この掲示板への書き込みは、管理人の承認後に公開される設定です。
問題のない書き込みは通常48時間以内に反映いたしますが、管理人の都合によりこれ以上遅れる場合があります。
また、次のような書き込みは公開しない場合があります。
【作者が独り占めしたいオイシイ情報】【誹謗中傷やプライバシーに関わるもの】
この掲示板にはバグがあり、承認以前に同一IDから複数回書き込みをされた場合、最新以外の書き込みが消滅してしまいますので、公開前に連続して書き込みをなされませんようお願いします。
なお書き込み非承認の際の個別連絡はしておりませんのでご了承ください。
全然回答になっていなくて申し訳ないですが、具体的ルートが検討されていたとは知りませんでしたのでちょこっと調べてみました。
1952年頃と言うと、自動車の普及に対抗すべく、複線区間延長や新型特急車両2000系導入など必死になっていた頃ですが…
創業当時の計画として手元の資料にはWikiと重複しますが(というか、ネタ元か?>『信州の鉄道物語』信濃毎日新聞社刊)
「大正4年に佐久鉄道(現:JR小海線)が”日本横断鉄道”構想として、太平洋岸-静岡-身延-甲府-中込-小諸-屋代-飯山-十日町-長岡-日本海岸を結ぶ鉄道建設を検討した」
「まず手始めに屋代-須坂間の免許申請が大正8年12月に免許申請した」
などとありますけど、具体的な話は見当たりませんでした。