奥多摩の索道隋道興味深く拝見させていただきました。私は若かりし頃、奥多摩工業に4年近く在籍し、曳鉄にも係わったものです。
当時索道トンネルのことは先輩技術者から話にきいておりました。大沢集落のところの「あそこの山にトンネルがあるんだと」教えてもらいましたが、遠くから見ただけで現場に行ったことはありませんでした。戦時中、索道の要ともいえる塔を建てる鉄材がなく、木で塔を造った等の苦労があったようです。その解決策として発想の転換で、「尾根に塔を建てて尾根を越す」のではなく、「隋道掘ってそこにワイヤーを吊るす」という発想は、鋼材を極力使わず、国内で自給できる資源・・・コンクリート・・・を使うというまさに発想の転換そのものです。在籍当時は隧道の天井から滑車を吊るしているものだと勝手に思っていたのですが、今回写真をみて、「あーなるほど、そういう風にしてたんだ」とあらためて感心してしまいました。索道は第1索道線、第2索道線とあったと、社史で見た記憶があります。第3が合ったかどうかは読んだ記憶がありません。ただ、索道のルートは最初は建設が容易なところを通っても、2本目3本目になると、なかなかよいルートが選べず、運搬能力の問題もあって索道の技術をそのまま生かした曳索鉄道に移行したのでしょう。鉱山会社ですからトンネルを掘るのはお手のもの。
奥多摩工業の技術レベルは高く、発想も柔軟でした。採鉱・運搬すべてにわたり、業界の最先端を行っていたはずです。なお、奥多摩工業の20年史か30年史に索道のことが記されていたような記憶があります。私も定年が見える年になりましたので、当時のことを知る方々は、既に退職され高齢になつているとおもいます。教えて下さった先輩も多分退職されているのでしょう。私が在籍した当時索道の現場にいた人たちの話を聞きました。