まずは、明治27年開通の初代ルートは、延長274mの大釈迦隧道を峠のサミットに据えた路線だったが、前後の勾配は厳しく通行には補機を要した。
昭和38年に、この勾配を緩和する目的で開通したのが、二代目の大釈迦隧道を擁するルートで、短絡化をも果たした。
線形については、もうこの段階で殆どそれ以上改良のしようがないものと思われたが、当時の国鉄は、3代目の隧道の開削を遂行し、これが昭和59年に開通した新大釈迦隧道、現在線である。
今回紹介するのは、2代目の大釈迦隧道だ。
本隧道は、延長1470mと、現隧道の2240mには劣るものの、小規模な峠を直線的に突破するには十分な長さである。
そして、この長さは、私がかつて侵入した廃隧道(正確には今回の隧道は、廃止されていない)中、最長である。
(ちなみに、二番目は僅差で旧横黒線仙人隧道1453m…ただし、1000m付近で閉塞)
素朴な疑問として、なぜ2代目の隧道が僅か21年間しか利用されなかったのかと思うわけだが、これについては、どうも、青森〜弘前間の複線化の一環として計画されたものらしい。
ただし、詳細は不明ながら、その計画は頓挫しているようだ。
それでは、私の探険の様子を紹介しよう。
信じがたい光景が、私を待ち受けていた。
初代大釈迦隧道を探索し、腰までの雪に苦しめられながらもチャリに戻った私に、辛い現実が待ち受けていた。
愛車が、凍っている!
シャーベット状に融けた雪を付けたまま放置された私のチャリは、そのまま完璧に凍り付いていた。
なんと、車輪が回らない。
走れない。
困る。
足蹴にしたり、手で小突いたりして、何とか車輪は回るようになったものの…。
それ以外の駆動部は、殆ど全滅した。
まず、ブレーキ。
全然駆動しない、前も後ろも、全く。
仕方がないので、足ブレーキのみで制動することに。(←絶対に危険なので真似をしないように!)
変速系も、もちろん全く駆動せず。
仕方がないので、適当な段に固定し走行することに。
私のチャリは、ただペダルを漕ぐと車輪が回って前進するという、超基礎的な動作しかしないのである。
笑ってしまった。
この先、青森市に向かって、国道7号線を下っていかねばならないのに…。
結局、足ブレーキをフル活用して、峠を下りきることが出来た。
足が引きつりそうになったが。
そして、峠を下ると、いよいよ2代目大釈迦隧道の青森側坑口が近づく。
坑口への接近は、注意深く行う必要がある。
なぜならば、現役の奥羽本線から二代目隧道に続く休止線部分は短く、適当に線路のある方に進んでも、大概は休止線に出会うことは出来ない。
しかも、国道の線路の間を杉の森と小川が隔てている。
私が発見した坑口付近へと直行する踏み跡は、国道の路肩がが広くなっている部分から森へと下っている。
植林地と思われる緩やかな杉の斜面に、保線夫達の道なのか、雪の上に足跡が残されている。
しかし、ここ数日に付けられたものではないようだ。
私は、その少し踏み固められた雪の上を選んで、ゆっくりと進む。
少しでも足を踏み外すと、緩んだ雪原に腰まで埋まってしまう。
50mほど進むと、前方に広い沢地が広がってくる。
早速にして、目指す坑門も発見してしまった。
順調だぞ。
二代目隧道に続く休止線に向かって踏み跡が続いているが、小川の反対側には現在線と、現隧道の長いコンクリート延伸部が見えている。
休止線は、あの坑門の少し青森寄りから分かれ、100mほどの現隧道に平行する明かり区間の後、隧道に突入する。
その様子がここから一望される。
踏み跡ともども、小川に掛けられた金属製の簡単な橋を渡る。
橋の先はもう休止線で、すぐ先には目指す隧道が口を開けている。
踏み跡は、隧道の方へは向かわず、休止線上を現在線との合流点方向へ続いていた。
やはり、保線の為の道らしい。
ここまでは、特に難しい場所はない。
近づいてみて初めて気が付いたのだが、休止線にも架線が敷かれていた。
ここが現役だったのは、昭和38年から59年までの間だが、その間に電化されたのだろう。
現在一般的に見られるものと全く違いのない、至って普通の架線。
架線柱が残る廃線も稀にあるが、架線まで張られているというのは珍しく、ここが廃線ではなくて休止線なのだと言うことを主張している。
線路上の雪は1mちかくあり、絶対に電車が来る訳など無いのだが、ここを歩くのはちょっと躊躇ってしまった。
通ってはいけない場所という気がして…。
(↑休止中の線路上は通ってはいけない場所でしょう!)
