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  [No.8350] 「佛山修路記」意訳 投稿者:さきほどコメントしたひと   投稿日:2014/08/02(Sat) 01:51:05

さきほどの書き下し文を、「栃木・茨城県道1号 宇都宮笠間線仏ノ山峠旧道・前編」コメント欄に送りましたが、
現代語に意訳してみましたので、ご参考まで。
あくまで、意訳です。必ず、誤読が含まれています。

なお、コメント欄と重複しますので、こちらの板には載せずに、適当に処理されて結構です。

−−

およそ、害をとり除いて利をうむということ、世の利益となるならば、その経緯を碑に刻んで記録し、後世に伝えなければならない。
険阻なところを削り平らにして、交通の利便をはかるのは、そのなかでも第一[そのなかの一例]である。

常陸と下野との境は、けわしい山が幾重にも重なり、双方を通う道路が少なかった。
わが西茨城郡の西北にある、片庭村から下野の小貫村に達する国境のあたりは、
仏ノ山といい、坂道を上り下りすること、数里にわたる難所で、仏ノ山とはいいながら、ほとんどけわしい峰である。
封建時代には、その時代ゆえに、険しい地形を要害として重視していたので、この道は官道といいながらも、画期的に改修を施すことができなかった。
そこで、長い間、〔民間の便利なように整備したくても〕道路の状態は荒れたままにされ、徒歩はさておき、車馬となると通行に苦しでいた。
さらに加えて、この場所の地勢は山深くけわしいので、強盗が出没し、畏途(危ない・恐ろしい道)とも呼ばれていた。

時に明治十六年、片庭の村民はみなで議論して、次のような結論に至った。
「今や世のなかの動きは、封建時代から明治に移り変わり、昔から道がなかった土地でも切り開いて、道路が開通している。
それなのに、これまでのように、地形が険しいままにして、独りで通行することができないほどの憂いがあるのは、まさに我が村の恥である。
新道を切り開き整備しないでよいはずがない」。
下野の小貫の村民も、この片庭村の動議に応じて議論し、意見を一致させて、
なんとかそれぞれの県に申請して、新道整備の許可を得た。そこで、仏ノ山を境として工区を分け、
労力や費用を惜しむことなく、さらに、経費をやりくりすること並大抵ではなく、翌十七年一月に起工し、十九年十二月に竣工を宣言した。

切り開いた新道の総延長は480間、費用は1200円、人工は延べ5000人である。ただし、この数字には、小貫村に属する分は算入していない。
こうして、けわしく長い旧道はとても平らにされ、遠い道のりは短絡され、車道の往来はさかんで、もちろん、強盗などは姿を消した。
交通量は嘗ての何倍ともなり、常陸と下野の両国の交通の利益となるところ、ますます大きくなるだろう。

さて、今ここに、記念碑を建てて、この新道整備の労役に関係した者の姓名を記録しようとして、西茨城郡長の牧野正倫君が賛し、私[三村佐山]に作文を命じた。
私がここで述べたいことは、次のとおりである。
便利を楽しんで、それを生み出す苦労を忘れるのは、人の心情である。そして、時が流れてやむことないのが、世の中である。
今後将来、この道を巡るひとは、ただこの道の便利で楽ですぐれているりをよろこぶだけで、工事にかかわる苦労を忘れてしまうのだろうか。
いや、その苦労を思うからこそ、道路の完成とさらなる整備を目指し、求めてゆくのではないだろうか。
だからこそ、私はこの「佛山修路記」を著して、みちゆくひとに示さねればならないのだ。
この碑の背面に関係者の氏名が刻まれてあることの意味を、この記を読む者に知らせて、ここで私は文を終える。


  [No.8351] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:さきほどコメントしたひと   投稿日:2014/08/02(Sat) 10:53:27

