ずいぶん前の事になりますが、ここで展開された白棚線の復活工事に関して、最近発行された「白河市史」に詳細が載ってましたので追記しました。http://wing2.jp/~kaido/stop/hak-11.htmルート変更=本線に接続、は復活工事開始後に決まったようです。また質問なのですが、栃木県(宇都宮〜白河)に東北本線を敷設する際、直前になって西側に変更された、とのことですが、変更前のルートをご存知の方はおられませんでしょうか?(ちなみに水害に伴なう明治30年の換線のことではありません)
おはようございます。> 直前になって西側に変更された、とのことですが、> 変更前のルートをご存知の方はおられませんでしょうか?これって宇都宮→古田→長久保→矢板ルート以外にあったと、いうことですか?
> 宇都宮→古田→長久保→矢板ルート以外にあったと言うことですか?これは開通時のルートですね。計画ではもっと東を通るはずだった、という記述がありました。私の予想では、宇都宮〜氏家〜太田原〜芦野〜白河 あるいは、宇都宮〜氏家〜R293〜R294〜白河変更に危機感を持った計画線沿線の住民の要望で開削されたのが、「東野鉄道」なのではなかったのか、とも考えています。
面白そうな話題ですね。私はちょっと手許に資料もなく何とも答えられませんが、このTUKAさんの疑問に答えられる方の出現を私も期待しつつ、ageです(笑)
栃木県史で調べてきましたが当初の予定は宇都宮〜阿久津〜氏家〜佐久山〜大田原〜鍋掛〜芦野〜白河の奥州街道沿いとなっていました。阿久津宿は誘致運動を展開しましたが他の宿場は生活上の問題(旅籠や運送業者)で反対したそうです。>変更に危機感を持った計画線沿線の住民の要望で開削されたの >が、「東野鉄道」なのではなかったのか、とも考えています。これは奥州街道に沿って計画したのが東野鉄道と言うことでしょうか?この事は県史に書かれていませんでした。旧東野鉄道(西那須野〜黒羽〜小川)以前に計画があったのなら新しい発見ではないでしょうか。
> 当初の予定は奥州街道沿いとなっていました。わざわざ調べて頂きましてありがとうございます。やはり奥州街道沿いでしたか。時期的に考えて、路線図できていたのではないか、もしかして用地買収(強制収用)も済んでいたのではないか、と考えると面白い展開になりそうですね。しかし、無理やり原方街道沿いに換線したのではなく、宿場の反対があったんですね。これは各地で見られました。> これは奥州街道に沿って計画したのが東野鉄道と言うことでしょうか?幹線道路が西に移動し、更には鉄道も西を通ったため、旧奥州街道沿いの宿場は、一気に衰退していった。人と物の流れから取り残される危機感を持った旧街道沿いの有力者が、幹線との繋がりを保つために敷設したのが・・・。という意味です。もちろん全て想像ですw
> > 当初の予定は奥州街道沿いとなっていました。具体的なルートは探しましたが記述がありませんでした。予想ですが地図上にルートを書き込んだぐらいで現地測量などは行われなかったと思われます。> 幹線との繋がりを保つために敷設したのが・・・。これは東野(とおや)鉄道ですね。幹線ルートして西那須野〜大田原〜黒羽〜須賀川(旧黒羽町にあった旧村)〜大子間で免許を受けています。途中から国鉄常野線(計画線)の馬頭に接続させる目的で小川まで延伸しましたが常野線の計画が一向に現実味を帯びないので黒羽〜小川間が廃止されてしまいました。東野鉄道の他にも計画だけで消えた鉄道は五個くらいあったようです。*常野線(真岡線茂木と烏山線烏山、水郡線大子をつなぐ旧国鉄の計画線、また茂木から水郡線玉川村を結ぶ線も含まれる。)