明治32年に開業し、昭和43年に新トンネルの開通をもって破棄された、奥羽本線橋桁隧道。
労せず北側坑口にたどり着いた私であったが、無残な崩落に内部への進入は断念せざるを得なかった。
こうなっては、もう南側坑口に賭けるしかない。
しかし、南側坑口に辿りつくのが、こんなに大変な仕事になるとは思わなかった…。
さて、北側坑門の探索を終え、ついでに南側も探索したい。
というか、せめて少しでもいいから、内部の様子が知りたいと思う。
一度はチャリの前に戻るも、軽い気持ちで、チャリをそこに置いたまま、徒歩で南坑門を探すことにした。
ここで一度地図を見ている賢明さがあれば…。
国道を大館方向に戻ること500m。
なかなか坑門に辿り着けそうな入り口を見つけられなかったのである。
やっと、橋桁集落の北の端の辺りで、一軒の民家の奥に坑門のありそうな方向へと延びる小道を発見した。
国道を歩くのは、私にとって苦痛でしかなく、早くもチャリを置いてきたことを後悔していた。
はっきり言って、南側の坑口は、北側とは対照的に、非常にアクセスしにくい場所にある。
まあ、本業の鉄ちゃんというか、廃線マニアにとってはどうってこと無いのだろうが、まだまだ私にとって廃線跡は、本職ではない。
とは言っても、だんだんと、トンネル以外の鉄道構造物にも、惹かれはじめては来たが。
輪行の為、ほぼ毎週100kmくらい鉄道を利用しているし、鉄分増進中かも?!
で、とある民家の私道と思われる小道を登ること50m。
視界が開けると、そこには池があった。
その遥か対岸にはしっかりと架線が見て取れ、あの近くに坑門があることは間違いないと思われたが。
この池をどうするか、…だ。
池には、いっそうの銀色の小さな手漕ぎ式のボートが用意されていた。
なんとおあつらえ向きな、というわけには行かない。
オールが見当たらないのだ。
って、流石に人様のボートは無断に借用できまいし、そもそも、ボートなど漕いだ事もない。
うむぅ…。
ここでしばし逡巡したが、よく辺りを観察すると、辛うじて道っぽい踏跡が湖畔の雑木林に続いているのを発見。
これが対岸にまでうまく続いている保証は全くないが、藁にもすがる思いで、ここに侵入。
なんか、さっきは手の届くところにあった隧道が、足掻けば足掻くほど遠ざかってゆく気がして、嫌な気分になった。
下手すりゃ、今日一日こんなところで終わっちまうかもなー。
馬鹿らしいなー。 そんなことを考えながら、早足で小道を進んだ。
下草は立ち枯れていたが、棘の生えた小枝がいたるところに張り出しており、チクチクと痛い。
幸いにして、小道は対岸に5分ほどで導いてくれた。
そこには、ホッとするような現代的な光景が。
しかも、レールの先には橋桁隧道が見えているではないか。
よしよし、まだまだ天は私を見放していないらしい。
このままトンネルの方に向かえば、きっと目指す旧橋桁隧道の坑門に出会えるはずだ。
線路脇の、一段高くなった部分を歩いた。
背丈以上に高い枯れ草やタラボに難儀しつつも、一歩一歩進んだ。
路盤を歩けば楽だとは思ったが、一応、それはタブーということで。
さらに3分ほどの前進で、いよいよ見えてきた坑門。
現在の橋桁隧道とは、ほぼ横並びに坑門が存在している。
日陰になる時間が多い北側坑門に比べ、この南側の坑門の前は大変な草地である、
もう、ただの雑木林に近い。
それでも、短い切取の先に坑門という、隧道の不文律は健在だ。
坑門に立つ。
やはり、先に明かりは見えない。
閉塞しているのだろう。
だめもとで、行けるところまで入ることにする。
出来ればこの目で、閉塞の現場を確かめたい。
懐中電灯をリュックから取り出し、点灯させる。
まぶしい日光の下では、なおさら隧道の暗さが際立って見えた。
今一度振り返る。
すぐ傍を生きた線路が通っているというのに、ここだけは取り残されている。
よく見ると、入り口はベニヤ板で閉鎖されていたらしかった。
しかし、多分立ち寄るものもなかったであろうから、自然に風化し、倒壊したものと思われる。
散らばる廃材は、すでに腐り果て、踏むと何の抵抗もなく砕け散った。
廃止されてから経過した時の永さを感じさせる。
ずんずんと進んだ。
入り口にあったベニヤ板は遂に倒壊するその日まで、外部からの進入を拒み、内部の風化を遅らせてきたのかもしれない。
想像以上に損傷は少ない。
足元もぬかるむことなく、排水さえもうまく行っているようだ。
枕木とバラストはすっかり消滅していたが、土の路面に続く凹凸は、まさしく枕木がそこに並んでいた当時のままだ。
内壁は全面にコンクリートが吹き付けられ、剥離した部分にのみレンガが覗いている。
順調に距離を稼ぐ。
緩やかな右カーブを描く洞内を進んでゆくうちに、次第に入り口から届く明かりは小さくなり、遂には殆ど見えなくなった。
そして、遂にその場所が、現れた。
懐中電灯の灯りなしでは、何一つ見えない。
照らし出された先には、それまで続いてきた土の路面の代わりに、うずたかく積みあがった瓦礫の山。
灯りと共に視線を上げてゆくと…。
赤いレンガが艶かしい天井まで、それは続いていた。
遂に来た、閉塞点だった。
距離的に、この場所が、北側坑門で見た崩落の裏側に間違いないだろう。
そのことを証明するかのように、灯りを消して目を凝らすと、微かに、本当に微かだが、見覚えのある白い光が天井のどこかから漏れ出していた。
今まで見たことのないほどの、弱弱しい明かりだった。
私の中では、もしかしたら、あの笹立のように、辛うじて抜ける手立てもあるのではないだろうかと、そう期待していた。
だからこそ、北側坑門の閉塞を見たとき、すぐに南側に向かってきたのだ。
未知の暗がりに細い穴を降りてゆくのと、太陽のもとへと登ってゆくのでは、同じ場所でもどっちが希望をもてるか、考えるまでもないでしょう?
