田代隧道   本当の最終回 
公開日 2005.12.31



 生還への咆哮!
 2004.12.15

5−1 DEAD OR ALIVE

13:46
 入洞から、ちょうど1時間を経過。
田代口から1750mを進んだ。
洞内に設置されていた、出口までの距離を示す表示は、いましがた「50m」を過ぎたところ。
もう、出口がすぐそこにある はず。


 しかし、どういう訳か、霧が充満した洞内には出口の明かりが見えない。
背後には、毒ガスが充満しているかも知れない死の暗闇。
撤収は、許されない状況。

 最悪の結末が、脳裏を過ぎる。
嫌な汗が、じとり…。





 カーブだ!


 思い出したぞ。

そういえば、入口を入ってすぐもこんな風にカーブしていた。
雪の吹き込みを防ぐために出入り口をカーブさせた物と想像する。
おおよそ1700mぶりに現れたカーブは、その先にあるだろう出口を、これ以上なく強烈に、予告してきた。

 そしてそのことは、

私に決定的な緊張を強いたのである。


 このカーブを曲がれば、全てが明らかになる。  

 答えは、逃げも隠れもしない。

 このカーブを曲がれば…







DEAD!!
      
or
              
ALIVE?!








び、びみょー… 






ここにも、トロッコが一両待っていた。

短冊のような天井の札は、律儀にも、扉の手前で「1」となっていた。


 生還への最終ジャッジは、この扉の開閉に持ち越された。

扉が開けば、ALIVE!

もし、開くことが出来ねば… …毒ガス隧道1800m 逆戻り…
下手すりゃマジDEAD
 


 頼む!

 マジ開いてくれ!!

チャリをトロッコの脇に置き、扉の前に歩み出る。
外は吹雪か、 白い物がちらついて見える。
足元には、外の雪が少しだけ吹き込んでいる。
そこには這い蹲っても出られる幅はないし、土を掘って脱出することも、レールや枕木のせいで難しいだろう。


 冷たい扉に手を掛ける。
それは、木製だった。
万一鍵がかかっていたら、ぶっ飛ばして開けるだろうか?

 それは、犯罪の上重ねになるし… でも、生還のためならそうするかも知れない。
そうだ。
扉なら壊しても弁償できるが、 命は取り返せない。

 もし、押してダメなら、突き破ろう。

そう決めた。


そう考えることで、もし押してもダメだったときのために、心にワンクッションを置いた。
これがダメでも、蹴破る道がある。
そう思うことで、あるかも知れない絶望を意識しないよう、努めた。




 




 扉は、倒れた。




   生還 



5−2  生  還

13:49

 入洞から1時間と4分。


山行が史上、二番目に長い廃隧道突破劇だった。
この探索により、これまで山行がが取り上げた廃(もしくは休止・未供用)隧道における、長さのベスト5は以下のようになった。
1釜石製鉄 山手東側隧道約2400m岩手県(公開停止中)
2上北鉱山 田代隧道1800m青森県
3羽越本線 天魄山トンネル約1700m山形県
4奥羽本線 2代目大釈迦トンネル1470m青森県
5北上線 旧仙人隧道1443m岩手県





 扉は、開いた。

開いたと言うよりも、外れて落ちた。

いや、
壊したわけではないよ。
蝶番のない、ただ嵌められていただけの扉が、押したら外へ向けて倒れたということ。

 しかし、外から扉の作りを見てちょっと嫌な気分に。

だって、この扉って扉の上に付いている小さな木の閂が降ろされているときは、内側から開かない仕組みな訳で。
閉じこめられた場合は、この閂を壊さないと出られないわけだ。


 出てきた出てきた。

 我が愛車。

 ほら、もう少しだよ。

 闘い終えたその勇姿を、みんなの前に出しておあげ。

 




田代隧道。

攻略完了。



 1時間ぶりに外へ出てみると、そこは冬山だった。

現在の地名は天間林村字天間舘、定住する人は一人もいない。
しかし、ほんの30年前までは、「上北鉱山」と言えば青森県人の誰もが知っていた。
そんな場所だ。

 坑口の前は広場になっており、その先は上北鉱山への下り道が続いている。
鉱山のあった頃には、ここは「上の沢」と呼ばれ、青森市へと通じる隧道鉄道の乗り場として住民の誰もが通ったことのある道だった。

 肌を切るような雪交じりの風を飄々と浴びていると、攻略完了の興奮など、すぐに醒めてしまった。
 


 坑口は谷に面した場所にあり、谷を挟んだ東側には、雪雲に天辺のあたりを撫でらる高森山(834m)の姿。
その山肌一面には、山頂に至るまでジグザグの道が縦横に描かれている。

それこそは、上北鉱山のひとつ「奥が沢鉱床」であり、露天掘りを中心に戦中特に盛んに採掘された場所だ。
その作業には多くの捕虜や朝鮮人労働者が充てられたという。
もちろん、こんな雪山の中でも、彼らの過酷な労働は続けられていた。

 傷だらけの山は、とても、寂しく、冷たい景色だった。

 


