平成17年に廃隧道化し、まさに魔窟と呼ぶに相応しい姿になりつつある、上高地のかつての衛兵「釜トンネル」。
一部の照明が今も照りつづける洞内には、現在の釜トンネルに繋がる連絡坑(釜上トンネルの一部)や、冬期間に利用されたという脱出口(採光窓)に加えて、コンクリートの壁の穴の裏には、「古釜」と呼ばれる旧旧隧道が現存していたのである。
「古釜」が開通したのは昭和2年といわれ、当初は発電所建設のための工事用軌道であった。
昭和3年に工事が終了した後は自動車道となり、以後は上高地へ至る唯一の車道として、長い歴史を刻むことになる。
この古釜トンネルは全長320m、幅と高さは2m少々の、大変に狭隘なものであった。また、洞内は全線にわたって急勾配で、15%という急坂が続いていた。
古釜を含む車道は、昭和8年に正式に公道とされ、県道松本槍岳線に指定された。
同年には大正池の畔に「上高地帝国ホテル」が完成し、バスが通うようになる。
翌9年に上高地は「中部山岳国立公園」の指定を受け、日本を代表する山岳観光地として発展を始めるのである。
だが、この年の長雨で、中ノ湯から古釜トンネルまでの梓川沿いの県道が寸断されてしまう。
この抜本的な解決策として、決壊した梓川沿いの区間300mほどを廃止し、代わりに従来の釜トン内部から分岐する新トンネルを掘って、中ノ湯付近まで一気に地中を通すことになった。
この計画に則って昭和12年に完成したのが、以後平成17年まで利用されることになる、おなじみの「釜トン」である。
新トンネル部分は266mで、幅・高さともに4m強という、従来よりも余裕のあるサイズで作られた。そして、トンネルの全長は約510mになった。
以上をまとめると、「古釜」ルートは昭和2年に軌道として造られ、3年から車道化、8年にはバスも通ったが、9年に決壊し、12年に正式に廃止されていることになる。
まさに、釜トンの“知られざる過去”、“幻の初代”というべきルートだ。
2008/9/9 13:23
約2ヶ月ぶりの釜トン。
今回は一人きりだ。
沢渡にクルマを停め、そこからは例によって国道158号をチャリで上ってきた。
坑門に二つ並んだ坑口は、左が前回探索した旧釜トン、右が現在の釜トンである。
古釜への近道は左だが、例によって警備員+鉄扉の鉄壁ガードがある。
ここは黙って右の穴へ入る。
…もう二度と潜りたくはないと思った新トンネルだが、古釜を調べるためにはやむを得ない。
一度の探索ですべてを“こなせなかった”自らの甘さが招いた、一種の悲劇である。
13:49
またも20数分もかかって釜トンを通過。
産屋沢で折り返して、旧道へ。
釜上洞門内部から振り返って再会した釜ヶ淵堰堤は、あの豪壮な瀑布の見る影もなく水量を減じていた。
とはいえ、巨大で精緻な堰堤自身の美しさが一層際だって現れており、私はしばらく魅入ってしまった。
それから、鉄扉の前にチャリを捨て、旧釜トンへ。
14:05
二度目ということで、幾分リラックスして洞内をつぶさに観察して回った。
とはいえ、特別に新発見といえるようなものもなく、2ヶ月前同様に一部照明が点灯したままの洞内を下っていく。
そして、最後のカーブの地点に、それは変わらず口を開けていた。
二つ穴の、洞内分岐跡。
この外側に、古釜が待つ。
しゃがみ歩きで穴を通ると、かすかに温い空気が満たされた、本坑より一回りも二回りも狭い空洞へと抜けた。
これが、初代の釜トンネル。「古釜」である。
そして、今回の再訪ターゲットは、この古釜を出た先の旧旧道。
工事軌道に起源を持つという、初代ルートの実態解明が目的である。
前回探索でこの穴を見つけたところまでは良かったが、その先が旧旧道だとは考えておらず、自ずと探索も甘くなったのであるが、今度はガチで挑む。
14:07 【現在地(別ウィンドウ)】
常時、大量の泥水をはき出しつづけている古釜の坑口。
坑口前は、倒木や崩落土砂を堰とした天然ダムの様相を呈しており、いずれは完全に地中に没するものと思われる。
むしろこの断面の小ささを見る限り、いままで70年以上も原型をとどめてきたことが意外だ。
