
追記1.
そういや、あそこで切り出された石は東京銀座の煉瓦街にも使われたって放送してたけど、その建設を指揮していたのは、まだ県令となる以前の三島通庸なんだよなぁ。
追記2.
女性レポーターが、泳いでましたねぇ。私も泳ぎましたよ(笑)。
例の”爽やかグアノ水”が、本当に爽やかに見えたのは、女性の魔力でしょうかねぇ。
私が入ったときには、本当に気持ちが悪かったのですが…。