隧道レポート 走水での“未確認隧道”unidentified tunnel (UT)捜索作戦 第1回

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2024.03.25
公開日 2024.04.12

《周辺地図(マピオン)》

今回、ある読者さまより、横須賀市内に未知の隧道があるとの驚きの新情報がもたらされた。

横須賀市といえば、いろいろ有名なものがあるが、オブローダーを含む道路趣味者的には、関東有数の古トンネルが多い都市(まち)として知られているだろう。


横須賀トンネルマップと横須賀トンネルカード(第1弾)

そのせいで私にとっても馴染みが深い土地であり、2007年から2019年まで都内在住だった当時、最も回数多く訪れた探索地は、この横須賀だったと思う。

やたら回数を重ねた古隧道巡りをきっかけに、やがてトンネルツアーを開催したり、タモリ倶楽部出演したり、横須賀市とタッグを組んで「横須賀トンネルマップ」を監修(執筆)したり、仕舞には前代未聞の「横須賀トンネルカード」を作ったりまでした。あと、トンネルシンポジウムにも登壇したっけな。

そんなわけだから、横須賀市内にある古い隧道で現存しているものについては、おそらく全てを把握できているものと勝手に自負をしていたのであるが、2023年8月に一人の読者様から送られてきた情報提供メールには、私が知らない隧道のことが書かれていた。それも、とてもよく知っている“走水隧道”のすぐ近くというから、聞き捨てならなかった。

情報提供者は、市内在住者の伊勢涼香氏(X@yokohama449903)である。

さっそく、いただいた情報提供メールの中身を紹介する。

伊勢涼香氏からの情報提供メール


情報提供メール添付の地図画像 (グーグルマップ加工)

私は横須賀市在住の者です。横須賀市の東側に「走水」という場所がありまして、そのエリアに明治隧道である「走水隧道」があることはご存知かと思います。
その隧道や付近のことについて、市民歴50年越である職場の同僚から、以下のような話を聞きました。

  • 走水隧道の更に上部(おそらく同隧道の西側か)に、小さいトンネルがあった。
  • 道幅は2メートル程だった。
  • 小学生の頃、虫取りに行く時に通った。
  • 最近は山に入らないので現状は分からない。

聞いた時はとても驚き、詳しいことを聞こうとしましたが、古い記憶故に上に記したことしか分からないとのことでした。
念の為GoogleMapのストリートビューで探しましたがそれらしいものは見つからず、今のところ謎のままとなっています。

ネタとしては比較的薄いと思いますし、既出でしたら申し訳ないのですが、一読者として送らない訳には行きませんでした。参考までに付近の地図のスクリーンショットを添付します。お役に立てれば嬉しいです。 よろしくお願いいたします。

これは………… ネタとしては比較的ヤバイと思います。 全然知りませんでした!

ぶっちゃけ、市民歴50年超えの人物が小学生のころに通った隧道で現状が不明となると、現存している保証はないと思うが、それでも、よく知ったつもりになっていた走水隧道の上部あたりに“別の隧道”があって、実際に通り抜けたという証言があるのには大変驚いた。
もし現存しないにしても、その跡地なり素性なりを、ぜひ知りたい。

また、この話を同僚より聞いた情報提供者ご本人も「とても驚いた」そうだが、おそらく、走水隧道をご存知であればこそ、あそこに別の隧道(旧隧道なのかどうか素性は分からないが)があるという話に意外性を感じてこういう反応になるのだろう。逆にありそうだなと思っている人というのはあまりいない気がする。私も本当に驚いた。


ここでまず、これをお読みの読者諸兄に問いたいのであるが、

この隧道のことを知っている、もしくは聞いたことがある方は、おりますか?

読者様の中に該当の方がおりましたら、ぜひ名乗り出て下さい!