ちなみにこの坑門には扁額はなく、アーチ以外の面もないという、きわめてシンプルな外見である。
これが昭和2年当初のものなのか、3〜9年までに車道として改良されたものなのかは不明だ。
これが旧旧道…。
前回は、そこが道だなどと思うこともなく…写真さえ撮らずに踵を返した風景。
だが、実際にはここが道だった。
昭和2年から、12年までの、11年間。
工事資材や作業員たちを乗せた軽便鉄道。
フォード改造車の小型バスや、ごく一部の金持ちたちの乗用車、それに上高地や穂高、槍の嶺々を目指す無数のアルピニストたち…。
彼らが様々な思惑を胸に通り抜けた、県道「松本槍岳線」。
その残光を拾い歩こうと、いま私は、
ひとり倒木の元へと踏み出す。
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14:08
ぬかるんだ坑口前を脱し、向かって左。
つまり川下の方向へと歩き始める。
まずはじめに直径50cmもあるような倒木が何本も折り重なっており、それが道を見失わせていたわけだが、甘ったるい腐臭に顔をしかめながら潜ってみれば、確かにその先には……。
いや。
それでもやはり、安易に「道があった」などと言える状況ではないのである。
そもそも周囲の緑が濃すぎて、視界が著しく不良。
一歩一歩立ち止まって、緑の下の地面の状況を確かめる必要がある。
その連続によって初めて「歩けた」となるのであって、「ああ。道があるな」となるのは、あくまで結果。
経験のある人ならば分かると思うが、これってかな〜り気持ちの悪い状況だ。
坑口を3mほど離れた段階で振り返ると、もはやそれは見えない。
おびただしい倒木に取り囲まれ、周囲から隠されている状態だ。
それでも、こうやってみると一応坑口前には数メートル四方の広場があって、その気になれば対向車を待てたかもしれない。
…とても、そんな光景をリアルに想定できる情景ではないが…。
そして、この位置からさらに左、梓川の上流方向へ目線を遣る。
そこには、古釜時代に置き去られた、古い車窓があった。
木々の隙間に見える梓川の上流には、まるで火口か何かのような不毛の瓦礫斜面が見えた。
そこが、前人未踏とさえ噂される「釜ヶ淵」の入り口であることは、地図が証明していた。
この古釜口からなら、その気になればたどり着けそうな場所…。
特に、水量が少ない今日ならば…。
だが、それは今回の攻略とは無関係。
全く持ってハイリスクノーリターンな行為である。
好奇心は刺激されたが、おそらく見るほどに甘くは無い道筋に違いないのだ。
今はただ、目前の道を辿るべきだ。
そう、思い直した。
よちよちと、30mほど前進しただろうか。
ここに来て、初めて道らしい風景に行き当たった。
おもわず、声が出る。
やったぞ!!
ガードレールや石垣、道路標識。そんなズバリの物があるわけではないが、背丈よりも遙かに高く切り取られた垂直の法面と、その下に連なる一間幅(約1.8m)程度の平場。そして路肩の下の絶壁。
これぞ、本来の谷底にはあるはずのない地形。
そこに人為が加わった証と言える、道の痕跡である。
確かに、道が下流に向かって続いている。
むむむむむ…
むむむ…
この状況。
見かけによらず、結構やばい。
大量の夏草によって地面の起伏が非常に分かりづらくなっているが(肉眼でも同じ)、どう見ても平場はとぎれている。
そこは梓川に削り取られたと言うよりは、土砂崩れで埋もれたように見える。
一見しても荒けた地肌が見えるわけでもないし、さほどの急斜面には見えない。
だが、これだけの面積にわたって目立った木が一本も生えていないという時点で、それはもう「相当に危うい」のである。
下手をすれば、横断できないかもしれない難所だ。
この、「トゲを隠した」難場の実際の状況は、こんな感じだ。
秋田では確か山菜として収穫されていたと思う、“何か”が密に生えている。
彼らは根が浅く、手掛かり、足掛かりとしては相当に信頼ならない。
その上、触れると焼け付くように痛い、微細な「トゲ」があるのである。
私は、よほどのことがない限り「軍手」はしない。素手である。
