隧道レポート 北寺家隧道(仮)改め 市場隧道 後編

所在地 富山県富山市寺家
探索日 2009.4.27
公開日 2009.5.03

一攫千金を目指して掘られた隧道?!



2009/4/27 11:06

隧道を発見するより先に、その意外な過去が明らかとなった寺家北隧道(仮)。

こうなれば探索は容易い。
あとは目の前にある道をとことん辿って、それを写真と言葉(ボイスメモとしてもカメラを利用中)で記録していけば良いだけなのだから。




地図読みで全長250mもある隧道は、このように車1台がようやく通れるかというほど狭い隧道としては長く感じられるし、珍しい部類にはいるだろう。
ただし、このすぐそばに現役の県道でありながら同程度か、もしかしたらさらに狭い隧道が三本もあり、しかも先ほどそれを体験してきたばかりなので、いささかインパクトの点で損をしている。

冷静に洞内を観察すると、剥き出しになった地肌は砂岩や泥岩質で、房総などの隧道が多い地域に似通っている。
これは、木を伐り出すためだけに長い隧道を掘っても元を取ることが出来た、イコール、工事が比較的容易であったことのポイントであろう。




始めことさらに出口の光が小さく見えていた原因は、坑口から30mほど入った地点で天井が崩れ、洞床が1mほども盛り上がっていたせいである。
ここはその分天井が高くなっており、まだまだ閉塞を心配するにはあたらないだろう。

ただし、洞内にこのような起伏があると、別の不安というか、問題が生じてくるのである…。



それは、水が溜まってしまうこと。
水没である。

おそらく隧道は中央部が高い拝み勾配になっており、上りの途中でせき止められた水が溜まっていた。
幸いにしてその水深は30cm足らずで、長靴でもギリギリ対処できたが、梅雨時などはより深まる危険性がある。




中間より少し手前の辺りまで来て、意外な光景に遭遇した。

巻き立てられている!

しかも、変な断面形だ!

それまで素堀であった隧道が、全面をコンクリートで巻き立てられている。
そのせいで、もともと狭かった断面は大幅に縮小。
いよいよ、“県道の隧道”に全く引けをとらない極小断面へと変貌を遂げたのである。

しかも、天井のカタチが何だか変。
まるで“ビリケンさん”の頭のように、少し尖っている。
物理的にどうのこうのという前に、単に縦長の狭い隧道を無理矢理巻き立てたので、こういう形にならざるを得なかったのだろう。
それでも出口まで崩れていないのは、元の地質が優れている証しなのか。




覆工区間に入っても暫くは水没していたが、中央付近で水が引き、その先の下りとなると当然水はなかった。
洞床もコンクリートで鋪装されており、両側には小さな疎水溝が掘られている。
自転車で走るには何の障害もない。

洞床も壁の覆工も、そのコンクリートの表面は意外に綺麗である。
しかし、これが後補のものであるのかは分からない。
昭和10年代という竣功時期はコンクリートの利用は珍しい事ではなく、また後付けで補強をする理由も乏しいと思われるからだ。




貫通はしているが、まず滅多に人の通らないこの隧道には、沢山のコウモリ達が棲んでいた。

棲んでいるというか、冬眠の場にしているようだった。
もの凄い密度で天井に密集していて、“密集系”が嫌いな人は画像にカーソルを合わせない方が無難。
逆に密集が好きな人には、壁紙にでもどうぞ(笑)。 →【原寸画像】

今まで色々なコウモリ生息現場を見てきたが、コンクリートの壁にこんなに密集しているのは初めて見る。
もし夏場も彼らが棲んでいるとしたら、この狭さだ。探索には凄まじい大乱舞を覚悟しなければならないだろう。

…もっふもふ?