コメントの方の原文と書き下しも、少し修正しておきます。

佛山修路記

凡除害興利其事益於世者宜紀勒以傳焉若鏟險夷阻以便交通則
其一也常野之界山嶺重沓通路甚少我西茨城郡西北自片庭里達
野之小貫部者曰佛山阪路陂陀陟降亘數里稱山而實嶺也封建之
世恃為險要故雖官道不甚修治久委荒障車馬苦往来加之地勢深
阻刧盗出没有畏途之稱焉明治十六年片庭人民相議曰今也世運
日開古来無徑之地往往開通而興委其阻阨不獨行旅之患實吾邑
之恥也其可以不拓修乎小貫人民應之議以克諧遂各請於其縣而
得允乃界山分功不辭勞費勉強異常起功于明年一月告竣於十九
年十二月其所拓修延長四百八十餘間靡金一千二百餘圓役夫五
千餘人而屬小貫者不算焉於是險阻大夷略成沮途人馬往来絡繹
載路刧盗遠跡而行旅倍舊其益於常野兩州之交通也大矣今茲欲
建碑以刻關役者姓名郡長牧野君正倫賛之命文余余曰逸而忘勞
人之情也進而不息世之勢也今後自巡路者徒喜其逸而忘其勞耶
抑思其勞而益求完修耶寔見記示之不可已也遂書使以知碑背記
名之故焉

明治二十六年十月             三村邦功撰 
             西茨城郡長從七位牧野正倫篆額
                         龜井 直書


※書き下し※
凡そ害を除き利を興す、其事世に益すれば、宜しく紀勒して以て傳ふべし。
若し険を鏟(けづ)り阻を夷(たいら)げて、以て交通に便すれば、則ち其の一なり。

常野の界、山嶺重沓し、通路甚だ少し。
我が西茨城郡西北、片庭里より野(=下野)の小貫に達する部(さかい)は、
曰く仏ノ山、阪路陂陀陟降すること、数里に亘り、山と称して実は嶺なり。
封建の世、為に険要を恃(たの)み、故に官道と雖も修治を甚だにせず、
久しく荒障に委(まか)せ、車馬往来に苦む。
加ふるに、地勢深阻にして、刧盗出没し、畏途(いと)の称あり。

明治十六年、片庭の人民相ひ議(はか)りて、曰く、
「今や世、日を運(うつ)し、[今や世運、日に日に]古来無径之地を開き、往往開通して興る。
其の阻阨に委せて、独り行旅せざるの患、実に吾邑の恥なり。其れ以て拓修せざるべけんや」、と。
小貫の人民、之に応(こた)へ、議りて以て克(よ)く諧(ととの)へ、
遂に各〃其の県に請ひて、允(ゆるし)を得る。乃ち山を界(さかい)として功を分かち、
労費を辞さず、勉強すること常に異なり、明る年一月に起功し、十九年十二月に竣を告ぐ。

其の拓修する所、延長四百八十餘間、靡金一千二百餘圓、役夫五千餘人。而して、小貫に属する者は算(かぞ)へず。
是に險阻大に夷らげられ、沮途略成し、人馬の往来、載路に絡繹し、刧盗は跡を遠ざけて、
行旅旧に倍し、其れ常野両州之交通に益するや、大ならん。

今茲(ここ)に碑を建て、以て役に関る者の姓名を刻まんと欲し、郡長牧野正倫君、之を賛し文を命ず。
余余(われわれ)曰く、逸して[逸(たのし)みて]労を忘るるは、人の情なり。進みて息(やす)まざるは、世の勢なり。
今後自ら路を巡る者、徒らに其の逸を喜びて、其の勞を忘れむや。
抑〃(そもそも)其の勞を思ひて、益(ますます)完修を求めんや。
寔(まこと)に記を見(あらは)し之を示すこと、已むべからざるなり。
書を遂(すい)して、以て碑背の記名の故を知らしむなり。


  [No.8352] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:ヨッキれん   投稿日:2014/08/02(Sat) 21:25:23

すばらしい!!

よくぞ解読してくださいました! 私も足りない頭で頑張っては見たのですが、レポート内で紹介した部分以外はとても覚束なく、全文の解読は早々に諦めてしまいました。「なんとなくこんなかんじ?」と思っていた部分の中には、正しいところも誤りもあり、まさに目から鱗が落ちる内容でした。

慎んで、レポート本編(先ほど公開した「後編」末尾)に転載させていただきましたが、もしよろしければ、あなたのおハンドルネームかお名前も教えて下さい(追記したいです)。


  [No.8354] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:イマジンガーグル   投稿日:2014/08/02(Sat) 22:29:44

若鏟險夷阻以便交通則其一也
險を鏟り阻を夷げ、以て交通に便ならしむが若(ごと)きは其の一也。

かな。


  [No.8355] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:さきほどコメントしたひと   投稿日:2014/08/03(Sun) 02:22:50