……この段階であまり言いたくはないが、実は、この探索の結末ははっきりとした“答え”に達さない。
読む前からこんなネタバレはゴメンだと思うかも知れないが、スッキリとはしないレポートになる。成果はゼロではないから閉じないで…。
私が、探索の途中ともいえる状況でこのレポートを時間を空けずに公開するのは、このレポートが横須賀の人たちの目に触れることで情報がもたらされることを期待しているからだ。
現地は近隣人口が多く、誰かしらは私の知りたいことを知っていると思っている。ただ、このような都会で、私が戸別訪問によって情報を得ることは、少しだけハードルが高いのである。このレポートを呼び水にしたい。どうかお力をお貸し下さい。



これから、いつものように探索のレポートをする。
だがその前に、いただいた情報を私の中で咀嚼し、探索の方針を決めておきたい。
意外な情報だっただけに、まだ戸惑いがある。

まず、今回の舞台となる走水隧道について一般的情報を共有しよう。横須賀未訪問者には知らない方の方が多いだろうから。

走水隧道は、古トンネル多産地である横須賀市内でも、最初期に建設された隧道である。

道路台帳ベースの資料(『道路トンネル大鑑』巻末トンネルリストや新旧『横須賀市史』など)によると、その竣工年は明治15年から16年だ。
これは、道路トンネルの金字塔である三島通庸による万世大路・【栗子山隧道】が完成した翌年(および翌翌年)という早さで、市内最古の隧道と言われることがある【梅田隧道】(実際は民間で作られた市内最古の隧道)よりも古い。

しかも、これは現地の案内板にも書かれている公然の事実だが、走水隧道の明治15〜16年という竣工年は道路トンネルとしてのものであり、実際はその前から存在した水路用隧道の改築である。水路隧道としての竣工年は、明治9年まで遡る。
これは東海道の要衝に掘られた、わが国初の近代的道路トンネルともいわれる【初代・宇津ノ谷隧道】と同じ年ということになる。なお、現在までに確認されている横須賀市内の最古の隧道は、観音崎の遊歩道上に存在する【通称・浜辺の隧道】という素掘りの隧道で、江戸時代末期の嘉永5(1852)年に観音崎台場の整備に伴って原形となる“穴道”が掘られた記録がある。

右の写真が、走水隧道の片割れである、走水第二隧道(明治15年竣工、全長221m)の東口および内部の状況だ。
現在の走水隧道は隣接する第一と第二の2本からなっており(第一隧道は明治16年竣工、全長90m)、一般県道209号観音崎循環線の一部を構成している。
完成当初の外観は煉瓦巻きアーチと石積み坑門によるものだったが、度重なる後年の補修により煉瓦は殆ど覆い隠されているほか、第二隧道西口など全面的に改築されている部分もある。

次に、水路隧道時代の状況を伝える現地案内板の文章を全文転載する。

 旧水道トンネル(走水隧道)

明治9(1876)年横須賀造船所(現・米海軍横須賀基地)のフランス人技師ウェルにニーが計画した軍用水道で、市内で初めて水道管を敷設したトンネルです。走水の豊富な湧水を7km先の造船所まで高低差10mの傾斜を利用した自然流下式でした。当初は高さ1.5m、幅1m、長さ320mの1本の長いトンネルで、途中に明りとりの穴を設けました。明治29(1896)年東京湾要塞地帯として重要な走水・観音崎地区への車馬の交通路として現在の規模に拡張され、2本のトンネルになりました。馬堀側入口のトンネルの山腹には古墳時代後期の横穴群があります。

現地案内板(大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ)より

解説板では、明治29(1896)年に現在の道路トンネル形へと改築されたことになっており、道路台帳ベースの竣工年とは食い違いがあるが、原因は明らかではない。
そして、いずれにしても大変に古い隧道である。

そんな古い隧道の近く(上の方?)にあるという、話の限りではもっと規格が低そう(道幅は2メートル程度?)な隧道の正体は、いったいなんなんだろう?