コウモリへの無断モフモフは法律で禁止されていますから…。





巻き立てのおかげで確かに走りやすくはなったが、とにかく狭い洞内。

データ的には幅1.5m、高さ2mほどだろうか。

この探索では、こういうのが“4本目”だったこともあり、うっかりチャリを入れてのサイズ比較写真を取り忘れてしまったが、ちょうど洞床の両端にある車の轍部分(白っぽいところ)が軽トラサイズである。
こういう隧道を自動車で通り抜けることに夢中になる人もいるようだが(イイ意味で奇人)、ここへは間違っても入ってはいけない。
先ほど見たとおり、洞内中央部で崩壊しているので、車はまず通り抜けられない。
この幅で後退運転をするなんて、考えただけでどうにかなりそうだ。(これは決して煽りではない)




東出口へやっと到着。

坑口部には土砂や倒木の堆積があり、またしても20cmほどの深さで水が溜まっている。

自転車を押して、数分ぶりの明るい場所へ脱出する。

振り返ると、そこには粗末な坑門工が…。




11:12 《現在地》

意匠と呼べるものは何もない、ただ隧道の断面のようにしか見えない坑門。
良い具合に色あせ、土と緑に塗れている。

やはりこれは後付けの坑門ではないように思われる。

確かに埋没林を伐り出すためだけに掘った隧道かも知れないが、使っている最中から崩れてきたのでは堪らない。
そんな想いもあって、或いは何か別の思惑もあったかも知れないが、覆工も坑門工も当初からのものだと私は考える。
それだけの価値が、埋没林にはあったのだろう。



少し離れて振り返る坑門。

こちら側も本当にギリギリな立地にある。
左上の明るい部分はもう採土場の敷地である。
隧道の真上にもブルドーザーが入って山を削った形跡があるが、それでも何とか閉塞するほどは崩れずに保っている。
それも覆工のおかげかも知れない。

結局最後まで名前の分からぬままに終わった隧道を後に、昭和初期に埋没林が出たと言う谷へと下る。




隧道からの下りも西口同様にかなり急で、コンクリートの鋪装が僅かに残されていた。
ここで大きな丸太を馬に牽かせるのはかなり大変だったと思うが、複頭だてにしたり、人も押しに加わったりして何とか運び出していたのだろう。

250mという隧道の長さは、採算と現実性のバランスから導き出された長さであったのかも知れない。




そして、ちょうどこの道が採土場の敷地境を兼ねており、振り返ると採土場を一望することが出来る。

地形図にはまだ隧道上を鞍部とした稜線が描かれているが、現実にはすっかり消えている。

今は採土場を貫く道路はないが、もしそれができれば隧道は名実共に無用のものになってしまうし、それ以前に、隧道のある場所もいずれは切り取られてしまう定めかも知れない。




11:16 《現在地》

地図にないといえば、坂道をひとしきり下って谷底へ着くと、そこにも地図にない道があった。

見たところ比較的新しそうな道で、写真で左から右へ抜けているのがそれだ。
交差点周りは、この新しい道のおかげで綺麗になっている。

どっちへ進むか迷ったが、まっすぐ行っても行き止まりであるらしいし、埋没林は隧道を越えた先の谷…つまりここ…という話だったので、新しい道へ右折してみることにした。





道が新しいのは近年の改良のせいで、もともと道はあったらしい。
道の両側にはかなり大きく育った杉の植林地が点在している。
また、沢沿いの道には多少の起伏があり、そのどこかがかつて埋没林が出てきた崩壊地かも知れなかったが、辺りに話を聞ける人影もなく、これ以上の検証は不可能と判断。そのまま通過することにした。

いずれにしても、この辺り(半径数キロ以内という広い範囲だが)が隧道および馬車道の目的地だったことは確かである。




埋没林と関係ないとは思うが、辺りに生えているどんな杉よりも太い丸太の酷く風化したものが、路傍に1本だけ置き去りにされていた。

かつてはこれだけ太い木が鬱蒼と茂っていたと言うことなのか。

今日のように木材消費量自体が頭打ちとなり、また海外からの安い輸入材が幅を利かせるようになる以前には、杉の美林は今より遙かに商品価値の高い文字通りの「宝の山」であった。
杉1本で家族が養えた時代も確かにあったのだ。