しかし、ほぼ、絶望である。
この崩落は、生易しいものではないように見える。
それどころか、まだまだ新しい崩落と見えるだけに、この場所にいるだけでも、十分に危険なのかもしれなかった。
しかし、どうしても確認しておきたいことがあった。
微かだが天井から漏れる日光は、一体何処から入ってきているのか?
なんとか、この体を通すことは叶わないものだろうか?
小さな瓦礫が中心の崩土の山を、登った。
それは天井まで急角度で続いており、まもなく、頭が天井に触れた。
そこで入ってきた方向を振り返って撮影したのがこの写真。
天井が間近であること、大きなカーブを描くゆえに入り口の明かりが届いていないことなどが確認できよう。
恐怖はあったが、不思議と、心霊的なものへの恐怖は感じなかった。
慣れだろうか?
それとも、過去の“感じた”場所って、“いる”ってこと?!
分からないが、ほんの数mむこうに、先ほどまで私が立っていた野外があるというのが、恐怖を和らげてくれていたことは間違いあるまい。
そこで、悪戦苦闘の末撮影した写真がこれ。
この一枚を得るために、20枚くらい失敗した。
余りに外へと続くスペースが狭く、また、カメラを構える姿勢もままならず、まあ、焦りもあって、なかなかうまく行かなかったのだ。
そう。
ご覧の通り、とても外へは出られなかった。
これは想像以上であったが、光は狭い場所で僅か10cmくらいの隙間を縫って届いていた。
それ以上に驚いたのが、その隙間は、ほぼ頭上垂直に、2mから3mは続いていたのだ。
表で見たこの隙間からは考えられないほどの、狭さである。
いや、これでも、微かに通じていたことが奇跡なのかもしれない。
これは、完全に私の経験不足から来る認識の甘さであった。
しかし、それにしても…。
さっき、この隙間に潜ることを踏みとどまったことは、いつも馬鹿だ馬鹿だと思う自分にしては、なんとも賢明だったと思う。
もし、この隙間に入っていたら、私はほぼ間違いなく死んだだろう。
そうでなくても、自力では帰還できなかったに違いない。
この狭さでは、どうやっても、通り抜けられるはずはなかったのだから。
大げさでなく、今では本当にそう思っている。
身動きが取れなくなり窒息したかもしれないし、まわりの土砂が流入し生き埋めになったかもしれない。
おっ、おそろしい。
教訓:
狭い隙間には、両側から確認してから入ること。
という教訓を得て、この探索は終了した。狭い隙間には、両側から確認してから入ること。
当然このあとは、来た道をえっちらおっちら戻る羽目になった。
この一本の探索で一時間以上かかったことは予想外だったが、得るものは大きかったようにも思う。
旧 橋桁隧道
竣工年度 1899年 廃止年度 1968年
延長 130.76m 幅員 目測2.5m 高さ 目測3.0m
白沢側の坑口付近が崩落しており、通り抜け不可。
※この隧道名や廃止年度、延長などは、書籍『奥羽鐡道建設概要』内の表記を、 『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』 の管理人 TILLさま よりご紹介いただきました。
ありがとうございました!
竣工年度 1899年 廃止年度 1968年
延長 130.76m 幅員 目測2.5m 高さ 目測3.0m
白沢側の坑口付近が崩落しており、通り抜け不可。
※この隧道名や廃止年度、延長などは、書籍『奥羽鐡道建設概要』内の表記を、 『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』 の管理人 TILLさま よりご紹介いただきました。
ありがとうございました!
最後に、
最近私も愛読を始めた『鉄道廃線跡を歩く(JTB刊)』シリーズ にも、この橋桁隧道は(今のところ)詳細は示されていない。
まあ、必要とする人はあまりいないと思うが、現地の地図を作成した。
レポートと合わせ、探索の役に立てば幸いである。