その理由は、単なる好みと、カメラを扱いづらい(それくらい頻繁に撮影しているということだ)という理由によるのだが、そんなわけだから、この東北では見慣れた植物は大の苦手である。
山菜として食べるとかなり美味しかったと思うが…、私はこの斜面を突破するのに、かなりアツ痒い想いをしなければならなかった。
不安定な足場と、両手のチクチクに耐えながら、なんとか足を止められる場所にたどり着いた。
そこは、かつては法面の一部であったろう垂直の岩場と、柔らかく積もった土山のてっぺんとが接する場所だ。
私はこの20mほどの斜面を横断し終えたとき、本来の路盤から鉛直方向にして5mも登ってしまった。
土や瓦礫の崩れやすい斜面では、水平に横断するよりも、少しずつ上っていく方が安全だからだ。
もっとも、本来の路盤の高さには相変わらず平場は現れず、ここに来るより無かったとも言える。
さらに言えば、これ以上は“登りながら進む”ことが出来なくなったと言うことだ。
つまり、 …ピ ン チ 。
正直、心苦しい。
この写真を最後にして、「前進不可能、撤退」と決断を下すことが。
だって、絵的にはまだ進めそうに見えるでしょ?
実際、私もここで断念になるとは、最初思わなかった。
思わないながら、あれ? あれれ? これはどこにも足の置き場が、手の捕まり場が無いぞ…。
そんな風に追いつめられていった、苦悩の3分間があったのだ。
結果、この、さほど危機的とも思えない風景を最後にして、完全踏破を断念せざるを得なかった。
あるいは谷底に一度下ることが出来れば突破の線もあったかもしれないし、それは叶わぬまでも、「こういう状況だから無理でした」と納得して貰いやすい(納得しやすい)客観的な写真が撮れただろう。
しかし、直前の崩壊斜面で「上へ、上へ」と誘導された末にたどり着いた末端点は、それ以上前進、下降、上昇ともに出来ぬ、まさに行き止まりの地点であったのだ。
全体を客観視ができない、夏草に覆われて、しかも複雑そうな崩壊部分。
確信はないが、おそらくは梓川によって路盤が流されたという70年前の大規模決壊部は、このあたりだと思われる。
古釜坑口からは、約100mの地点だった。
レポートとしては短時間でも、ここへ至るための手順はかなり多い。
この、いまいち歯切れの悪い決着には後ろ髪を強く引かれたが、ここは無理な探索が許される場所ではないとの判断から、一旦撤退し、下流側からの再挑戦に賭けてみることにした。
一時敗退。
14:30
来たッ!
再度来たッ!! 釜トンの中ノ湯側坑口。
前回は全く意識しなかったので気がつかなかったが、この坑口の左に旧旧道が分かれている
…はず。
それは、確かに存在していた。
写真は、たどり着いた旧旧道の路盤から、釜下ロックシェッドを振り返ったものだ。
1〜2mほどの段差が生じてはいたが、坑口の脇には確かに旧旧道跡の平場があった。
あらかじめそれを知らなければまず気付けないという、慎ましさで。
上流側の路盤とかつて繋がっていたことが頷ける、同じような幅と作りの道だ。
それに、今のところはさほどの崩壊もなく、踏跡こそ一切れもないが、歩くこと自体は問題がない。
このまま、未達の約200mを一気に埋めてしまえれば万事丸く収まるのであるが…。
道ははじめから崖の中にあり、それは進んでいっても変わらなかった。
路肩は垂直に近い崖になって、梓川の赤茶けた河床に接していた。
この色は、付近の岸壁から湧出する温泉成分のためであるそうで、釜ヶ淵より上流では目立たない。
実際、かつてこの温泉を観光資源として利用出来ないか調査したこともあって、上高地へと引湯することが検討されていたらしい。
今回、その源泉地を確かめることは出来なかったが、古釜坑口よりは少し上流だと思われる。
法面の岸壁上からは、幾重にも束になったワイヤーがぶら下がっていた。
かつて、このような場所でも林業が行われていたのだろうか。
この道で初めて見つけた明確な人工物だったが、正体は不明である。
続いて発見されたのは、路肩に埋め込まれた木製電柱の切り株である。
