2010/10/18 10:47
今度は長井ダム湖(ながい百秋湖)を跨ぐ「竜神大橋」から、いままさに地上との別れの場面を迎えている「管野ダム」「管野第一隧道」「第二隧道」を俯瞰してみよう。
これこそが、“百秋の価値がある眺め”といえるかもしれない。
来年に通常のダム運用が始まれば、管野ダムはともかくとしても、2本の隧道はもう地上に出てくることはないはずだ。
竜神大橋は、付替林道が管野ダムのほんの僅か下流に架設した巨大なPC橋で、直下にある野川谷底からの高さは約110m。橋の長さは約300mある。
この高さは長井ダムの堤高(126m)に近く、満水位になれば長さ50m近い左岸側橋脚の基部も完全に水没することになる。
既に試験湛水でも一度満水を体験しているので、その時に付けられた喫水線の跡が、周囲の山腹に鮮やかな水平線を見せている。
そしてこの水平線を基準にすると、“ダムの中のダム”となって水没する管野ダムの絶望感が半端無い。
現状の長井ダム湛水深は、30m程度と考えられる。
この管野ダムも決して小さなダムではなく、我々の体格に比べれば十分巨大な46mという堤高を有していた。
しかしダムの上下流の水位がひとつになっているこの光景は、ダムにとっては最も屈辱的と思われ、ダムとしてはいっそのこと早く湖底に消えてしまいたいと願っているかも知れない。
管野ダム堤体の2基並んでいた放水ゲートは全て破壊され、関係者のボートを通船させるスリットとしてのみ存在している。
だが遠からず、堤体の全ては水面下に消える。
奥には山形県が発電のため取水していた取水口も見えるが、約2km下流の野川第一発電所とを結ぶ地下導水路共々役目を終えた。
管野ダムを中心にしたひとつの“系”が絶滅し、より大きく、より破壊的な新たな“系”が、この谷を支配する。
もはや止まることのない遷移の時を、静かな湖面が司ることの不気味さ。
谷の水を止めたのは紛れもなく人間だが、実際に地上を“殺す”という汚れ役は“自然”にやらせるというテクニックが、あざといと思う。
大抵の土木は人自体が破壊の先兵となるが、ダムの湛水は……。
…ウダウダと語りたいことが多すぎる眺めだが、いい加減次に行こうか。
これが、今回のレポートの一番のメインとなる写真だ。
竜神大橋より今度は下流側を見下ろすのだが、本当にほとんど真下である。
そこに平成11年までは県道であった、いまは地形の凹凸に過ぎなくなった路盤跡と、トンネルの跡が並んでいる。
かつての県道252号木地山九野本線は、全線約20kmの大半が、野川の深い渓谷に付けられた車1台分の道で、文字通りの“険道”であった。
しかしそれが前回も述べたとおり、管野と木地山の2つのダムの生命線であった。
ほぼ全線“険道”であったが、トンネルはここに見える2本だけだったのだから、おそらくこの管野ダム直下の数百メートルがイカントモシガタイ最大の難所だったのだろう。
トンネルは上流側から順に「管野第一」「管野第二」と命名され、いずれも昭和26年の完成である。
長さはそれぞれ26mと81m、高さと幅は2本とも同じで、4mと3.2mという(「道路トンネル大鑑」より)。
そして管野ダムの建設工事は、これらのトンネルを含む工事用道路の開通を待ってすぐに着工されている。
なお、「第一」の川側にはトンネルを迂回するような橋脚の列が存在しているが、これは管野ダム建設当時の骨材運搬ベルトコンベアーの橋台(基礎)だったとのことである(「山形の廃道」fuku氏調べによる)。
また、「第二」の上に山腹をうねるブル道のようなものが見えるが、これは旧道というわけではなく、長井ダム湛水を前にした山林伐採のための作業道と思われる。
上の写真はほとんど真下を向いていたが、今度は少し下流の方にカメラを傾けて撮影。
作業道路と旧県道が奥で合流しているようだが、分かりにくいので色分けしてみた(画像にカーソルを合わせてください)。
旧県道の2本のトンネルの間隔はわずか15mくらいしなく、現役当時はこの県道の“険道としての”ハイライト的な風景だった。
私もあの場所に立ってかなり興奮しながら撮影したことがあるだけに、哀しい気持ちになった。
最初よりも、もう一度あの場所に立ってみたいという気持ちが強くなってきたが、相変わらず湖の周囲には工事関係者の姿が少なくなく、湖上にも彼らを乗せたボートが浮かんでいる。
流石にいま降りていけば叱られるだろう…。
ああ… 無情。
さらにカメラを傾けて、旧県道が湖面に没していくところを撮影する。
あの水没していく辺りよりも奥は、私が前に来た平成17年9月も既に工事現場になっており、立ち入れなかった。
一度も味わうことなく、永遠の別れとなってしまった旧県道に、涙。
前回平成17年9月24日と、今回平成22年10月18日の比較写真。
県道が廃道がどうのというよりは単にダム工事の連続写真のようになっているが、ダム工事最盛期当時である平成17年の雑然とした様子から見ると、ほとんど全ての工事が完了しつつある現在は、だいぶ整った景色である。
そしてもう間もなく、元の静まりかえった山峡に戻るのだろう。
青い湖ひとつを残して。
ひとつの集落も沈まなかった長井ダムの場合、意外に早く旧道や管野ダムのことは忘れ去られてしまうかも知れない。
そんな気がする。
ダムニョキニョキ。
伐採と一度の試験湛水のため、丸裸になってしまった山腹の道は、以前に比べて何倍もよく目立っていた。
それではそろそろ…
まだ通れた時代の、管野隧道「通行レポート」をご覧頂こう。
平成17年9月24日にタイムスリップ!
