だが、実はまだ探索は終わらなかった。
本レポートのサブタイトルは、「いまこのとき、閉塞の畏れあり」
つまり、このときまだ、閉塞はしていなかったのだ。
閉塞点を前にして、振り返る。
思っていたよりもだいぶ入り口が近いことに驚く。
ほんのこれだけ地下にもぐっただけで、こんなにも心細い物だったと、再確認させられる。
普段、高速で移動するモビルスーツを身にまとい、舗装され煌々と明かりの照らされたトンネルを走る時は、巧妙に地下の恐怖はカモフラージュされている。
さらに慣れてくれば、地下であるという不安すら、感じなくなってゆく。
もしトンネルが突如、崩れ落ちてきたら…? 生き埋めになったとしたら??
子供でもなれば、そんな恐怖を現役のトンネルに感じはしないだろう。
だが、実際には、極まれにだが、トンネルで生き埋めになって命を落とす人もいる。
そしてそれらは、こんな得体の知れない廃隧道ではなかった。
普通のトンネルでも、地下に在ることから来る“リアルな”死の危険は、確かに存在しているのだ。
実際問題、現役のトンネルが突然崩れてくるのは通行者として防ぎようが無いし、天文学的な確率で不幸な籤を引いてしまった己を呪うしかないだろう。
だが、廃隧道の探索は、自ら進んで危険に飛び込むことに他ならない。
恐怖を感じない方が、おかしいのだ。
そこは、死の危険が支配する領域に他ならないのだから。
前回最後にお伝えした閉塞点の接近映像。
堆積物はきめの細かい瓦礫、というか、湿った土砂だ。
それは、隧道の横幅、縦幅一杯まで充満しており、無風であることが示すとおり、先へ進む手立ては無い。
そう思った。
だが。
私は、蟻地獄のような土砂を掻き分け、そのてっぺんまで上ってみた。
そこには、ありえない事だが、私が立ち上がってもまだ余裕がある空間が存在していた。
そんな馬鹿な。
下から上ってきた高さを考えれば、ここはもう、天井より上のはずだ。
私の弱々しいヘッドライトが照らし出した空間は、土の壁に四方を囲まれた小部屋であった。
状態を理解するのに、少し苦労した。
それは、これまでに見たことの無い景色だったからだ。
この空洞の正体は、左の写真の明度を限界まで上げてやると、明らかになった。
私を取り囲んでいた壁は、自然のままの露頭。
手で触れてみると、湿っている、そして、岩肌のように硬い。
はじめて空気に触れてからまだ時間が経っていなさそうな地層が、美しい。
もう、お分かりだろう。
私は、天井を突き破って崩落した土砂の代わりに出来た空洞に在った。
隧道内をひろく覆い尽くした膨大な土砂は、元来はこの空間にコンクリートの天井によって支えられ、隠されていた。
それが、あるとき天井が崩壊、現状に至る致命的な崩落を開始したのだ。
地元にお住まいの方の話では、まるで、砂時計の砂が時間をかけて落ちるように、徐々に徐々に、何年もかけてこの状態になったのだという。
それは、これまでの「ドカンと崩れて、グシャッと閉塞」という隧道崩壊のイメージを覆す、驚くべき証言である。
ある条件が重なれば稀に、このような静的な最期を迎える隧道もあるのだと知った。
まるで、土星や木星の表面のように写る不思議な壁。
壁一面滑らかで且つ強度もあり、もうこれ以上砂時計のような崩落は続かないようにも見える。
しかし、天井にこれだけのほぼ球形の空間が存在するという物理的に不安定な状況下で、隧道全体が安定しうるかといわれれば、…。
やはり、この隧道は今に消滅するに違いないだろう。
この隠された空洞へは、足元の土砂の斜面を這いつくばって登ってきた。
そして、ここは土砂のてっぺんである。
反対側に降りてゆくことが、やはり、可能である。
柔らかな土の斜面を滑り降りてゆくと、上ってきた時とは明らかに異なる景色が、そこにあった。
驚愕は、一度ではなかったのだ!
なんということか!