もし、明治の隧道のさらに旧隧道だとしたらとんでもないことだが……。上にあるというのなら、がっかりパターンの水路の可能性も低そうだしな…。


私がこの走水隧道で旧隧道の存在を一切疑ってこなかった最大の理由は、走水隧道自体の明確な古さにあるわけだが、それだけではない。
これまで読んできた横須賀関連のいろいろな文献(横須賀の文献は膨大なので、目を通したことがあるのは市史や、国会図書館デジタルコレクションで読める比較的メジャーなものばかりだが…)に、走水隧道の上に別の隧道があるなんて話は読んだことがないし、これまで集めた歴代の地形図を見ても(↓)、それらしいものが描かれている版はなかった。
そもそも、旧道を想定したことがなかったのである。

@
地理院地図(現在)
A
昭和22(1947)年
B
明治15(1882)年

ここに掲載した令和、昭和、明治の3世代の地形図をご覧いただきたい。

現在では横須賀の中心市街地から連なるハイソな住宅街の末端に位置する2本の走水隧道だが、住宅地となった馬堀海岸の埋め立ては昭和40年代の出来事で、それまでは隧道がいかにも潜りたくなりそうな東京湾に突き出た突角であった。戦後しばらくまで、一帯には三浦半島の自然が良く残されていたのである。

Bの地形図は明治15(1882)年に陸軍が描いた最初の地形図、いわゆる迅速測図の一部である。
後の地形図とはいろいろと表現方法が違っているが、“赤矢印”の位置に不自然に山を直進する点線(これは単に「徒小径」という徒歩道の記号で隧道を示すものではないが…)が描かれており、これが、中間部に明り窓がある“1本モノ”だった水路隧道時代の走水隧道の姿とみられる。

これほどの昔から、ここには確かに隧道があり、走水方面への交通路として使われていたことが窺えるのである。
またこの地図には、走水隧道の上部に1本の「徒小径」が描かれており(青矢印の位置)、この今まで意識したことがなかった小道にフォーカスしながらAや@の地形図に戻ると、現在もこの道は存在していて、末端は防衛大学校の敷地に飲まれていることが想像できた。
だがそれでも走水隧道の上部附近、すなわち情報提供者が隧道があるのではないかと教えてくれた一帯までは敷地外に生き残っている雰囲気だ。

と、いうことで……



横須賀市馬堀4丁目の浄林寺付近より入る小道を辿って走水1丁目方面へ向かいつつ、走水第一・第二隧道の上部斜面で未知の隧道を捜索する方針を決!

作戦名: 走水U.Tunidentified tunnel捜索作戦。

2024年3月25日(都内で『廃道の日7』を開催した翌日)の朝一番にて、おおよそ5年ぶりとなる首都圏での廃道探索を決行した!



 まず始めに走水第二・第一隧道を通って浄林寺へ


2024/3/25 5:15 《現在地》

横須賀市走水1丁目の国道16号に面した走水水源地駐車場からスタートする。
天気は、生憎の雨だ。
だが、未知の隧道発見への情熱、というか執念を滾らせた私は、明るくなるのも待ちきれないとばかりに早朝からスタンバっていた。

写真は、駐車場から国道越しに見る水源地である山。頂上である標高80mくらいのところが小原台という広大な台地になっていて、今はそこに防衛大学校が鎮座している。
鬱蒼とした森に覆われている走水水源地は、明治9(1876)年に横須賀造船所(海軍省直轄)の専用水道の水源となって以来、今日まで150年近くも水道施設として稼動を続けている。現在の管理者は横須賀市上下水道局である。現役の水道水源地であるため、この山に立ち入ることは出来ない。
これから向かおうとしている走水隧道がある辺りは水源地の外だと思うが、山に立ち入れる状況であるかどうかは、まだ分からない。

探索準備を整え、少し明るくなるのを待って、5:32に自転車でここを出発した。



駐車場から300m横浜方向へ国道を進むと三叉路形の分岐地点。
右は国道で、左が県道209号観音崎循環線だ。走水隧道は県道側にある。というか、この分岐の位置から第二隧道が既に見えている。

前説で歴代の地形図を見てもらったが、昭和50年頃まで右の海岸通りはまだ開通していなかった。
それまでは走水隧道が国道16号であった(国道だった期間は昭和38年から50年頃まで)。