2005/9/24 15:02
右の写真の撮影位置は、画像にカーソルオンして確かめて欲しい。
実はこの当時からすでに旧道は「現在地」の少し木地山側で一般車通行止めになっており、車両は(竜神大橋経由の)新県道へと迂回させられていた。
前方の山上にチラリと見えるのが、その竜神大橋である。
なのでこの探索も関係者の目を盗んで行われている。(この当時すでに旧道は工事用道路としてもほとんど使われていなかったので、立入は容易だったが)
また、当時の私の探索スタイルはいまと異なっており、自転車で駆け抜けることがメインだったので、あまり写真も撮っていなかったし細々とした観察もしていない。
以上を前提として、この先の管野ダム、管野第一、第二隧道へと探索を進めていく。
この当時、連絡路がある枝谷が野川の本流に合流するところには、(いまも地形図には描かれている)一本の吊橋が架かっていた。
もっとも、“架かっていた”とは言っても、片方の主索が外れ(外され?)、橋板が直角になっているという、世にも恐ろしい姿であった。
「この橋を渡れれば神!」なんて煽ろうと思いつつも、結局在りし日にレポート化されることはなく、平成22年現在は主塔ごと更地になってしまったようだ。
これがまだダムとして生きていた当時の管野ダムだ。
貯水は土色に汚れていたが、対岸の取水堰も下流の発電所もまだ元気に活躍していた。しかし、そんな“いぶし銀”のダムも、遙か頭上を白亜の大橋梁に抑えられてどこか居心地が悪そうに見えたし、ダム自身、己の運命を理解していたことだろう。
計画の当初は管野ダムのかさ上げも検討されたはずだが、結局より大きな計画が動き出した時点で命脈は尽きていたのだ。
私自身も頭上の竜神大橋を渡ってここに来ていただけに、この眺めでは、新旧土木のスケールの違いに驚いたものだった。
管野ダムの堤上路は旧道と平面交差しており、容易に立ち入ることができた。
入口には親柱と銘板が存在し、昭和29年竣功である旨を記していた。
また堤体前の旧道に沿って、長さは20m程度だったが、冬期に人が通るための防雪通路(人道洞門)が存在していた。
この防雪通路は取り壊されず水没するようで、現在も細長い姿を見ることが出来る。
うぷ。
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管野ダム、下流側からの旧景。
無人ではあったが、この「ダムカード」も存在していた。
そして管野第一隧道がダムの50m弱下流に、全長26mという短い穴を通していた。
なお探索当時は、木地山側の坑口から長さ15mほどの、鉄骨製覆いが伸ばされていた。
雪崩覆いではなく、直上で行われた竜神大橋の工事からの落下物を防ぐ目的の仮設物だったらしい。
同じく仮設のものとしては、坑口脇に工事車両の離合を行うための鉄製桟橋が存在していた。
これらの仮設物がまだ無い、本来の生まれたままの姿を見たことはない。
…なかった。
が、水没する現在の姿というのが…。
ご覧の通りで、坑口前の全ての仮設物が取り外された、おそらくは開通当初の姿なのである。
それは、トンネルの内巻きがそのまま坑外に伸ばされた“突出型坑門”であった。
激レアというほどではないが、平面型の坑門に比べれば圧倒的に少ないし、工事用道路のトンネルということでさほどデザインに凝ったとも思えないだけに、ここでの採用は意外である。
現在この形式は、土砂の崩落などに弱いことが知られたために、あまり使われなくなっている。
なお、扁額は存在しなかった。
そしてこれが、いまは見ることが出来ない…隧道内部。
おそらく開通当時は無かったのだろうが、
末期は鋼製のパネルに壁面のほとんどが覆われていた。
そして全長26mに過ぎない第一隧道はいいとしても、
80mを越える第二隧道も照明は無く、
狭さ(幅3.2m)と相まって、かなりの圧迫感があった。
なお、壁面下部の凹凸は、凹みの部分に鋼製の柱が見えていて、
