隧道レポート 国道27号旧道 吉坂隧道 前編

所在地 京都府舞鶴市〜福井県高浜町
探索日 2016.10.17
公開日 2017.12.16


【位置図(マピオン)】

これから語るのは、少しだけ悲しい隧道の物語である。

舞台は、京都府と福井県の境界をなす、吉坂峠(きっさかとうげ)だ。
標高約120m。丹後・若狭国境における最低鞍部であるこの峠には、古くから両国を往来する街道(丹後街道)が通じ、若狭側の麓にあたる蒜畠(ひるばたけ)には近世を通じて関所が置かれていた。
現在は国道27号が全長343mの青葉隧道で越えている。

右図は峠周辺を描いた最新の地理院地図だ。
京都府舞鶴市と福井県大飯郡高浜町を隔てる峠の下には、国道27号の青葉隧道とJR小浜線の吉坂トンネルが描かれているほか、峠の上には旧道とみられる道も描かれている。
いかにも典型的な幹線道路上にある小さな峠の風景だ。


この峠に廃隧道の存在を疑うきっかけになったのは、「道路トンネル大鑑」(建設省土木研究所/昭和43(1968)年刊)巻末のトンネルリストであった。

右図がそのリストのうち、京都府の一般国道の分だ。
全部で13本のトンネルが記載されているが、そこには思わず二度見をしなければならなくなるような、とても不自然な内容が含まれている。

5行目と8行目が、どちらも吉坂隧道である。
それだけならば、名前の偶然の一致かとも思うが、どちらも同じ路線上(国道72号というのは、27号の盛大な誤表記だが)の同じ場所「舞鶴市字吉坂」にあることになっている。長さは倍くらい違うが、竣工年がたった1年しか違わないのも不自然だ。

…が、よく考えれば、これも無いことでは無いと気付く。
二つの吉坂隧道にはさまれて記載されている、榎隧道と旧榎隧道がそうであるように(これらは現在の五老トンネルのことだと思われるが、誤記か改名かは不明だ)、上下線で新旧のトンネルを分担するパターンが考えられた。

だが、結論から言えばそうではなかったのだ。
そもそも、舞鶴市吉坂に吉坂隧道という名の国道のトンネルは現在存在しない。JRのトンネルがこの名前であるが、国道のトンネルは青葉隧道なのである。
ならばここに記載された2本の吉坂隧道の正体は何かということになる。

2本の吉坂隧道の主なデータを抜き出してみる。

吉坂隧道 全長343.6m 幅員7.5m 高さ4.5m 竣工昭和31年 覆工あり 舗装あり

吉坂隧道 全長141.5m 幅員6.3m 高さ4.5m 竣工昭和30年 覆工あり 舗装あり

冒頭の書き出しでもう察せられているかと思うが、下の吉坂隧道が廃隧道になっている。
そして上の吉坂隧道は、現在の青葉隧道なのである。

なお、ここに廃隧道が存在することを明示する文献としては、「角川日本地名辞典(京都府)」が挙げられる。
その「吉坂(近代)」の解説に、衝撃的な次の一文がある。

昭和25年吉坂トンネルが完成したが、同28年の災害により崩壊。同44年北寄りに新トンネルが完成した。

!!! たった3年で、災害により崩壊した吉坂トンネル!!

完成年度などが「大鑑」の記述と不一致だが、とにかく現トンネルの南寄りに極めて短命(たった3年…!)であった、悲しい災害廃隧道が眠っていることが伺える。
私が生まれるよりも遙か前の土地鑑が全くない場所のことではあるけれど、当時一級国道として生まれたてだった国道27号のこんなにも縁起が良さそうな名前の峠に、かくも壮絶な廃止劇が起きていたとは……!


さっそく、現地へ行って廃隧道を探してみよう!



吉坂隧道の擬定地は、ここだ!


