弁慶澤隧道
海蝕の隧道
山形県鶴岡市 加茂

 東北日本海岸においては、殆ど唯一といって良い特異な景観を見せる、湯野浜温泉郷。
そこは地名の通り、海に面した温泉であるが、特異なのは、その林立するホテル群など、おおよそ寒風吹きすさぶ日本海には似つかわしくない、景色である。

無論、年中温かな温泉が旅人を癒すが、温泉など縁のない貧しく忙しい山チャリストにとっては、海からぶつかってくる猛烈な吹雪に浮かびあがる無数の高層ホテルは、異様と言うより他はない違和感を与える。

そんな景色の片隅に、ひとつの隧道が、置き去りにされていた。





 この湯野浜温泉は、日本海沿岸では珍しい大歓楽街を形成している。
その背景には、酒田や鶴岡という都市圏を背景に従え、名刹善法寺への参拝観光と一体化した集客に成功してきたことにある。
しかしその神通力も今や衰えたか、廃館となったホテルも目立ち、善法寺や鶴岡方面に直通した私鉄鉄道も廃止されて久しい。
余談だが、この湯野浜温泉郷と山を挟んだ善法寺とを直接結ぼうという隧道計画は明治44年に現実となったが、それも今や山中の虚と成りはてている。(→笹立新道

現在、この温泉郷の道は、国道112号線だけである。





 現国道は海岸線スレスレを、湘南よろしく快走しているが、旧国道はこのように中小の旅館が犇めく中を、右往左往している。
しかし、やはり廃墟が目立ち、冬というせいもあろうが、人影はまばらである。
折しもこの日は、ぬれ雪が猛烈な海風で身体をしとどに濡らすという、最悪の山チャリコンディションである。
酒田を発った時には晴れていたはずだが、海岸線の天候も変わりやすいのだ。
温暖な対馬海流が影響し、山形県内で最も雪が少ない一帯も、さすがに2004年(2005年の間違いではない)2月4日は一面の雪景色にあった。



 様々なデザインの高層ホテルが、雑多な街並みを見下ろしている。
時折、その最上階が雲に隠れたのは、なかなか荘厳な景色だった。

目指す隧道は、この温泉街から海岸線を南下すると、程なく現れる。
そこは、現在は国道が通い、古くから利用されていた道でもある。




 目まぐるしく雲が流れ、吹雪が止むと、俄に日が差す。
しかし、それも長くは続かない。

そんな、冬の日本海らしい天候。
本当に寒い日には、波飛沫すら凍り、車道が大変な状態になることもあるというが、今日は暖かい方なのだろう。
しかし、風が猛烈で、濡れた身体の体感温度は、生命維持にも事欠くかんじ。

こんな日にはるばる旅に出たのは、明らかに間違いだった。
デジカメも、余りの低温で不調である。
(リチウムイオン電池というのは、5度以下で極端に性能が落ちる。このことは冬場の山チャリの大きな障害となる。)



 湯野浜温泉郷を過ぎると、次の集落は水族館がある加茂である。
この間の距離は3km弱。
海岸線ギリギリまで岩肌が迫り、湯野浜から始まり新潟県村上市にて越後平野に辿り着くまでの延々50km近くも続く、海蝕海岸光景の始まりを表している。

「グラリと来たら高台に避難」の標語が点々と続く歩道付きの国道を、約2.5km南下すると、行く手に大きな入江を抱く加茂の街並みが見えてくる。



 そして、今回紹介する隧道が、現れる。

写真は湯野浜側の坑門で、建設会社のプレハブ小屋に隣接している。
隧道内も、資材置き場と化している様子が、一目で見て取れた。
もはや、隧道としては利用されていないようであるが、貫通している。
現国道は海岸線スレスレを通っており、隧道の存在意義を感じないほど普通のカーブだが、もとは今の国道の位置はまるっきり海上だったらしい。
埋め立てにより道路敷きを用意するケースは、近代の海岸線隧道の消失を多数生んでいる。

