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  [No.9619] Re: 山崎峠 投稿者:甘英   投稿日:2016/02/28(Sun) 09:12:36

私事ながら、むかし間違って入り込んだことが有ったため、この赤井畑国見線と言う道には私もそれなりに興味を持っていました。
しかし、その後も何かとちまちま調べていたのですが、この道は調べれば調べるほど謎が多すぎると、最近は難渋してしまっていたところでした。

例えば、この道の肝とでも言うべき七里沢隧道の場合、開通年に関しては[みやぎの峠]と言う本に『明治のトンネル』との一文が見られます。
しかし、1/5万地形図では1935(s10)年のものが隧道の初出となっていますし、[山形の廃道]さんのリストを見れば1953(s28)年の竣工となっており、数少ない資料同士が互いに矛盾しあう状態となっています。

一応1926(t15)年発行の地形図には隧道らしきものが確認できないので、根拠の不明確な明治隧道説は一旦置かなければなりませんが、それにしたところで地形図と[山形の廃道]さんのリストの間に有るおよそ18年の時間差はかなり大きいように思います。特に、この道の存在意義ともいえる三泰鉱山がその間に閉山していたかもしれない(「特設電話所」の廃止が1948年)となれば尚更です。
この問題の答えとしては正直、MRさんの言われた『最初は歩道隧道(として竣工したもの)だったかもしれない』との推論にとても説得力を感じてはいます。ただ、前後に連なる道が1935年の時点で既に車道の可能性も否定できない「連路」表記となっていることがやはり気に掛かります。

また、最大時でも4千人に届かなかった当時の小原村の人口が、『千人が働いていた』と言われる三泰鉱山の推定閉山時期にほとんど減っていない事も不自然に感じています。これでは小原村外から数百人規模もの人々が、毎日あの隧道を通って鉱山まで通勤していたと言う事になってしまわざるを得ません。それも戦前、戦中と言う困難な頃に。

この赤井畑国見線と言う道は、一事が万事こんな調子です(苦笑。

ちなみに前述の1935年の地形図には、隧道を通る連路と、旧道となった小径の両方が並存しているように描かれています。それを見ると明治41(1908)年版にも載っている旧道の方は、どうも わらびの碑で知られる熊野神社の辺りから尾根を越えていたようです。
状況証拠的には江戸時代初期ごろ既に存在していた可能性が有るなど、それなりに由緒有る道ではあったようですが、残念ながら小径表記でしかなく、隧道表記なども存在しないため、恐らくかつての道筋をトレースする事はほとんど不可能な状態になっているものと思います。


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