2016/10/17 16:01 《現在地》

ここは舞鶴市吉坂の吉坂集落だ。
こうした土地のトレードマークである緑色の逆台形、「国道情報連絡所」のやや色褪せた標識が目を惹く。
現在の青葉トンネル西口までは残り800mの地点で、海抜は約50mである。
既に国道の進路上には、古代から数多の人を越させてきた胸がすくほど明瞭な鞍部が見て取れた。
山陰と北陸を最短で結ぶ元一級国道らしく、大型車を含む自動車の交通量は非常に多いが、道もそれに見合った広幅員と良線形を与えられていた。

少し手前の松尾寺駅を自転車で出発した私は、ゆったりとした登りの心地よい抵抗感に、峠と隧道たちへの期待感を次第に昂ぶらせていた。




国境の山上に建つ松尾寺へと上る県道を左に分けて、なおも直進すると、いよいよ都市郊外の小峠らしいピンク色の看板がひしめきだした。
そしてその最後の看板の向こうに、京都府の旅を終わらせるトンネルが大口を空けて現れ始めた。
昭和31年の竣工と、見た目のイメージ以上に年期を経ている、青葉隧道の姿である。

最後のスパートをかけて、間近に迫る。




16:07 《現在地》

着いた。 青葉隧道西口(舞鶴側坑口)だ。

そして、旧隧道にあたる吉坂隧道の在処と疑われる場所が、向って右の谷の奥である。
実は事前の歴代地形図調査では、旧隧道を描いた版を見つけることが出来なかった。というか、短命すぎて一度も描かれなかったようである。
ゆえに所在地もはっきりとは分からなかったのであるが、前述した「地名辞典」の記述〜北寄りに新トンネルが完成した〜や、新旧トンネルの長さの違いと地形の関係から、この右の谷の奥は擬定地点として唯一無二の“濃い”地点といえた。



さっそくそこへ進むことにしたが、さすがに廃止から時間が経ち過ぎているせいか、元一級国道が通じていたとは思えないほど、道っぽさがない!(ちなみに、国道27号の指定は昭和27年だが、それまでは大正9年以来ずっと国道35号線であった。)

不動産屋の看板を掲げた大きな倉庫が谷の入口を半ば占領しており、その脇から恐る恐る奥へ進む。

ん? 問題の谷の奥に、砂防ダムか土留め擁壁のような、コンクリート製の分厚そうな壁が見える…。

あれが坑口の一部だとしたら大正解だが、嫌な予感の方が先行しやがる。
災害で崩壊したとされる隧道だ。地形ごとコンクリートの巨大な土留めで埋め戻されてるなんていうオチも、ありそうだから恐い。
まあ、もしそうだったとしても“らしい”気はするけれど…、出来るならやっぱり廃隧道が見たい!




倉庫の脇をすり抜けた直後、仄かな道らしいものは、完全に失われた。

その先に広がるのは、低平な谷地を埋め尽くす巨大猫じゃらしの海。
そして奥の山際には、立ちはだかるコンクリートの擁壁…。

しかし、あの擁壁が隧道の坑門だとしたら、見える高さがおかしいように思う。
地面に対して低すぎるのである。
やはりあれは単なる擁壁か。
あるいは、埋もれてしまっているのか…。
巨大猫じゃらしの高い穂に隠されているだけならいいが…。

とりあえず、自転車はここまでにしておこう。
おそらくこの隧道は通り抜けられないだろうから、戻ってくることになると思うので。
巨大猫じゃらしの海に自転車を持ち込むのも、個人的に趣味じゃナイ。



凄い密度で巨大猫じゃらしが……。
ここにヌコを放したら、どうなっちまうんだ。
遊び狂うことは、多分ナイだろう。
逆にとんでもなく小さく縮こまっちまうかもしれない。
人間の胸くらいの高さに穂があるので、ヌコなど完全に草の海に没してしまう。

