洞床には、築館側坑口付近でおおよそ30cmの水深があった。
長靴では耐えられない深さであり、ネオプレーンの耐水装備をもってしても、入水直後の冷たさたるや、痛みを伴うほどであった。
「
鉄の廃路」などによれば、以前は進入できない深さだったとのことなので、だいぶ水が引いているようだ。
とはいえ、隧道はちょうど峠のサミットにかかっており、出口のある瀬峰側の深さもこの程度とは限らない。
場合によっては、車に戻りボートを使用せねばならなくなるとも考えたが、ここまでの道中の藪深い部分を考えると、重くてかさばるボートを運び込むのは難しそうだ。
とりあえず、煉瓦造りの洞内へ、ゆっくりと前進する。
入洞直後のメンバーの様子。
ふみやん氏(右)の表情が引きつり気味なのは、彼はネオプレンを着用していないからだ。
確かに、冬の冷気を蓄えた地中からしみ出した、洞内プールの水は、肛門が引き締まる冷たさだ。
一方、なにやらユルい表情の細田氏。
これぞ、ネオプレンの威力である。
しかし、そればかりでなく、彼は最近入水する度に、怪しく「いやー、きもちE!」を連呼する。
果たして、何がそんなに気持ちいいのか?
ちょっと、私には理解できない。
葉ノ木山隧道は一直線に出口まで続いている。
全長は、おおよそ300m。
洞内にサミットがあり、その最も水深の浅い部分で10cm程度だった。
深いのは瀬峰側の坑口付近で、50cmほどである。
洞内の煉瓦は大変良く残存しており、殆ど欠けも無い。
隧道本体の耐久性には、今しばらくの猶予がありそうなだけに、坑口付近の荒廃が惜しまれる。
軽便鉄道の隧道らしく、一般的な鉄道用隧道の断面よりは横幅、高さ共に一回り小さい。
しかし、森林軌道の隧道を見慣れた身には、十分に立派なサイズと思われた。
この隧道の構造上における特徴と呼べるものは、内壁ではなく、洞床にあった。
それは、洞床に設けられた溝である。
両側の坑口付近は洞外から土砂が流入しており、洞床も泥に覆われてしまっているが、それ以外の部分では、この溝が透き通った水中に鮮明に見える。
溝は、深さ15cmほど、幅は30cm程度。
確認できた範囲では、洞内全体に続いていた。
排水路として用意されたものと思われるが、目新しい発見だ。
水深は浅いのだが、どうしてもフラッシュを焚くと水面の波紋に乱反射して、肉眼では鮮明な溝が撮影できなかったので、フラッシュを落とし、手持ちのライトだけで撮影したのが、右の写真だ。
なぜか、真っ青な光が写り込んでおり、幻想的なのだが、注目は右下。
灯りに照らされて、鮮明な溝が写っている。
このように、溝は浅く幅が広く取られている。
そして、溝の両側は大きめの石材で縁取られており、デザイン的にも美しい。
不思議なのは、洞内にバラストは敷かれていなかったのかという点だ。
このように洞床に排水溝が敷かれることは多いのだが、その場合には蓋が設けられ、蓋の上にバラストが敷かれることが多い。
また、昭和中頃より新しい鉄道隧道では、バラストが敷かれないケースも散見される。
この隧道は大正12年開通であり、バラストがなかったとすれば、当時として先進的な施工だったのだろうか?
洞内では、バラストは一切見られなかったが、洞外にしても同様なので、蓋と共に全て回収されただけだろうか?
洞内では、南側の側壁にのみ、数カ所の待避坑が設けられている。
待避坑の規模は非常に小さく、同時代の煉瓦隧道の特徴と一致する。
丁寧にアーチが組まれている点も、同様だ。
なお、側壁の煉瓦で脱落しているものがあるが、それらは一様に洞床から1m程度よりも下だ。
天井や高い位置の煉瓦は全くと言っていいほど無傷である。
このことは、隧道が長期間今よりも遙かに深く水没していたことを示唆しているのかも知れない。
水圧の影響が考えられる。
より瀬峰側に近い待避坑。
上の写真よりも水深が深いことが分かるだろうか?