それにしても、ここに現れた埋没林というのはどんなに凄いものだったのか、それを知る術はもはやないが、とても気になる。






11:23 《現在地》

県道の探索をした際に思い当たる節があったので、そのまま新しい林道を南へ進んでいくと、案の定、県道67号とぶつかった。

3本の極狭隧道の内、西から数えて1本目と2本目の間でぶつかる道…県道じゃないのに県道よりも遙かに立派な道…が、私の最後に走った林道であった。

さらに林道は真っ直ぐ続いていたが、寺家北隧道の探索はこれで終了。
県道2度目の走行をしてスタート地点に戻ったのであった。








金沢や能登。


まだ見ぬ彼の地に、千金目指して隧道を掘った男たちの故郷はある。


いずれ訪ねたときには、さらなる隧道探索が楽しめそうだ…。





遅れてきたミニ机上調査編 〜正式な隧道名ほか詳細判明〜 2020/1/5追記

本編の探索では、まったく幸運な経緯から現地入手した古老証言に満足し、帰宅後の机上調査を行わなかった。
ちなみにその証言の内容は、次のようなものだった。

古老の証言集 (平成21(2009)年4月27日 現地近くにて)
  1. 隧道の正体は、林道である。
  2. 隧道が掘られた時期は、昭和10年頃。
  3. 通っていたのは、馬車。
  4. 昭和10年頃、隧道の東側の沢で大規模な地すべりがあり、その崩れた土砂の中から太い杉(埋没林か)が何本も現われた。金沢や能登の方から大勢の職人(木樵)たちがやってきて、隧道を掘って馬車道を通し、これらの杉を丸太にして運び出していった。

だが、探索とレポートの公開から10年が経過した今年、重大な情報提供があった。
情報提供者は、私が知る限り、あの池原隧道群に世界一精通した男、険 酷隧(@ken_koku_zui_67)氏である。

曰く、地元紙『富山新聞』の平成24年11月3日号の連載記事「街を歩くと」に、本隧道のことが掲載されていたそうだ。
そして、紙面のスキャンをお送りいただいた。

拝読した記事には、「さらば戦前の隧道」の大きな見出しと共に、かの隧道の来歴が詳細に述べられていた。
記事の重要な部分を、いくつか以下に引用して掲載したい。
果たして、私が古老から断片的に聞き取った情報は、どれくらい核心を突けていたのか、遅ればせながら…… 確認の時だ!

『富山新聞』平成24年11月3日号朝刊より引用 その1

林道台帳を調べると(中略)、隧道は全長180メートルの林道市場線、通称「市場隧道」。
大沢野町森林組合が昭和18(1943)年に素掘りで施工
、とある。

キター!
さっそく、現地では不明だった隧道の全長、隧道がある林道名、そして林道名が…通称だそうだが…判明した!
隧道の全長180m、林道名は「林道市場線」、そして、隧道名は通称「市場隧道」であるという。
林道市場線という名前からして、民有林林道なのだろう(国有林林道だと「市場林道」の名称になるはず)。
とりあえず、現地で得た証言1が、確かめられた。

一方、古老は竣工年を昭和10年頃と言っていたが(証言2)、林道台帳には昭和18年竣工とあるとのことで、少しズレている。また古老は、隧道を建設したのは金沢や能登から来た大勢の職人達だったと(証言4)、冷静に考えれば、よその土地でそんなことが許されるのかと思えなくもない話をしていたが、台帳では、地元の大沢野町森林組合が建設したということになっていて、これは全く真っ当かつ平凡である。
私がとても惹かれていた、この風来の職人軍団エピソードは、事実ではなかったのだろうか……?

次に引用するのは、同記事に続いて掲載されていた、船峅(ふなくら)土地改良区元理事・堀辰雄氏の証言である。

『富山新聞』平成24年11月3日号朝刊より引用 その2

「本当は、隧道ができたのは台帳の記録からさらに10年ほどさかのぼる」(中略)
堀さんによると、隧道は約80年前の昭和8(1933)年ごろ、「市場の住民が、山で切り出した材木を大沢野まで馬車で運ぶ通路として掘った」らしい。堀さんいわく、隧道を抜けた寺家の山中には材木となる杉が植林されていただけでなく、工芸品などに重宝される神代杉も埋まっていた。その「お宝」も切り分けられ、隧道を掘って市場から大沢野に運ばれた。市場は林業で栄え、集落には富山、石川県内の林業関係者が移住して活気づいた。