また人間にとっては、ノーマルの猫じゃらしに較べて妙にチクチクするのが嬉しくない。
ひっつき虫のようにべとつかないのは救いだが、あまり漕ぎたい藪ではないのである。
しかも、この休耕田のような谷地に稲穂代わりみたく生えているから想像できると思うが、足元が全般的に泥濘んでいる。
緑の下には微妙な起伏があって、踏み誤ると一気に靴を水没させる羽目になるのだ。

足を濡らしたくなかった私は、かなり慎重に進路を選ばねばならなかった。



濡れ場を避けつつ、当面の目的地となっていた“例のコンクリート擁壁”を目指して谷地の奥へ進んでいくと、やがて巨大猫じゃらしの海を脱した。

山際には、やや草生えの薄い土地が帯状に広がっており、そこからは水が湧き出していた。
この水が谷地を潤しているのに違いなかった。
今朝雨が降ったせいも多少はあるだろうが、おそらくここは地下水脈が地表に接する土地。

……素人目にも、隧道には不向きの土地と映った。

湿地のような軟弱地盤に隧道を掘ること、そして維持することは、現代の技術を持ってしても難事なのだから。




16:13 《現在地》

坑門だ!

最初から見えていた“例の壁”は、やっぱり坑門だった!

草さえ十分に育てないほど泥濘んだ山際に、ぽつんと忘れ去られた巨大な人工物が、

草海の向こうにある現道の賑わいを、目隠しのような倉庫に視界を遮られながら、

耳(坑門)だけをそばだてて、聞き続けていた……!


今回は、こいつがたった3年しか生きられなかった隧道だと事前に知っていただけに、
普段の旧廃隧道の発見と較べても、特に感じ入るところが多かった。



でかい!

それが第一印象だ。
一級国道にかつてならば相応しかっただろう、そんな印象を与える大きな坑門。
苔生してはいたが、しっかりと形を保っているように見えた。

もっとも、湿地を避けるために正面から近づかず側撃となった今回、肝心の坑口をまだ目にしていない。
果たして、この状況で開口しているのかどうか。
湿地や、土が流れたような周辺の様子からは、全く良い印象を受けない…。

開口の有無を今すぐ飛びついて確認したいところだが、きっと見てしまえば引き返せなくなる。
抑えて、まずは周囲の観察から……。



上の写真の立ち位置から、視線を右に向けるとこの景色だ。

隧道直上は竹林化しているが、そこには隧道の土被りの薄さを心配したくなるような低地が、水なしの谷として20mほど奥まで、隧道の進行方向とほぼ重なるように存在していた。

その奥は、20mほど急激に高度を上げてから、旧道(旧々道と言うべきか)の切り通しのシルエット(この後で探索を行い確認した)が見えている。

この地点の標高は約90m。
峠の切り通しまでの比高は、最大でも30m程度だろう。
なんとも土被りに乏しい、浅い隧道といえた。
…こうした浅さも、隧道には良くない条件なのだ…。

私は嫌な予感を胸に、隧道直上の竹林の地面をさらに観察した。




陥没してるぅ!涙

これは、一番駄目なやつ……。

隧道内部の状況は、これにて「推して知るべし」である。


終わった。

こんなに分かりやすく陥没していやがるとか、マジで救いようのないほど崩れ果てたらしい、この隧道…。



陥没と坑口の位置関係。

……絶望的である。


せめて、開口はしていて欲しい!

少しでも内部に触れたいッ!



真顔になって、戻ってきた。

本来道があった場所は、明らかに凹んでいる。

そうでなければいけなかった。とりあえず埋め戻されてはいないことに、安堵。



開口を確認!





