五百刈沢隧道 再訪編 後
二重隧道の謎
秋田県秋田市外旭川 

 五百刈沢隧道が開通する以前に利用されていたと思われる切り通しを探索中、上新城側の坑門のすぐ上部に、なんと、新たな坑門が発見された。
それは、今まで見たことも、聞いたことも無い隧道であった。
人一人が辛うじて滑り込める小さき坑門の奥は、本来の洞床に続く竪穴となっており、一度踏み込めば、戻れない危険がある。

現実問題としては、本当に戻れないわけは無いだろうと思って侵入を決心したわけだが、この後本当に…。





 濡れた内壁で服を汚さぬように気を遣いながら、狭い隙間に足から入った。
濡れた土の斜面で足元は安定せず、一歩一歩降りていくことは困難だ。
これはもう、滑り降りるしかない。

意を決して、一歩踏み出すと、案の定、私は洞床まであっという間に滑り落ちた。
そこには、土の地面があり、奥には漆黒の空間が広がっていた。

空気の流れは、全く無く、あの独特の土臭さが鼻につく。
閉塞隧道の匂いだ。
暗さに目が慣れるのを少し待って、奥へと侵入を開始した。




 竪穴の底に広がっていた空間は、紛れも無い隧道だった。
これこそが、五百刈沢隧道の先代と考えて間違いないだろう。

だが、ご覧の通り、長いはずは無い隧道の出口は、全く見えない。
奥は、一体どうなっていると言うのか。

出口の見えない隧道へと踏み込むとき、私は今でも、恐怖に震えている。
だが、一方でまた、興奮にも、打ち震えているのだ。
この発見は、全く想定していなかったことであり、なおさらだ。

冷静になりよく洞内の様子を観察してみると、まず一番に感じたことは、意外に広いということである。
高さこそ、2m程度と低いが、幅は5mくらいある。
軌道どころか、自動車だって余裕で通行できる幅だ。
このすぐ足元の地中に埋まっている現隧道よりも、その規模は、遥かに大きい。
また、完全に岩盤むき出しの状態で、支保工などの痕跡も無いが、内壁は良く安定している。
非常に滑らかに削られており、手掘りでない思われる。
今まで見てきたどの廃隧道とも異質な感じがするが、しいて言えば、すぐ傍の「道川製油軌道隧道」に似ている。




 洞内には、水滴のあちる場所も無く、また、洞床の土も濡れてはいるが、ぬかるんでいたりはしない。
水滴が落ちていないのは、内壁が非常に滑らかなせいであって、壁面自体は良く濡れており、ライトに反射して銀色に光る。
足跡や轍は一切無く、道川製油軌道隧道の入り口付近には持ち込まれたらしいゴミが散乱していたのに比べても、人の踏み込んだ気配が薄い。
ここに隧道が存在していることは、これほど現道から近いにもかかわらず殆ど知られていないのだろうか。
たしかに、例えここに穴を発見しても、あの竪穴に踏み込もうという奇特者は、少ないだろう。

また、この隧道の非常に大きな特徴として、物凄く急な下りとなっている。
その角度は、これまで隧道無いでは味わったことが無いものだ。
天井が低いこともあり、先へ進むと顔面を天井にぶつけそうな錯覚を覚えるほどだ。
勾配をお馴染みのパーセントにしてあらわせば、そうだな、6%ぐらいはあると思う。


 さらに、決定的な特徴がある。
内部へ進めば進むほど、隧道の中央部の床が、蒲鉾上に膨らんでいるのである。
それは、あきらかに、人工的なふくらみである。
他の部分の床と同じで、土に覆われているのだが、その下にあるものは、
そう。

現在の五百刈沢隧道なのである。

急な下りとなっている急隧道は、坑門から30m足らずで、中央の膨らみと、内壁に挟まれるようにして、空間を失い、閉塞している。
人為的な閉塞である。
これは、今まで見たことの無い、新旧隧道の交錯点の姿なのだ。
当然、その両者を行き来する術は無い。