キタキタキター!
現地古老=堀辰雄氏だったのではないかと疑いたくなるほどの、かなりの証言の一致が見られる。
「神代杉」というのは初めて出て来たワードだが、国語辞典によると、「水中または土中に長く埋もれていた杉材。暗灰色または淡黒色となり,枯淡で雅趣に富むため,工芸品や高級家具,天井材などに使用」されるという。まさに、古老のいう、土砂崩れの中から出土した杉材が、これである。

さらに、大勢の富山・石川県内の林業関係者が市場に移住したとあり、古老のいう、金沢や能登の職人達の関与を示唆している。
もっとも、記事では、隧道を掘ったのは市場の人たちとなっているので、地元の関与が薄かったわけではないようだ。

……にしても、この話は本当に、地元でよく語り継がれている有名な話なのかもしれない。それだけ、“ウッドラッシュ”は衝撃的な出来事だったのだろうなと思う。

右図は、市場や大沢野など記事に登場する地名と、隧道の位置関係を示した図で、谷で切り出した材木が隧道を潜って市場、さらに大沢野へと運び出す馬車道が、ほぼ最短距離であったことが伺える。ちなみに、昭和8年当時、既に大沢野地区には国鉄飛越線(現高山本線)の笹津駅が開業済みで、富山方向と結ばれていた。

これで古老の証言は全て検証された。やはり事実だった。
だが記事はこれで終わらない。
開通後、そして、今後の話を、今回初めて知ることが出来た!

『富山新聞』平成24年11月3日号朝刊より引用 その3

しかし、その光景は林業の衰退とともに見られなくなる。市場の人口は、最も古い記録となる昭和37(1962)年の188人に対し、現在は約3分の1の68人。過疎、高齢化が進む。
隧道も1990年代に役割を終え、内部に水がたまり、コウモリが棲むようになった。地元関係者によると、至る所で崩落が確認され、危険性が高まっている。市場の住民は「事故があってからでは遅い」と封鎖を決定。要望を受けた県が、近く隧道入口をふさぎ、通行できなくする予定だ。

やばいやばい塞がれる〜!
って慌てるのは待て。この記事が2012年のものであることを忘れてはいけない。
これを追記しているのは記事が出てから8年も後だ。 多分もう……。 合掌!

ネット上にあるレポートによると、2019年8月現在も開口はしているものの、両側を金網で封鎖されているようだ。



そうそう。
もう二つ、追記があった。

現地に超精通している険 酷隧氏によると、私が西口坑口付近の内壁で見た右の写真の凹みの正体だが、やはりここにはかつて石仏が安置されていたそうだ。

関係者が所蔵していた写真を、私も特別に見させていただいたが、この小さな凹みに台座石、梵字が刻まれた小さな板碑、舟形の地蔵型の石仏、そして花瓶に供えられた献花が、ぎっちりと収まっていた。花は新鮮だった。

残念ながら、石仏はいつの頃からか行方不明になり、地元の石仏研究家の方が捜索してきたものの、現在も発見されていないとのことだった。



もう一つの追記は、最新の地形図(地理院地図)における、隧道周辺の大幅な刷新について。

右図は、私が探索中に使用していた平成6(1994)年修正版の地形図だが、このように隧道はかなり長々と描かれていた。地図読みの長さは250mくらいあり、今回の新情報で判明した180mという全長よりもだいぶ長く見える。

……のだが、チェンジ後の画像は最新の地理院地図で、こちらだと隧道の位置も長さも変わっている。
まるで別の隧道のようだが、そんなことはないはずで、おそらくこれがより正確な隧道の位置であり、長さなのだろう。探索当時の地形図には描かれていなかった巨大な採土場もしっかり描かれるようになり、もはや地形的には隧道の存在に説得力が失われているのが悲しい。(なお、2020年1月現在は、この広大な採土場跡地はメガソーラー発電施設として利用されていると、険 酷隧氏の証言あり)
しかも、隧道は既に封鎖済み……。


以上、8年ぶりにいろいろと判明した、仮称「北寺家隧道」改め、通称「市場隧道」より、お伝えした。交通路としての生涯は既に閉じてしまった隧道であるが、だからこそ、少しでも多くの記録を止めておきたいものと思う。






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