吉坂隧道、3年しか使われなかった内部へ


2016/10/17 16:17 《現在地》

吉坂隧道の開口を確認!
現国道からこの谷に分け入った当初から見えていたコンクリートの壁の正体が、まさにこの坑門だったのだ。
入口に建つ倉庫がもしなければ、現国道からも見える位置だ。

しかし、この坑口が平穏な状況にないことは一目瞭然だった。
明らかに、開口部が本来あるべきサイズよりも小さい。

そして、今回これまで全く“旧道探索”と呼べるようなシーンがなく、ただ野原を突っ切って来たようにしか見えなかったことの“異常性”とも、それは無関係ではない。
現道と旧隧道を結ぶ120mほどの旧道があるべき部分は、完全な野と化している。
そこは草に埋もれる以前の段階で、分厚い土の層によって埋め立てられていたのである。
坑口の状況を見たことで、それがはっきりした。
この旧道の埋没が、人為的な廃道化工事によるものか自然の土砂の流出によるものかはいまいちはっきりしないが、前者の可能性の方が高そうだ。

さて、いよいよ坑口に降り立つが、その前に「道路トンネル大鑑」に記載されている本隧道のデータと、「角川日本地名辞典」の記述を再記しておく。

吉坂隧道 全長141.5m 幅員6.3m 高さ4.5m 竣工昭和30年 覆工あり 舗装あり

昭和25年吉坂トンネルが完成したが、同28年の災害により崩壊。

これらの二つの記述の内容には明らかな差異があり、同一の隧道を指しているように見えないが、実際は同一である。
どれが正しく、どれが誤りかの確認は、探索後にいろいろと机上調査を行うまで判然としなかったが、探索時点では「たった3年で災害のため廃止された隧道」という理解で現場に望んでいた。
この説を重視した理由は単純で、その方が興奮できると思ったからである。

そして、探索開始からこれまでに見てきた平凡ではない状況(一面の野原や、坑門上部で発見した明瞭な陥没痕など)に、その考えはますます補強されていた。
通常の代替わりという円満な終了を見た隧道にはあまりない禍々しさのようなものが、ここには満ちている気がした。



いざ、坑口前へ



これが、吉坂隧道の舞鶴側坑口。

非常に間近で見ているせいもあるだろうが、それだけではない巨大さ、質量の大きさを感じさせる、マッシブな坑門のデザインである。
厚さ50cmを優に超えるアーチリングの表現が大迫力でとかく目を惹く。表面には古色を継承した放射模様があしらえられていた。
また、のっぺりした印象に陥りがちな広大な胸壁には、等間隔に水平の細い溝を入れることで、精悍さを演出していた。
質実剛健でありながらデザイン要素も忘れていない、まさに一級国道に相応しい外見を持った大型のコンクリートトンネル坑門だった。

ひとことで言えば格好いい! 私好みだ!

が、半身以上地中に埋没中!

元の断面が大きいだけに、なおも立って入れる大きな開口部を保っているが、
断面のおおよそ下半(断面積にすれば4分の3以上)が、土の下であった。
このかりそめの洞床がそのままの高さで外へ通じていて、少し離れると巨大猫じゃらしの野原と化す。



扁額だ!!

手が届くほど近いアーチの天端(てんば)から、分厚いアーチリングの上へと自然に視線を転ずれば、

そこにしかりと待ち受ける隧道の象徴をなす存在、立派な扁額があった! 待ってたぜ!



扁額は、黒御影の石版3枚からなっており、1枚が1文字。
それぞれの文字は、「松」「?」「洞」と判読した。
戦後間もなくの完成とされているが、左書きだ。
そして、中の1文字は即座には読めなかったものの、隧道名ではなく、関西に多数見られる嘉名を記した扁額だというのはすぐに分かった。
ここには隧道の完成を記念し、あるいは建設の偉業を永遠に顕彰すべく関係者が与えた、何か縁起の良い文字が書かれているはずだ。(なお、この手の扁額に付き物である関係者の揮毫は見られなかった)

少し考えて、真ん中の字は「籟」の字だと判断した。
「松籟(しょうらい)」とは、国語辞典によると松のこずえを吹く風の音のことで、我が国では古くから美しいものだとされてきた。松自体の縁起の良さは言うまでもない。

隧道が連絡する舞鶴も高浜も海に面した地区であり、松とは相応しい取り合わせだろう。
千古の山体を掘り抜き両区を結ぶトンネルに、閉塞を打破する風穴のイメージを重ね合わせて、そこに松風の爽やかさを込めたのかもしれない。
佳い名だ。