 這い蹲って、体の潜り込める限界まで進んでみたが、土嚢が積み上げられており、奥は完全に閉塞している。

最奥部には、途中にはなかったいくつかのゴミが落ちていた。
旧隧道から、現隧道への移行がどのようにして、いつ頃行われたのかが分からない現時点では、このゴミがいつ誰によって生ぜられた物かは、想像するより他は無い。
しかし、この特殊な状況は、私の推理欲を掻きたてる。


 いくつか落ちていたゴミの中でも、特に私の目を引いたのは、この、ビッグサイズの缶ジュースである。
全体に錆が広がっており力を加えれば簡単に砕けるだろう。
現在では缶コーヒーなどに利用されている硬いスチール缶だが、この大きさは、最近ではまずお目にかかれないものだ。(アルミ缶ならいざ知らず)
ちなみに、内容量は、辛うじて判読できたのだが、「500ml」である。

 ブランドは、『HI-C』。
果汁50%のオレンジジュースである。
親指すら入るようなごっつい飲み口に、レトロなデザイン。
500mlという、最近ならば確実にペットに置き換えられそうな規格。
そもそも、めっきり聞かなくなった、「HI−C」というブランド名。
かなりの年代ものに間違いないだろう。

気になって、帰宅後にコカコーラのサイトで調べてみると、昭和48年に「HI-C オレンジ」の510ml缶が始めて発売されたことが分かった。
この空き缶は、一体いつのものなのだろうか。
誰が、こんな暗闇で、こんなおっきな缶を飲み干したのだろうか。





 空き缶は、もう一つあった。
それは、現在でもお馴染みの「ファンタ」のグレープ味だった。
一目見て古い、そして懐かしいデザインだが、250mlのファンタ缶は、結構最近まで見かけた。
ちなみに、二つの缶ともに、製造年月日は、腐食のため読み取れなかった。

HI-Cに、ファンタ…。
犯人は、子供なのだろうか?



 壁際でレトロ缶を撮影しているとき、ふと、背後の壁に動くものを感じた。
振り返ってみると、壁のくぼみには、湧き出したかのような虫の大群が!
ぎゃー!!
きもぅい!!

少し距離を置いて観察してみると、壁一面にいるというわけでもなく(もしそうだったら卒倒していたかも)、この窪みだけに大発生している。
その姿は、コオロギそのものだが、違いとしては、異様に触角が発達している。
10cmくらいの触覚を持つ個体もおり、暗い洞内で独自に進化しているとでも言うのだろうか?
気持ち悪いが、この虫の正体も気になるところだ。




 現隧道の外壁との隙間には、土嚢が詰め込まれており、これ以上は進めない。
一つ一つ取り除けば、或いはもう少し奥まで進めるかも知れないが、いずれにしても、反対側の坑門が無い以上、脱出は出来ないだろう。
現在の隧道がなぜ、元来の幅を斯様に殺すようにして誕生したのかは、わからない。
現隧道は旧隧道の50%程度の幅しかない。




 一通り調査を完了したので、帰還することにした。



 脱出したいのだが、入洞時に懸念していた危機が、現実の物となった。
先ほどまで気がつかなかったのだが、坑門を狭い竪穴としていたのは、自然の崩落ではなく、積み上げられた土嚢だった。
ほぼ垂直に積み上げられた土嚢の表面には土が付着し、足元にも大量の土が堆積している。
この状況から推定されることは、本隧道が利用停止となった後、唯一残ったこの入り口を、外側から土嚢を積み上げて封鎖したのだということ。
そして、その後の風化や浸食によって、元来の坑門上部が崩落し、再び隧道が口をあけたのではないだろうか。