左折する。



こんなに薄暗い時分に訪れたのは初めてだった、走水第二隧道(東口)
今回の本題は走水隧道ではないので、解説は最小限とするが、見ての通り味わいの深い古隧道である。

戦前の三浦半島は著名な石材の産地であったが、地元産の大きな石ブロックを大量に使用した重厚感あるL字型の坑門に、前代未聞と言えるほどぶ厚く煉瓦を巻き立てたアーチ坑道が収まっている。現在はこの坑口の煉瓦はコンクリートで覆われてしまっているが、西口を見る限り7〜8重にも巻いてある。これほど太く巻いた理由ははっきりしないが、明治中頃の車道化改築当時からの構造とみられる。
隧道内の断面は幅3.9m、高さ3.7mと小さく、現代の大型化した自動車に対処するために常に東から西への一方通行規制が行われている。(国道時代は歩道がなく、狭い洞内を相互通行していた模様)



全長229mの隧道内部の様子。完全な直線である。
私が最初にこの隧道を訪れた平成19(2007)年当時は、内壁は汚れたコンクリート吹付けで、下地の煉瓦が所々露出していた記憶があるが、現在はその上にコルゲートが巻かれており、印象が少し明るくなっている。
路線バスが結構な頻度でここを通過するが、歩道を除く内空一杯に四角いバスが迫ってくる迫力をぜひ一度体験してみて欲しい。ちょっと怖いと感じるかも知れない。



5:38 《現在地》

明治15年竣工とされる第二隧道を抜けると、30m弱のごく短い明り区間を挟んで、直ちに明治16年竣工の第一隧道へ。明り区間はカーブしている。
この明り区間が、明治9(1876)年の水路隧道としての完成当初、明り窓のような横穴があったとされる地点だ。
明治の拡幅工事でもともと土被りが浅かったこの場所が明り区間になって、隧道が2本になった。

かつてこの右手は海だったはずだが、今では住宅地が広がっており、一枚の写真の左と右がどうにもミスマッチである。



今回の探索の目標は、あくまでも情報提供があった隧道の発見と探索だ。
情報によると、走水第二あるいは第一隧道の上方の山のどこかに、幅2mほどの隧道があったのだという。
なので、私の注目も当然、過去何度も通過し見知っている走水隧道ではなく、これまでほとんど注目を向けなかった、隧道が潜っている山の上手の方にある。

あわよくば、見えはしないか。
さすがにそんなに簡単ではないか。 ……ないらしい。
見えないだけでなく、踏み込むことも、難しいな。

探索前からそんな気はしていたが、この周りの道路沿いはガチガチにコンクリートの擁壁や落石防止柵で壁をされていて、脇道らしいものはおろか、そもそも道から外れて山へ入っていける余地がないという厳しい現実を知ってしまった。
この第二・第一隧道間の短い明り部分より入山ができれば、捜索がはかどりそうだと思ったのだが、それは多分不可能……。



5:40 《現在地》

続いて短い90mの第一隧道(断面サイズは第二隧道と同様)を潜り抜け、西口を振り返る。
この坑口には今も煉瓦アーチが一部健在である。

それはともかく、やはり周囲の地形やフェンスの配置的に、ここからも山にアプローチするのは難しそう。
当初の計画通り、浄林寺脇の道から入山することにしよう。



第一隧道西口を背に進行方向を撮影。
すぐ先に青看と十字路があるが、左折するとすぐ左手に浄林寺がある。

にしても、凄い高い擁壁だここ。
本来は海に突き出した海食崖の下に隧道があるような地形だったのだから、険しいのも当然か。
そして、“虫取り少年”は、この擁壁がない時代に、問題の隧道をくぐっていると思われる。
擁壁が、隧道を壊してしまっていないか、とても心配だ。

それに、この擁壁の上部で隧道を捜索することは、大変そうだ。
これは思いのほか厳しい捜索になるかも知れない……。
横須賀なんて庭みたいなもんだと、ちょっと侮っていたか…。雨も降っているし……。



三浦地蔵尊二十九番 七重山 浄林寺。

この山門の右隣に――



墓地分譲中!

じゃなくて、

目指した道の入口が!

この先は、ストビューも入っていないし、完全自力ゾーンの始まりだ。

UT捜索作戦、始め!!!





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