もう風は通らない。


【陥没】を見た時点で覚悟していたが、厳しい現実を突きつけられた。

全長141mと「大鑑」に記載されているが、実際はそれよりだいぶ遠かった(後述)高浜側の坑口は見えない。

爽やかな松の風や香りではなく、凝り固まった土気(カビ)の匂いが、鼻をついた。

坑口からも一目で分かる、完全閉塞だった。



あまりに間近に見える決定的な終端の姿に、ここから立ち入る必要があるかと自問自答し、結果ここで引き返す訪問者がいても不思議ではない。
都市近郊にある元一級国道に属する、比較的簡単に訪れられる廃隧道としては、人の立ち入った気配が薄い。
不法投棄のようなものもなければ、落書きもまるでない。
しかしだからといって「保存状態が良い」とは思えないところが、この隧道の禍々しいところだ。

分厚い土層で下半分を埋められ、上半断面の欠円アーチのみを残した短い坑道は、本来の使用期間の短さもあってか、どことなく建設途中で放棄された未成隧道のような空虚さを感じさせる。
前述のように来る人からも見放されている(ゴミなどがないのは良いことなのだが…)感じも、その印象をより強めている。

なお、洞内は開口部よりも少しだけ洞床(土の地面)が低く、天井(天端)との空頭高は2.5mから3m弱ありそうだ。



この隧道が見せてくれた、ただ一つの“使用感”。
それは、入ってすぐの天井に一つだけ残っていた、照明か電線(あるいはその両方)を取り付けていたと見られる木と金具のアタッチメントだ。

これがなければ、本当に未成隧道と区別が付かない気がする。扁額があって未成というのは稀だが、無いことではないし。
とにかく、この朽ち果てた小さな器具からは、隧道が使われていた数年の光景を、ほんの少しだけ思うことが出来た。

…昭和20年代のものであることがほぼ確定していると考えると、普段は古写真の中でしか見ることが出来ない器具ということで、交通博物誌的に多少は貴重なものだと評されてもいいかもしれないが、さすがに美しいわけでも凝った作りというわけでもないこれを高価値と宣伝するのは無理がありそう。ただの古い道の残骸としての色香を漂わせるだけの存在か。



貧弱な植生を見せる、坑口付近の“かりそめ”の洞床。
ポヨっとしたシダたちは皆、外の明りを指向して斜めに生えていた。
全体的に強い湿り気を帯びているのは、天井からの水垂れがあるわけではなく、内外の温度差と空気の停滞から来る結露のせいだった。
写真だと分かりづらいと思うが、肉眼だと地面付近が白く煙っているのがはっきり分かった。

なお、この隧道の全高は4.5mと記録されているので、今の洞床の1.5m以上は下に本来の路面があるはずだ。
その洞床は、終戦直後の地方部の国道としては珍しく、コンクリート舗装がなされていた記録がある。

おそらくだが、排水溝などの当時の埋設物と一緒に、それは今も眠っているはず。
もし掘り出せれば、昭和20年代の舗装に触れることが出来るだろうが、実行は極めて難しいだろう。しかしたった3年しか使われていないとしたら、きっと綺麗な面を保っているのだろうな…。




16:20 (入洞1分後)

短い洞内を精一杯味わいながら歩いたつもりだが、もう終わりが迫ってしまった。

探索開始からの時間は短いけれど、東京から来た道のりを思えば少しは毒突いても許されそうな短い幕引き。

が、この幕引きも平凡や平穏などとは無縁のなんとも心胆を寒からしめる実態を持って、私の歪な期待に応えてくれた。

坑口からの一瞥だけで引き返せば、この状況は理解せずに終わったかも知れない。



圧壊した天井。

昭和25年吉坂トンネルが完成したが、同28年の災害により崩壊。

…上記の一文を裏付ける、決定的な異常事態だった。

外から見ただけだと、単に天井まで土砂で埋め立てられているようにも見えるが、実際は天井の崩壊なくして
天井まで土砂がぎっしりと充填されることはあり得ない。重力の作用で自然と天井付近に隙間が出来るから。