土砂を滑り降りた先は本来の洞床ではなく、やはり柔らかい土の上だった。
前方には、背後の崩落と瓜二つの、また別の崩落が存在していた。
そこから落ちて積もった土砂が、二つ目の山を形成していた。
今度は側面付近にいくらか隙間があり、その向こうには出口が見えている。
これで、遂に本隧道の全容が判明した。
延長は、僅か80m前後。
中央部の天井には二つの大穴が開き、そこからおびただしい量の土砂が洞内に侵入している。
その量は、中央部の路面20m以上を埋没させている。
2箇所の崩落地は、まだ辛うじて通行が可能であったが、いつ、更なる大崩落に見舞われるかは、全く予想が付かない。
ただ、この隧道が強度的な限界を超えていることは明らかで、遠からず完全に消滅するのではないだろうか。
2箇所目の崩落地点から、入り口方向を振り返る。
そこにあった姿は、まさに、限界そのもの。
どうみても、通れる隧道には見えない。
本城隧道、小ネタと思ったが、凄まじい大ネタだった…。
2箇所目の崩落箇所の映像。
やはり、1箇所目と同様に、天井にはぽっかりと穴が開いている。
そして、その奥にある空洞も、同じだ。
いま私が立ってるこの場所の頭上がいつ、こうならないとも限らないのだと思うと、夢中になっているうちは忘れていたが、再び恐怖が背中に張り付いてきた。
崩落の反対側も隧道は30mほど続くが、出口は遠くない。
しかし、やはり出口はフェンスで封じられており、侵入・脱出は不能っぽい。
でも、やっぱり金網には小さな穴が開いていて、もしかしたら、通れるかも。
本隧道については、前回までのレポートを公開した後にもさらに情報を頂いた。
それによると、20年ほど前までは、確かに供用されており、タクシーで通行した人もいたという。
ただ、前後の道と共に、隧道内も砂利だったという。
また、肝心の竣工年度や正式名だが、これはやはり不明とのこと。
現在のようなコンクリート隧道となる以前は、素掘りのままだったという情報もある。
このコンクリートの補強は後補のものだったのだ。
出口付近の内壁も、所々剥離しており、コンクリートで補強される以前の内壁の名残か、白く変色した材木が露出している。
一見綺麗なコンクリートの裏が、このような状況にあるのだとしたら、まさに、化粧で化けた隧道ということになる。
なんせ、剥離箇所を観察する限りは、コンクリートには鉄筋が無く、ただ、あてがわれているだけではないか。
そりゃ、崩落もするだろう。
強度不足は、明白だ。
廃止後もしばらくは山菜採りの人など、地元では利用されていたそうだ。
しかし、日に日に変状が目立つようになり、危険防止のため、現在のように封鎖されたのだという。
現道への切り替えが早かったのは、本当に良かったと思う。
結果的には、これは見た目以上に危険な隧道だったのだから。
貴方の身の回りにある至って普通に見える隧道も、実は…?
フェンスの向こうには、鬱蒼とした植林地と薮が広がっており、不法投棄されたと思われる粗大ゴミも散乱している。
陰鬱という言葉がぴったりと来る不気味なムードだ。
さて、ひきかえそう。
こちらから外へ出る術が無いので、やむをえない。
気は進まないが、今一度、“土の中を”進むしかあるまい。
出口側から、崩落現場を見る。
ここを往復したというのは、暴挙だったと思う。
生き埋めになっても、文句は言えなかっただろう。
未だ正確な由来の不明な隧道なのだが、私は森吉町の郷土史の一節に、次のような記述を見つけた。
米内沢町は、当初、本城〜麻当間の鳥越坂にトンネルを建設して利便性を図ることを条件として、下小阿仁村へ合併についてアタックしたが、うまくいかなかった。いくつか補足説明が必要だろう。
― 川村公一編著 『森吉路』 p220より引用
この文は、昭和30年ごろに行われた森吉町近辺の市町村合併の顛末の一部で、米内沢町というのはもちろん現森吉町の米内沢のことで、下小阿仁村というのは、現合川町の一部だった。
麻当は現在の地形図にも「摩当」という地名があり、合川町三里の小字の一つのようだ。
鳥越坂という地名は見られないが、まず、この隧道のある場所とみて間違いないだろう。
とすると、昭和30年ごろまでは、ここに隧道は存在しなかったことになる。
合併は失敗したのに、隧道は建設されているという矛盾は残るが、この一件と隧道の由来には、何らかの関連があるのかもしれない。
幸いにして、私の通行した衝撃に二度、隧道は持ちこたえてくれた。
そして、生きて外へと戻った。
最後に、簡単に反対側のアプローチ道路、すなわち旧道を紹介しておこう。
米内沢側の旧道は、切り通しの現道峠から40mほど下った場所から、向かって左に入る。
草生しかけた狭い道は、すぐに杉の林に入り、ご覧のような廃道となる。
ただ、峠は近く、ほんの50mほど進めば、何の変哲も無い坑門が現れる。
しかし、内部の様子を知るものとしては、もう平凡とは思えない。
コンクリート補強に、異様な鉄筋での補強。
様々なドーピングを施しても、元来の地質の問題なのか、駄目な物は駄目だったというような隧道だった。
もう、二度と足を踏み入れることも無いであろう。
まさに、
いまこのとき、閉塞の畏れあり。