> 若鏟險夷阻以便交通則其一也
> 險を鏟り阻を夷げ、以て交通に便ならしむが若(ごと)きは其の一也。
>
> かな。

>イマジンガーグルさん
そこは、たしかに、「ごとくんば」かな、とも思いました。
そちらの方がよいかもしれません。
そのほかにも、あやしいところだらけです。
ちなみに、文字化けしたところは、金へんに産です。

>ヨッキさん
とりあへず、今回までは一読者ということで・・・。


  [No.8362] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:おこぜ   投稿日:2014/08/04(Mon) 13:39:26

漢文?が苦手なので読める方は尊敬の的です。それはそうと,今でも同じでしょうが,当時は道を通すということはこれほど精神的にも意義があったのですね。直接この碑に遭遇したとしても,開通記念碑なんだなぁ,で終わってしまいますが,この内容を読めるようにしてもらえると,涙が出そうな程感動的であり,それがそこにある本来の意義を理解できました。

わたしも車を走らせていて,よくもこんな地形に道路を作ったものだと感心することは少なくないですが,いまとなっては名も知れぬ人々の血と汗と意欲と信念のたまものである道路を,有難く通して頂いているという気持ちを忘れないでおきたいものです。

そのためにも旧道・廃道を,せめて気持ちの上で大切にしたいと思いますし,徹底した机上調査も含め,当時の様子を知らしめてくれるヨッキ氏や協力者の方々にも感謝しております。


  [No.8365] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:のら猫   《URL》   投稿日:2014/08/04(Mon) 16:41:16

> 漢文?が苦手なので読める方は尊敬の的です。

漢文好きで唐あたりの詩なんか読んだりしていますけど、こういう石碑の文面など全くお手上げです。
皆さん本当にどういう勉強をされてきたのか、不思議だったり頭が上がらなかったり…
ただ、羨ましい限りです!


  [No.8404] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:unt   投稿日:2014/08/18(Mon) 01:28:20

私は中国人です、古代漢語についてよく知っている
「さきほどコメントしたひと」さんの翻訳はとても素晴らしい!
けど私、漢文訓読の方はあまり知らない、だから書き下しができない
日本語の文法も苦手だ。Google翻訳と和中辞典の助けを借りて、この文を書いた
お許しください

たしかに「若鏟險夷阻以便交通、則其一也」の「若」は「ごとき」の意味だ
この文は「鏟險夷阻以便交通のようなものは、則ち其の一也」みたい
ちなみに、今「鏟」は中国語にまだ使用している、そして口語用語になる

「自片庭里達野之小貫部者」ではない
「由片庭里達野之小貫邨者」だ
ただし「自」と「由」の意味は同じだ(片庭里より/片庭里から)
「邨」は「村」の異体字です。村と里は地方行政の単位ですか
約物は「…小貫邨者、曰佛山阪路。陂陀陟降、亘數里…」だろう

「今也、世運日開、古来無徑之地往往開通而興」約物がそうだと思う
「いま、世運は日に日に明るい」の意味だ

「其所拓修延長四百八十餘間、靡金一千二百餘圓、役夫五千餘人」
実は、私「其所拓修延長四百八十餘間、所靡金一千二百餘圓、所役夫五千餘人」と思う
延長・金・夫は並置されて、「所」が省略される、と思った
「其れが拓修した延長は480間あまり、費やした金は1200円あまり、労働した夫は5000人である」の意味のね
ここ、「所」のために、「其れは480間の延長を拓修した」ではなく、「其れが拓修した延長は480間」だ

「於是險阻大夷、略成沮途」の「沮途」は「坦途」と思う
その部首はさんみずと思わなかった、「土」だろう
そして、「沮途」、「・咫廚倭漢格垢い燭海箸覆っ姥譴タ
やっばり「坦途」だろうね

「逸而忘勞」の「逸」は「逸(たのし)みて」である。「逸(いっ)する」は「逃す」みたいな意味じゃん?ここ「勞」と「逸」は反意語だ

「今後自巡路者」ではありません、「今後由此路者」だ
「これ以降、この道より行く人」の意味だ

「逸而忘勞,人之情也;進而不息,世之勢也。今後由此路者徒喜其逸而忘其勞耶?抑思其勞而益求完修耶?」この感嘆は本当に感動的だ