本編の探索では、まったく幸運な経緯から現地入手した古老証言に満足し、帰宅後の机上調査を行わなかった。
ちなみにその証言の内容は、次のようなものだった。
古老の証言集 (平成21(2009)年4月27日 現地近くにて)
- 隧道の正体は、林道である。
- 隧道が掘られた時期は、昭和10年頃。
- 通っていたのは、馬車。
- 昭和10年頃、隧道の東側の沢で大規模な地すべりがあり、その崩れた土砂の中から太い杉(埋没林か)が何本も現われた。金沢や能登の方から大勢の職人(木樵)たちがやってきて、隧道を掘って馬車道を通し、これらの杉を丸太にして運び出していった。
だが、探索とレポートの公開から10年が経過した今年、重大な情報提供があった。
情報提供者は、私が知る限り、あの池原隧道群に世界一精通した男、険 酷隧(@ken_koku_zui_67)氏である。
曰く、地元紙『富山新聞』の平成24年11月3日号の連載記事「街を歩くと」に、本隧道のことが掲載されていたそうだ。
そして、紙面のスキャンをお送りいただいた。
拝読した記事には、「さらば戦前の隧道
」の大きな見出しと共に、かの隧道の来歴が詳細に述べられていた。
記事の重要な部分を、いくつか以下に引用して掲載したい。
果たして、私が古老から断片的に聞き取った情報は、どれくらい核心を突けていたのか、遅ればせながら…… 確認の時だ!
『富山新聞』平成24年11月3日号朝刊より引用 その1
林道台帳を調べると(中略)、隧道は全長180メートルの林道市場線、通称「市場隧道」。
大沢野町森林組合が昭和18(1943)年に素掘りで施工、とある。
キター!
さっそく、現地では不明だった隧道の全長、隧道がある林道名、そして林道名が…通称だそうだが…判明した!
隧道の全長180m、林道名は「林道市場線」、そして、隧道名は通称「市場隧道」であるという。
林道市場線という名前からして、民有林林道なのだろう(国有林林道だと「市場林道」の名称になるはず)。
とりあえず、現地で得た証言1が、確かめられた。
一方、古老は竣工年を昭和10年頃と言っていたが(証言2)、林道台帳には昭和18年竣工とあるとのことで、少しズレている。また古老は、隧道を建設したのは金沢や能登から来た大勢の職人達だったと(証言4)、冷静に考えれば、よその土地でそんなことが許されるのかと思えなくもない話をしていたが、台帳では、地元の大沢野町森林組合が建設したということになっていて、これは全く真っ当かつ平凡である。
私がとても惹かれていた、この風来の職人軍団エピソードは、事実ではなかったのだろうか……?
次に引用するのは、同記事に続いて掲載されていた、船峅(ふなくら)土地改良区元理事・堀辰雄氏の証言である。
『富山新聞』平成24年11月3日号朝刊より引用 その2
「本当は、隧道ができたのは台帳の記録からさらに10年ほどさかのぼる」(中略)
堀さんによると、隧道は約80年前の昭和8(1933)年ごろ、「市場の住民が、山で切り出した材木を大沢野まで馬車で運ぶ通路として掘った」らしい。堀さんいわく、隧道を抜けた寺家の山中には材木となる杉が植林されていただけでなく、工芸品などに重宝される神代杉も埋まっていた。その「お宝」も切り分けられ、隧道を掘って市場から大沢野に運ばれた。市場は林業で栄え、集落には富山、石川県内の林業関係者が移住して活気づいた。
キタキタキター!
現地古老=堀辰雄氏だったのではないかと疑いたくなるほどの、かなりの証言の一致が見られる。
「神代杉」というのは初めて出て来たワードだが、国語辞典によると、「水中または土中に長く埋もれていた杉材。暗灰色または淡黒色となり,枯淡で雅趣に富むため,工芸品や高級家具,天井材などに使用
」されるという。まさに、古老のいう、土砂崩れの中から出土した杉材が、これである。
さらに、大勢の富山・石川県内の林業関係者が市場に移住したとあり、古老のいう、金沢や能登の職人達の関与を示唆している。
もっとも、記事では、隧道を掘ったのは市場の人たちとなっているので、地元の関与が薄かったわけではないようだ。
……にしても、この話は本当に、地元でよく語り継がれている有名な話なのかもしれない。それだけ、“ウッドラッシュ”は衝撃的な出来事だったのだろうなと思う。
右図は、市場や大沢野など記事に登場する地名と、隧道の位置関係を示した図で、谷で切り出した材木が隧道を潜って市場、さらに大沢野へと運び出す馬車道が、ほぼ最短距離であったことが伺える。ちなみに、昭和8年当時、既に大沢野地区には国鉄飛越線(現高山本線)の笹津駅が開業済みで、富山方向と結ばれていた。
これで古老の証言は全て検証された。やはり事実だった。
だが記事はこれで終わらない。
開通後、そして、今後の話を、今回初めて知ることが出来た!
『富山新聞』平成24年11月3日号朝刊より引用 その3
しかし、その光景は林業の衰退とともに見られなくなる。市場の人口は、最も古い記録となる昭和37(1962)年の188人に対し、現在は約3分の1の68人。過疎、高齢化が進む。
隧道も1990年代に役割を終え、内部に水がたまり、コウモリが棲むようになった。地元関係者によると、至る所で崩落が確認され、危険性が高まっている。市場の住民は「事故があってからでは遅い」と封鎖を決定。要望を受けた県が、近く隧道入口をふさぎ、通行できなくする予定だ。
やばいやばい塞がれる〜!
って慌てるのは待て。この記事が2012年のものであることを忘れてはいけない。
これを追記しているのは記事が出てから8年も後だ。 多分もう……。 合掌!
ネット上にあるレポートによると、2019年8月現在も開口はしているものの、両側を金網で封鎖されているようだ。
そうそう。
もう二つ、追記があった。
現地に超精通している険 酷隧氏によると、私が西口坑口付近の内壁で見た右の写真の凹みの正体だが、やはりここにはかつて石仏が安置されていたそうだ。
関係者が所蔵していた写真を、私も特別に見させていただいたが、この小さな凹みに台座石、梵字が刻まれた小さな板碑、舟形の地蔵型の石仏、そして花瓶に供えられた献花が、ぎっちりと収まっていた。花は新鮮だった。
残念ながら、石仏はいつの頃からか行方不明になり、地元の石仏研究家の方が捜索してきたものの、現在も発見されていないとのことだった。
もう一つの追記は、最新の地形図(地理院地図)における、隧道周辺の大幅な刷新について。
右図は、私が探索中に使用していた平成6(1994)年修正版の地形図だが、このように隧道はかなり長々と描かれていた。地図読みの長さは250mくらいあり、今回の新情報で判明した180mという全長よりもだいぶ長く見える。
……のだが、チェンジ後の画像は最新の地理院地図で、こちらだと隧道の位置も長さも変わっている。
まるで別の隧道のようだが、そんなことはないはずで、おそらくこれがより正確な隧道の位置であり、長さなのだろう。探索当時の地形図には描かれていなかった巨大な採土場もしっかり描かれるようになり、もはや地形的には隧道の存在に説得力が失われているのが悲しい。(なお、2020年1月現在は、この広大な採土場跡地はメガソーラー発電施設として利用されていると、険 酷隧氏の証言あり)
しかも、隧道は既に封鎖済み……。
以上、8年ぶりにいろいろと判明した、仮称「北寺家隧道」改め、通称「市場隧道」より、お伝えした。交通路としての生涯は既に閉じてしまった隧道であるが、だからこそ、少しでも多くの記録を止めておきたいものと思う。