明治23年4月、東北本線の前身である「日本鉄道線」として、岩切・一ノ関間が開通している。
ここは主に宮城県から岩手県へと続く田園地帯を北上する区間だが、一ノ関手前に立ちはだかる有壁峠だけが、難所であった。
僅か高低差50mほどの峠であるが、当初ここには有壁隧道を頂点にした、最大16.7‰の勾配が控え、まだ非力だった機関車達を苦しめた。
しかし、大正13年には早々と現在の路線に切り替えられ、新たに大沢田トンネルが使用されるようになった。
こうして、他では例を見ないほど古く廃止された隧道が、永く地上に残されることとなる。
この有壁隧道の前後に残る廃線区間は、“その筋”では有名な廃線探索スポットであり、既に充分な調査が書籍などにまとめられている。
特に、お馴染み『鉄道廃線跡を歩く(第T巻)』では詳細に紹介されている。
現地は、一ノ関市街から国道342号線を仙台方向に5kmほど南下し、小高い丘のような有壁峠越えのサミットに至る直前、工業団地へ2車線の舗装路を右折し、廃線跡の直線的な線形を意識しながら進めばすぐに、ご覧の畦道へと差し掛かる。
隧道の一ノ関側坑門は、ここからすぐ先だ。
今回は、帰りの電車時刻が迫っているので、この有壁隧道の一ノ関側坑門のみに限定して調査したが、前出の書によれば、仙台側の坑門も現存するそうだ。
また、大正13年に竣工した「初代」の大沢田トンネルも、昭和58年に老朽化のため廃止されており、こちらもいずれは探索してみたいと思っている。
畦道は、幾らも行かないうちにどんどんと轍が浅くなり、脇の田圃が尽きると、廃道同然となった。
それでも真っ直ぐと森の奥へと向かって、道は続いている。
いかにも、廃線跡の道だ。
さらに進むと、全く轍は消え、なぜか下草の刈られた痕跡のある歩道となった。
左右は、全く視線を通さぬ藪であり、既に日が落ちている為に辺りはかなり薄暗い。
ちなみに、夕暮れ時にはデジカメの感度を、通常のISO200相当から400相当へと上げているので、写真ではその暗さがかなり薄れている。
夜になるとさらに感度を800まで上げて撮影することもあるが、ノイズが乗りまくって実用的ではない。
朝から150km以上を走破した後、最終目的地である一ノ関に着いたは良いが、帰りの電車の時間の間が悪く、次は19時21分発盛岡行きだった。(途中北上駅で北上線に、横手駅で奥羽線に乗り換えるので、すこし早い電車で帰っても結局は同じになる)
駅到着から、電車に乗るまで2時間もあったので、以前に本で見たこの廃線跡へと踏み込んできた訳だ。
しかし、実際には思っていたよりもこの道へとたどり着くのに難航し(最初、一本隣の沢の奥に迷い込んでしまった)、もう残り時間は1時間を切っている。
引き返す時間や、駅で輪行の準備をする時間を考えたら、かなり辛い。
あーやだ。
焦るよー。
もし乗り遅れたら、今日中には帰れないから…新幹線は高過ぎだし!
廃道は、いつのまにやら湿地となり、最後には異形の木々がのたうつ童話の魔女が住んでいそうな森となっている。
決して距離は長くない。
しかし、夜の闇が急速に森を包み始めている。
唯一救いだったのは、足元の湿地には、点々と何者かの新しい足跡が残されていたことだ。
さすがに有名な廃線跡だけあって、マニアは訪れているようだ。
私の目的は、隧道のみ!