近づいてみよう。




 傍に寄ってみると、やはり洞内は資材というか、雑多なもので足の踏み場もないほどである。
でも、歩きなら通り抜けることは容易だ。
しっかりと半円形にカッティングされているものの、坑門及び洞内は完全に素堀のままで、隧道名を示すようなものも一切無い。
まさに、ただ掘っただけの超ローコスト隧道である。

なお、今回のレポの基礎情報として、お馴染み『山形の廃道』サイト内の、同隧道紹介記事、ならびに、同サイト公開の「全国隧道リスト(昭和42年版)」を参考にしている。

弁慶澤隧道という大層な隧道名もそこから得たのだが、現地には一切それと分かるものはなく、そもそも弁慶澤という名が、海岸線(しかも岬地形)にあって、果たして地名由来なのかも分からないままだ。


 「全国隧道リスト」は、昭和42年当時の国道及び県道に現役で利用されている隧道の一覧であるが、この隧道の記載はない。
現在は国道のこの道も、国道に昇格したのは意外に新しく、確か平成に入ってからだったように記憶している。
しかし、県道としての歴史は長いはずで、記載がないということは、昭和42年頃には既に、利用されていなかった(海岸の新道が建設されていた)という可能性が高い。

坑門直上の岩肌は滑らかで、風化によるもの、ないし、直接波があらったように見える。
大きな亀裂が走っており、現時点では崩落の見られない隧道だが、確実に風化は進んでいる。




 隧道の延長は、僅か30mほど。
幅は4mほどあり、充分な単車線自動車規格だが、天井は如何せん低く、乗用車ならいざ知らず、バスやトラックは通れないかも知れない。
低い位置では、天井の高さは3m無いと思われる。

洞内には、建設資材と思われる木材や、道路工事の案内板、それに、木船などが、所狭しとおかれている。
その隙間に見える洞床は土製で、堅く締まっている。
轍の痕跡はない。


 あっけなく、加茂側の坑口に出る。
30m程度の延長では、歩きでも通過に1分とかからない。
この隧道を岩山もろとも崩して現車道を作らなかったことが、意外に思えるほどだ。
しかし、岩肌が邪魔をして視界不良なカーブになっていることは間違いなく、将来的には充分に開削のおそれありと思う。

旧道敷きは、坑口から50mほど現道の山側に並走するが、それも間もなく呑み込まれて消えてしまう。



 こちらは加茂側の坑口部のアップ。

これは、山形の廃道管理人氏の指摘で気がついたことだが、
どうもこの隧道の加茂側は、半ばまで、自然にあった海蝕洞を利用している様である。

根拠としては、隧道の中ほど(おおよそ坑門から15mほどの地点)までの内壁が全面について滑らかなのに対して、湯野浜側は、ややゴツゴツとした施工面の違いが見られる。
この違いは、実際に見ると一目瞭然であり、地形的にも海蝕洞が発生しても不自然はなく、昔の人々が天然の洞窟を利用したとしても、不思議はないのである。



 なお、曖昧な「昔の人」という書き方をしたが、この隧道の竣工は、明治23年頃とされる。

この隧道は、県や国で整備したものではなく、湯野浜温泉への集客を狙って、旅館の経営者達が協力して行ったものだという。
笹立新道も同様の過程で整備された道だったが、当時の湯野浜の経営努力は、険しい海岸線に2方を囲まれた同地の負を改善する道や鉄道の整備に、特に傾けられたようである。
実際、この隧道が建設される以前は、この程度の岩山でも険しい峠越えを余儀なくされていたと言われ、この隧道整備の功は計り知れなかっただろう。




 気がつくと、空は青空になっていた。

役目を終えた隧道が、

竣工の頃からは些か遠ざかった海鳴りを、かすかに響かせる。




 そして、道は穏やかに加茂の入江に入る。

姿はとても地味だが、名前は妙に厳つい弁慶澤隧道。
温泉街の期待を背負うべく、縁起の良さそうな名前をつけたものか…?

その由来に思いを巡らせているうちに、気がつけば隧道は遠くになっていた。







2005.1.21