防腐剤で処置された表面は未だにわずかな光沢をとどめており、堅さも保っている。
一方で内部は完全に朽ちて、そこにまるで鉢植えのようにして別の緑が育っている。
電信柱の跡というのは、いろいろな廃道で目にすることがあるが、たいがいは目立たない存在だ。
ここでもともすれば見逃すほどに目立たない。
しかし、その道が通路としてだけではなく、その先に住まう人々にとってのライフラインであった事実を物語る、貴重な遺物である。
遺構にきわめて乏しい70年も前の廃道にあっては、特に価値ある発見だ。
入り口から50mほど進んだ地点である。
行く手には、これまで以上に高い法面が、黒々とそそり立っていた。
それは一部垂直を通り越してオーバーハングの様相を呈し、大好きな「片洞門」を彷彿とさせる領域に達している。
旧旧道にあっては、これまでで最も大規模な土工の痕である。
見慣れた森林鉄道跡にも似ていると思うのは、勾配を嫌った線形に通じる物があるからだろう。
そしてこの場所にはひとつ、不思議な発見があった。
まるで、オーバーハングした岩盤を支えようとするかのような、一本の朽ち木。
明らかに自生した物ではない。
かといって、人工的に製材された木材でもないようだ。
いままで、廃道の内外でいろいろな場面に出会ってきたが、片洞門に支え木というのは初めての光景。
廃止からの年月などを考えるとさすがに無理があると思うので、偶然こうなったのだと思うが、それはまたとんでもなくレアな現象だと思える。
…果たして墜落してきた木が、こんな風になるものだろうか…。
天狗の仕業を疑いたくなるような、不思議な光景である。
10mほどの片洞門を潜り抜けると、前方の視界が少し開ける。
と同時に、路盤の行く手にものすごい起伏のあることを認めた。
それは通常の勾配ではなく、崩壊によって出来た凹凸だ。
現時点では何とも判断しかねるが、先ほど撤退した地点までは残り100〜200mの地点である。
何があっても、不思議はないのである。
前方の状況に大きな不安を感じつつ、平穏な路盤の最終地点から振り返って撮影した、直前のオーバーハング部。
こっちからシルエットで見ると、「なんちゃって片洞門」ではない、本物の片洞門だったのだ。
個人的には、道幅の三分の二以上オーバーハングしていれば、「片洞門」だと思っている。
これは、狭い道幅の全体を覆うほどにせり出しているから、大合格だ。
それはそうと、図らずして、重層的で綺麗な写真が撮れた。
だが、ここをバスが通っていた景色は、ちょっと想像できそうもない。
古釜もそうだが、70年前の自動車を取り巻く道路事情というものが、山岳部においてどれほど挑戦的であったのか。
それを考えさせる風景だと思う。
思えば我々のオブローディングという趣味も、普通の道があくまで普通だからこそ成り立つものだ。
酷道趣味などは、その最たる例だと思う。
上も
下も
逃
げ
場
な
し
!
と い う 状態で…。
やられたーー!
今度は明確に「駄目!」。
生半可な崩れ方ではない。
地面を構成していた巨大なピースの一つが丸々抜け落ちてしまったかのように、ゴリッと地面が消えていた。
その切断された地面の端は、クレバスのように鋭く尖っていて、降りることも、また登り直すことも出来ない状態。
少なくとも、徒手空拳で挑める状況では無さそうだ。
どこか手前で谷底へ一旦降りて、そのまま谷底を進む方法で前進できる可能性はあると思うが、正直ここまでの道路状況を見て、全容が分かった気がしてしまった。
古釜ルートは、前後からおおよそ100mずつは踏破できた。
だが、中間部分の100mかそれより少し短い程度の距離が残った。
ぎりぎり見通せていないと思う距離だが、今のところ再訪は考えていない。
梓川の奔流に接しての70年という月日が並大抵ではなかったと言う、至極当たり前なことを実感する再訪であった。
14:36
近年は、人跡のかなり薄まっていたと推測される古釜ルート。
それを明るみにする試みは、オブローダー冥利に尽きる挑戦であったが…
非常識な釜トンネルを意義づけた自然の猛威の前に、あえなく弾き返されたのである。