点々と架線柱の続く雪の上を、一歩一歩坑門へ向けて進む。
坑門は、何の変哲もないコンクリート製で、単線用の鉄道トンネルとして見慣れたものだ。
坑門の上の斜面には、雪崩防止の柵が幾重にも設置されており、それも荒廃している様子はなく、まるで雪に埋もれただけの現役の線路みたいだ。
何とも不思議な気分である。
突然、耳障りな「フォーン…フォーン」という高音のアラームが、沢に響き渡った。
ぎょっとして、音のする方向を振り返る。
現隧道の後門付近から、音は出ている。
一瞬、線路上への侵入者を感知してアラームが鳴ったのかと戦慄したが、実は列車の往来が近づくと鳴る警告音だった。
しかし、電車の中からは聞こえた試しがない音で、無人の山中にこんな音が響いていたのを初めて知った。
たとえ聞く者がいなくとも、日夜電車の往来に合わせ響き渡る不安感を駆り立てるような不協和音のアラーム。
素朴に不気味だ。
いよいよ、坑門が接近。
洞内に続く、二条のレールが健在であることを確認。
そして、坑口を塞ぐ鉄製のバリケードが存在しているのも確認した。
「やっぱりか…。」
残念な気持ち半分、侵入出来なそうな事にちょっと安心したような気持ちも半分。
まだ、この隧道はJRの管理下にあるようだ。
とりあえず、内部がよく見える場所まで進んでみよう。
架線柱には、「昭和46年」の文字が。
電化された時期に一致するだろうか?
線路に対し斜めに据えられた坑門だ。
作り自体は先ほども述べたとおり平凡だが、苔むし方が尋常でない。
雪原から、期待通りレールが飛び出し隧道の奥へと続いている。
やはり、この休止線には架線だけでなく、レールも健在なのだ。
見慣れた廃隧道とはまた違った景色に、思わず興奮してしまう。
さらに、接近!
扁額のない代わりに、鉄道の構造物ではお馴染みの鉄製のプレートが埋め込まれている。
そこには、「大釈迦ずい道」という名称の他、延長や形式などが示されている。
古色蒼然とした煉瓦や石組みが鉄道廃隧道の殆どだから、むしろ近代的な様相の本隧道は目新しい。
休止なのだから廃隧道とは同列に考えるべきではないのかもしれないが、なぜ複線として利用されることもなく放置されているのかがはっきりしない現状では、このまま廃止という可能性もあるだろう。
なんせ、使われない道というのは、酷使されているものよりも遙かに早く朽ちていくというのが、私の定説であるから。
実際、休止後20年近く経った隧道の節々には、ただの汚れ以上の綻びが散見される。
まるで墨でも塗りたくったかのように黒く変色した内壁が気色悪い。
林鉄用のものなどとは桁違いに巨大な碍子が、まるで侵入者に睨みを利かせるかのように、いくつもぶら下がっている。
鋼鉄のレールはまだ微かに光を帯び、背丈よりも高いバリケードの奥、闇の中へと消えている。
乾いた風が、絶え間なく流れ出している。
本隧道の延長を知らなくても、侵入を断念させるに十分だろう圧倒的な迫力が感じられる。
それなのに…、
それだけでなく…、
延長は、1470mもある。
この長さは、徒歩を時速4kmと考えても、通行に約20分を要する。
絶対に助けなどこない闇の中に、最低20分か…。
怖い!
もう既に侵入した場合のリスクを考えている私だったが、流石にこれはまずいんじゃないか…と。
恐怖心から、断念の方向へ気持ちが傾き始めた私の前に、
“心強い”物理的な障害が立ちはだかる。
「これじゃ、立ち入れないよ…。」
うん。
しかし、なんとこの厳重なバリケードだが、施錠されていなかった!!
開くじゃねーか!!
困った!
入れちゃう!!
困った!!!
断念する言い訳が、なくなった!!!
つづく
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