おそらくは鋼鉄パネルの裏側にセントルを構成しているようだった。
これも当初からのものだったのかは分からない。
トンネルを出ると、すぐ目の前に第二トンネルがあった。
両トンネルの間は長さ15mほどの明かり区間であったが、ここは崖の中腹で路外には一歩も踏み出せないような場所だった。
しかもその地形の険しさゆえに道幅も洞内と同じであったため、明かり区間とは思えない圧迫感を通行者に与えていた。
この地形の険しさは、草木が全て消え失せた現状の俯瞰の方が、さらに際立って見える。
ここが豪雪地の典型的な雪崩地形ということを考えれば、道路全体を覆うスノーシェッドが真っ先に施工されるべき場面だったが、最後まで設けられることはなかった。
この道は最後まで冬期閉鎖されていたし、そもそも除雪車が通行できるような道でもなかった。
そして、冬期の唯一の通行者だった発電所関係者は、第一第二隧道を通して存在する「防雪通路」を通っていたのだ。
その外壁は、この写真にもはっきりと写っている。
明かり区間のコンクリート擁壁は、実はこの防雪通路の外壁だったのである。
もともと狭い路面を一般者は通れない“歩道”とシェアしていたのだから、車道が狭いのもやむを得なかったといえる。
管野第二隧道側から、第一隧道の南口と、脇の山腹に連なる「ベルトコンベアー橋脚跡」を振り返る。
以前はこうして緑に覆われ、橋脚の並び方を完全に確認することは出来なかった。
それがいまでは頭上から筒抜けである。
続いて、第二隧道。
全長81mと第一隧道の約3倍の長さがあったが、坑門と言えるような施工は特になく、コンクリート吹き付けの凸凹した斜面に直接釣鐘形の坑口が口を空けていた。
そして、第一隧道と同様に鋼鉄製のプレートやセントルらしき補強工が内壁を覆っていた。
そしてこの洞内には、並行して掘られている防雪通路との行き来をするための横坑が存在していた。
なぜか防雪通路が一段低く、両者の間は短い階段になっていた。
その割に水が溜まっていることはなかったが、実は洞床に排水溝があったのである。
そしてこれが、防雪通路の洞内である。
車道のトンネルの隣に、こんな怪しげな空間が存在していた。
当時からすでに“水気に満たされて”いたが、今ごろは本当の水中にあるかもしれない。
湖底の泥の中に完全に埋もれてしまうまで、この場所は水の中にあり続けるのだ…
それを考えるだけでゾクゾクするのは、私だけだろうか。
そしてトンネルを出るとここに来る。
第二隧道の南口だ。
南口坑口は北口と違ってツライチの平凡な坑門工を有していたが、特に扁額などは無く、シンプルに徹していた。
またここは車の待避所でもあり、だいぶ広くなっていたが、トンネルとは直角カーブで接続しており見通しは最悪だった。
特に標識などはないものの、おそらく警笛を鳴らしてから進行することが普通に行われたのではないだろうか。
そしてもちろんこの場所も、防雪通路共々消え去る運命である。
15:19 《現在地》
坑口を出て約30mほど進むと、道路の山側の一段高いところに、黒光りする御影石の「慰霊碑」が存在した。
「昭和二十九年四月一日建立 山形県知事」などとあったから、管野ダム建設にまつわる慰霊碑だったのだろうが、これも現在は行方が分からない。
まさか置き去りではないだろうから、新道の周囲に遷されているのだろうか。
この碑は地形図に最後まで描かれていた。
なお、この直後工事現場に遭遇したため、湛水域から撤退して探索は終わった。
そしてそれ以来、二度と歩くことは出来なかった。
しかし旧道はまだ上流側にもだいぶ続いているので、いずれ工事が落ち着いた時を見計らって、可能な限り探索してみたいと思う。
なおこれら管野第一第二隧道については、「山形の廃道」さまに、ここよりも詳細で充実したレポートがあります。
また最後になりましたが、沈みゆく旧道に最後の別れの機会を与えてくださったrinseiさま、本当にありがとうございました!
生涯忘れられない風景を見れたと思います。