もし、この推理が正しければ、私はなんという場所を探索してしまったのだろうか!
一度は、完全に地上から切り離され死んだ空間に、再び外の人間が立ち入ったことになる。




 あとは、この成果をサイトで公表して、興味のある方に楽しんでいただければ、完全に任務完了となる。
だが、その前に越えねばならない壁が、立ちはだかった。
濡れた土嚢に手を掛け、足を掛け、登ろうとして、すべり落ちるを繰り返すこと、3回。
私の表情から、余裕が消えていた。

汚れるのが嫌だったからと、それまで付けたままにしていた軍手を脱いで、再チャレンジ。
5回目。
全く登れずに滑り落ちる。
濡れた土嚢はすべり易く、しかも体重を掛けると変形してしまい、全く足場として役に立たない。
その現実を受け入れた時、私は…

生まれて初めて、
隧道に閉じ込められると言う恐怖に戦慄した。


ポケットのケータイの画面をチェックすると、電波はある。
少しほっとしたが、救助してもらうなどという現実は、受け入れがたい。
だが、マジで脱出できない。
人一人が通れるだけの脱出口は、頭上2m。
この斜面を登る以外に、たどり着く術は、無い。




 私は、焦って体力と気力を消費することはしなかった。
冷静になって、現在自分のおかれている状況を、良く整理してみた。
脱出方法を、考えた。



そうだ。
閉塞点に積まれていた土嚢だ。
あの土嚢を運んできて、ここに足場を作れば、出られるのではないだろうか。

その前に、もう一度だけこの斜面に裸でぶつかってみようというファイトが沸いてきた。
私を拒む土嚢を、良く触ってみる。
そして、ある発見をした。
その発見が、私を、脱出へと導いた。

 私を生還させたのは、土嚢の切れ端だった。
袋を綴じた時に余った部分が、土嚢の四隅に残っていることを発見したおかげで、それを手で握って体を支持する事が出来たのだ。
殆ど握力だけで登るという苦しいチャレンジだったが、火事場の糞力というやつが出たのか、なんとかなった。

背中は、冷や汗でぐっしょり。
髪の毛も、両手両足も、どろでべったり。
今まででも、有数の恐怖体験をしてしまった…。





 生還したものの、苦い体験となった。


安易な入洞を反省。



 そのまま、現坑門を降りて、五百刈沢隧道の全体像をチェック。
こちら側の坑門の放つ陰鬱な雰囲気は、10年前から何も変わっていない。
時おり土砂崩れで通行止めとなるのも、ここだ。
そして、なんと、現道からも微かに先ほどの旧坑門が見えているではないか!

以前に撮影した写真もチェックしてみたが、やはりちゃんと写っていた。
まさか、その影が坑門だなどとは思いもしなかったので、全然気にもしていなかったが…。
また、この写真からよく分かるが、旧隧道と現隧道との近接は凄まじい物がある。
現隧道の掘削時には、旧隧道の路面は完全に抜けていたのではないかと思われる。
地下水の作用が少なそうなのにもかかわらず、旧隧道の路面に何の轍も足跡も残っていなかったのは、一旦開削された後埋め戻された為では無いだろうか。



 現隧道内部。
幅は2m足らず。高さは2.5mほど。
コンクリート隧道であり、この狭さ以外にには、特に変わった部分は無い。
ただし、途中でカクンと路面の勾配が変わる。
ここが、新旧の隧道の分岐点だと考えられる。
現隧道は、旧隧道を基本的に利用したが、上新城側の坑門は3mほど掘り下げて開口されたのだ。

隧道を抜けると、愛車が待っていた。
跨って、ここを離れた。




今回の探索により、現隧道の外周には、旧隧道の残された空間や、土嚢、素掘りの内壁などが存在していることが判明した。
やはり、私にとって“最初の隧道”は、ただの隧道ではなかったのだ。

だが、この“二重”隧道の謎は、まだ詳らかにされぬ部分も多い。
特に、各々の竣工年度や、その経緯、旧隧道が本来どのような用途に利用されていたのか…などだ。






2003.12.16


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