出口に近づくほどにみるみる水は深さを増し、不安を掻き立てられた。
出口に近い洞内の様子。
煉瓦の側壁がが水中にまで続いている。
水は、我々が歩いた後も殆ど濁らず、極めて清純である。
宅地の底にある隧道だが、生活臭があるわけで無し、ゴミが落ちているわけで無し、洞外の様子からは想像出来ないほど、美しい。
静かな洞内は、まるでプールによって外界と隔絶し、その身を守り続けてきたかのようだ。
返す返すも、坑口の崩壊ぶり、洞外の不法投棄物の山が、惜しまれる。
洞床の石造りの溝の立体的な美しさが、私は忘れられない。
ドンドンふかくなーる。
我々は、私を先頭にして、
「ふ、 ふけーーッ」
を連呼しながら、ジャブジャブンと、手の先が水面につきそうな深さを、歩いた。
細田氏は、相変わらずきもち E! を連呼中。
で、辿り着いたる瀬峰側坑口。
こちら側も、坑口の有り様は外に出るまでもなく想像できる。
相当に、荒れていそう。
ここにあるただ一つのゴミは薄汚れたサッカーボール。
水が引いてそこに取り残されたっぽい。
壁は豪快に崩れ、大量の砂っぽい土砂がなだれ込んでいる。
煉瓦の断面はかなりの厚さ(50mもあろうか)であるが、ごく最近の崩壊に見える。
少なくとも、水に洗われていた様子はない。
また、なぜ以前より大幅に水深が下がっていたかだが、その答えは、人工的に排水されたということだろう。
坑口に堆積した土砂に、深い切れ込みが入れられた跡がある。
現在は十分水深が下がり通水していないが、溝の位置は洞内の水位と一致している。
自然にこの溝が生じるとは考えられないので、近年何者かが排水を企てたのだろう。
或いは、水難の危険防止のためかも知れない。
そして、山行がお馴染みの
「隧道の裏にまわーる!SHOW」の時間です。
はい、崩壊部分から裏に回って見ますれば…、
ご覧の通り、弧の一部を外側から見たそのまんまの姿。
崩れた煉瓦の傍とはいえ、意外に残った煉瓦はしっかりと密着しているように見える。
真っ白な部分は、漆喰だろうか。
隧道完成から80年余りを経過してなお、その白さは今しがた固まったばかりのようである。
藪を掻き分けて、十数メートル進むと、行く手を遮る沼が現れる。
元々は路盤だった部分が、細長く沼となっているのだ。
淀みきった沼には、蛙の卵が沈み、みどろの様な藻が繁殖し、富栄養化が極限まで進んでいた。
沼の向こうには、峠から下ってきた県道のガードレールも見えていたが、そこまで歩くことは、ちょっと辛い。
細田氏にしても、これはちょっと E! とは言えないだろう。
我々は、迂回して先を見たいと言うほどでもないので、隧道貫通という結果に満足し、帰途についた。
丘の上の県道まで、竹藪の直登である。
手がかりは豊富だが、いかんせん急であり、なかなか難儀した。
足元には、ミドロ沼が控えており、落ちれば「風雲タケシ城」ばり失笑をかうことは必至。
ファミコントレーナーごと沼に放置される恐れすらある。
…スマン。
自分でもよく分からないテンションだ。
そして、数分後には生還。
末期的な坑口部と、現役さながらの美しい隧道内部の対比が、なかなか印象深い隧道であった。
しかし、10年後には消失している予感が。
アスファルトの路面に3人分の足跡を残しつつ、
小春日和(←おっと赤面。小春日和は春じゃなくて秋でした…。ショシイ。)
陽春の地底探索を終えた我々。
既に、靴の中の地下水は、すっかり温くなっていた。