>それは存じませんでした。
> 歩道ではなく車道だったならば、ぜひ挑戦してみたいですね。
> 結構高さもあるので、アプローチを含めたら、案外長いのかも知れませんし。
> ちなみに、明治41年の地形図だと、山崎峠を超えてから、隧道がある尾根を伝って麓まで降りる徒歩道が描かれていますが、それとは違うのでしょうか。
私がレポした当時では鉱山にまつわるルートとして最初は宮城県側(発見もその後の鉱山運営会社も宮城の会社だったため)に、江戸末期は現在の隧道の上に道があったとされます。
ただ当時はいわゆる狸堀りなので産出量も少なく、その道で十分だったようです。
その後明治に入り次第に掘削技術が進歩すると鉱脈に当たり、鉱山は明治・大正と少しずつ大きく成っていきます。
隧道自体は鉱山が最盛期を迎える昭和17〜8年頃に貫通(これは車道としての完成で歩道としてもっと前に掘られていたかも知れない)したと思われます。
しかしこれは、鉱山に千人以上の人が住み、病院や学校、映画館まで造られた記述があり、会社登記が宮城県と言う事からも大量の物や人が宮城県側から運ばれる為には、それなりの道があったのではないか?という推論でしかありません。
一方、掘り出された鉱石自体は日本鉄道東北線が福島側の国見に藤田駅を開設(駅誘致の理由の一つ?)するに伴い鉱石は福島に牛などで降ろした、その人員は国見の人たちという記述が郡史などにあり、ヨッキ氏の言う明治道はコレに当たると思われ、写真にあるセローの方々もその道を走っているようです。山崎峠の現車道は戦後の開鑿ですが、それまでは以前の尾根道だったという確証のある記述は未だ発見出来ません。
ただ、ご本人らはそれが明治道とは知らない様ですし、隧道頂上から北側、つまり林道達沢線(石母田峠)側の坑口方向に向かう道を確認してない様で、隧道の誕生も含めた全体像もまた「激藪の中」であると思っています。