 おっと、チャリを半分出しのままにしていた。

しかし、そのままでは旅を続けられないほど、私は泥まみれに汚れていた。

もの凄い湿度の中に1時間もいたせいで、リュックの中身も湿っぽくなっていた。
デジカメも本当によく頑張って撮影してくれた。(この時はまだ「現場監督」ではなく、伝説の「FinePixF401」だった。)

寒風に吹かれながら、私は己の荷物の点検を行った。




 ズボンは太ももまで泥にまみれていた。
しかも、この泥は非常に粘りけの強いもので、おそらくは硫酸の成分も入っていたのだろう。
それに、ヘドロ臭さも酷かった。

 さすがにこのズボンでは帰りの電車に乗れないので、まだ行く手でも濡れる心配はあったが、一本だけの替えのズボンに着替えた。
雪の中太ももを丸出しにして。

 ちなみに、このズボンは帰宅後、必死の洗濯の甲斐もなく破棄された。
また、直接関係ないが、ここに写っているジャンバーも、この半年後に山の中で最期を迎えた。

 足元の雪の中に顔を出しているのは、レール。
換えのレールと思われる物が、広場に置かれたままになっていた。



 雪の上に鮮血を飛び散らし息絶えた、我がチャリ。

このチャリも、この探索のやはり半年後に、探索中にその生涯を閉じている。

 この泥まみれの有様は酷いもので、しばらくはブレーキは利かず変速も動かずと言う状況だった。
こんなチャリで青森市街中心部を駆け、さらに電車に乗り込みさえしたのだから、同乗された方やJRには申し訳ない気持ちだ。
(もちろん、泥は出来る限り払ったが、汚れは落ちなかった)



5−2  生  還

14:07

 午後2時を周り、いよいよ体の芯まで冷えてきた。
かじかむ手でしっかりとハンドルを握り、チャリに乗 …れないので、
チャリを押し始める。

 振り返ると、田代側坑口とは違い、だいぶ隧道らしいなりをしている鉱山側坑口の姿。

 隧道は、昭和32年に完成し、翌33年から坑内電車と坑口までのバス運行が開始され、鉱山から青森市へと通じる唯一の日帰り道となった。
だが、さらに翌年34年には、現在の県道242号線の山越えルートにバスが通じ、直接鉱山までバスが入れるようになった。
こうして僅か一年で、少なくとも夏期における洞内鉄道の意義は薄れた。
冬期間は唯一無二の交通機関であり続けたが、それも長くは続かず、
昭和48年には、全山が閉山し、鉱山街も自然消滅した。
隧道内の列車がいつまで運行していたのかは、記録に残っていない。

短命だった隧道だが、その存在が、この絶対的山奥の地に暮らした々に与えた希望は、大きかった。

当時撮影された、小さな小さな列車に満面の笑顔で乗り込む人たちの写真を見ると、救われ気がする。




 隧道から伸びている塩ビパイプと一緒に、急坂で谷底へと駆け下る道。
ブレーキが利かず、足で制動しながら下った。
足が車輪に触れる度、勢いよく泥が飛び跳ね、私の顔面に機関銃のように泥粒が注いだ。
かなり荒れた道で、夏でも乗用車には難しいだろう。

 300mほどで標高50mを一気に駆け下る。



 そして、県道にぶつかる。
写真は県道側から振り返ったもので、正面の、側溝を乗り越えて続く道が隧道への道。
右のカーブに続くのが、県道だ。
県道だと5kmの道のりが隧道経由だと2.5kmほどではあるが、ただですら交通量の少ない県道の峠に、「バイパストンネルを!」などと言う声は聞かない。
むしろ、今日では、トンネルの存在すら忘れられている。





 立石沢を左に右に、未舗装でかなり荒れた県道が、急角度で下っていく。
もちろん冬期閉鎖中の道なので、雪の上に新しい轍はない。
チャリの重みと下りに任せ、強引に轍を刻んで、雪と泥を撥ねながら下った。
こんな道をボンネットバスが30年も前に走っていたのだから、やや隔世の感がある。



 坑口から2.5kmほどで、行く手の谷底に大きな水色の屋根が見えてきた。

これが、いまも上北鉱山跡地で唯一稼工を続けている、鉱毒中和施設である。

かつての鉱山の中心地。
元山の選鉱場跡に立地している。



14:19

 中和処理施設の背後の斜面に残る、選鉱場跡。

閉山後間もなくして原因不明の火災により全焼し、今以て無惨な姿を晒し続けている。


5000人が暮らしたヤマの、心臓部だった。




 谷底だけでは足りぬと山肌一面に広がった社宅。
人々が列を成した配給所に商店、飲み屋に病院に、銭湯、映画館。

様々な営みがあった。

いまも、僅かだが当時の面影が残り、思わず時間を忘れてしまう。




 だが、冷え切った体を温めてくれる物は何もなく、夜になる前にもう一山越えて青森市へと帰らねばならない。
荒れた県道につけられた小さな青看板に従って、みちのく道路へと足早に下る私だった。







茫漠たる山中に、針穴の如き穴一つ。

かつて、希望の光の通ずる穴だった。

いまは、北つ風のみ通ずるなり。











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