ザコには用はない!(←言い過ぎ)
切り通しが限界になると、そそり立つ杉林の根元に、隧道はポッカリと口を開けていた。
想像以上に巨大な遺構である。
この様なものが、マニア以外には見向きもされぬまま、郊外の山中に放置されていたとは…。
私も、歴史や遺産といった物をさして大切にする方ではないが、明治24年竣工のトンネルというのは、東北では有数の古さなわけだし、もう少し、なんとかならないものだろうか。
しかも、大正期には廃止されているのだ。
珍しい存在なのは、間違いない。
この隧道についていえば、今更保存といっても、完全に手遅れだが…。
坑門付近には、もはや何も残されてはいない。
枕木の一本はおろか、その痕跡も、なにも。
煉瓦の坑門だけが、森の中取り残されたように、ひっそりと存在していた。
しかも、その坑門も半ば原型を失いつつある。
特に、向かって左側の崩壊は著しく、崩れ落ちた煉瓦が積み重なり、その上に木々が茂っている。
ここまで酷く崩れてしまった坑門が、なお口を開け続けているのは奇跡に近いと思う。
日本の幹線としての意地か。
坑門の著しい崩落部。
明治の工夫たちが一つ一つ手積みした煉瓦は、110年間余りも構造物を、構造物たらしめている。
しかし、その余命は、あと僅かかも知れない。
想像以上に膨大な量の煉瓦を使って坑門は組まれている。
これだけ崩落しているにもかかわらず、なおもその奥には赤い煉瓦が連なって見えている。
その赤さは、生々しい傷跡のようだ。
扁額は存在していない。
本隧道の全長は、241.1mと記録されている。
しかし、現在内部は閉塞している。
そのことは、坑門から光を投げかけて見れば、分かる。
反対側は、隧道から流れ出した地下水が池となり、坑門の大部分が水没しているらしいが、こちらは何とか内部へと侵入することが出来そうである。
見えている閉塞点は、30mほど奥。
余りの崩壊ぶりに、さすがに躊躇したが、有壁隧道の生きた証を記録してやるために、私は入る。
閉塞隧道独特の、陰鬱さ。
風のない洞内には、独特のかび臭さが漂う。
崩落を免れた煉瓦は煤で黒く、崩れた部分は、艶めかしい紅色を晒している。
その異様なコントラストは、隧道が全身で発する警告色のようだ。
どう見ても、この隧道は完全崩落が近い。
たった30mで崩落閉塞しているのを目の当たりにしても、30mですら残っていることが奇跡のようである。
懐中電灯を手に、地下水が溜まった洞内の、崩れた煉瓦によって出来た島を伝い、その閉塞点を目指す。
入り口付近の洞床。
側面や天井のあらゆる場所から崩れ落ちた煉瓦が、積み重なり島を作っている。
それ以外は、深い泥濘となっており、長靴なしでは歩けない。
煉瓦の島は、その古さと坑門からの深さ応じ、異なる植生を見せている。
坑門より外では木々が根を張り、坑門付近ではご覧のような水性の苔が、まるで水槽の中の観賞用オブジェのように生えている。
これが美しいと思えるのは、日中の輝く光のもとでだろう。
いまは、不気味だ。
そして、10mも進めば、そこは既に闇の世界だった。
一面の白化現象。
そして、奥には天井から怒濤のように吹き出し、隧道の息の根を止めただろう土砂が、圧迫感のある斜面を形成している。
ものすごく、残っている部分は短いが、もう充分だ。
これほど崩壊の進んだ隧道が、もしもっと長かったりしたら、さすがに私は泣く。
命の危険を感じた。
さすがにこれだけ崩れているのを見れば、私が踏み込んだ僅かな震動でも、それが最後の崩壊の引き金となりかねないと感じたからだ。
廃隧道で、崩れてきそうで怖いと思ったのは、ほんと珍しい。
側面の崩壊の様子。
煉瓦の層の厚さには、本当に感心する。
正確に計った訳ではないが、全部で4層くらいは煉瓦が組まれており、そのさらに外側には、木材の姿が見えた。
もちろん、その材木の隙間からは、地肌が見えている。
血肉を露わにするとは、痛すぎる傷だ。
重傷どころではなく、この隧道はもう、屍骸だ。
そして、初めてだった。
この時代の煉瓦隧道に、隧道を掘った最初の段階で支保した材木を見るのは。
ここまで側壁が深く崩れている隧道は滅多にない。
少し感激。
そして、また恐怖も深くなった。
閉塞地点を前に、最後の10mは、一面の煉瓦の山だ。
怖すぎる。
マジ、怖すぎ。
勘弁だよ。
頭上も、側壁も、何処もかしこも赤い傷跡だらけ。
呪われている。この崩れ方は。
数千、或いは数万個の煉瓦が、あるものは砕けて二つになり、またあるものは50cm四方の塊のまま、洞床に1m以上の厚さを持って積み重なっている。
その上に体重を掛けると、ガラガラと乾いた音を立てて、崩れる。
いま、この瞬間にも、不安定になっている煉瓦はきっとあるはずだ。
もし、それが私の頭上だったら…。
自己責任というのには、ここで死ぬということも、勿論含まれている。
煉瓦の山の奥、最後の場所。
天井には巨大な穴が空き、湿った土砂が重力に任せ洞内を埋め尽くしている。
その量は、先に空洞が続いているのかどうかも疑わしいと思えるほどに、膨大だ。
実際、この閉塞点の裏側がどのようになっているのかは未確認であり、ボートでも利用しない限りは、確認は難しいと思われる。
有壁隧道は、ただ事でない壊れ方だ。
閉塞点から坑門を振り返る。
たった、これだけの距離。
だけど、怖かったー。
少し臆病になったかな、私。
なんか、ソワソワしたんだよね。この隧道の中にいる時。
嫌か予感、のような。
長居無用というのは、強く、感じました。
そういえば、この辺りは、去年あたりに強い地震を何度も食らっているのを思い出した。
あの地震が、隧道の崩壊を進めたのは、間違いないだろう。
秋田県内でも、去年あたりは「二井山隧道」に「橋桁隧道」など、明治・大正期の廃隧道が相次いで崩壊している。
地震、多かったもの、去年。
一般に、地震の時、トンネル内は安全というけど、古い隧道はその限りではないだろうし。
なんか、イヤーな隧道でした。
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