今回は先に天井裏の陥没穴を見ていたため、この事態を予想していたのであるが、やはり駄目だったか…。
隧道の断面が大きいだけに、陥没に負けず貫通している可能性もあると思ったが、そうは問屋が卸さなかった。


いまいる辺りは天井にも滅茶苦茶に亀裂が走っていて、一見すれば今にも崩れてきそうである。
が、亀裂に沿ってコンクリート鍾乳石が成長している状況を見るに、存外に長い間このままなのだろう。
崩壊の中の絶妙なバランスで安定しているものらしい。それでも普通に長居はしたくないが…。

昭和20年代のトンネルらしく、内壁の一面に長方形の格子模様がついている。
これは打設したコンクリートが固まるまで抑えていたさね板(実板)の模様であり、トンネルの工法を見分けるバロメータの一つだ。
圧壊した部分の断面を見ても、特に鉄筋を仕込んで補強している様子もないので、寝耳に水の崩壊だった可能性が高い。



天井の崩壊は洞奥向って右側にはじめ現れたが、それで終わりではなく、すぐに左側までの全幅にわたっていた。
そのため、最初の崩壊を左側に逃げても、さほど奥へ行くことは出来ない。
素人判断ではあるが、この隧道の崩壊規模は半端じゃない!
……だからこそ、物資欠乏の時期にようやく開通させたトンネルを、むざむざ放棄せざるを得なかったのだろうし…。

なおこの閉塞地点、仮に人体より小さな器具で隙間を探ったとしても、奥の空洞(があるとして)へ通じているとは思えなかった。
空気の出入りが皆無であるし、天井を突き破って進入している土砂がとても稠密で、隙間を感じさせない。
隧道の圧壊は多くは、地表の影響を受ける土被りの浅い場所で起こるのであり、ここもその条件に該当している。
ゆえに、土被りがある程度大きくなる洞奥部は温存されている可能性が高いと思ったが、それをここから確認することは不可能だ。


16:21 《現在地》

入洞からわずか2分、奥行き約20m。入口から見えていた部分が洞内の全てであった。
振り返ると、相変わらず上半だけの窮屈そうな開口部が、白い幻想のもやを漂わせていた。
現道の喧騒もここでは分厚いカーテンの向こう。災害廃隧道の悲しみが純化したような、陰鬱な場だった。

地上へ帰還する。



外へ出て、隧道を背に歩き出す。
そして20mほど離れた辺りで振り返ると、もうこの有様だった。

半分埋もれていることと、坑口前に路面がなく一面の野原であることから、非常に坑門の全体像を掴みづらい。

残っているのは分かるのに、画像として十分に記録することが出来ないのである。これは非常に口惜しいことだ。
探索の時期を改め、多少刈払いもすれば、シンプルながら相当巨大な坑門だけに、見栄えもすると思うのだが。
しかしまあ、このような日陰じみた現状が相応しい風景だと言われれば、そんな気もする。




さらに離れて巨大猫じゃらしの野原を間に挟むと、もはや“それ”は開口している坑門のようには見えなくなる。

こうして見ると、本来の路面が完全に埋没していることが、よく分かると思う。
この一面の巨大猫じゃらし野原は、本隧道をよく見る旧道と旧隧道のセットから遠ざけ、隧道だけが孤立した奇妙な存在としている原因だ。

これはさすがに考えすぎだと思うが、大変な時代にたった3年で災害に葬られてしまった人の敗北を、周囲の目から遠ざけたいという何らかの力が働いたかのような、近いのに遠い距離感がここにはあった。




早くも敗北感漂う黄昏れた探索場。

しかし、まだ潰えた可能性は半分だ。

次回、高浜側坑口に賭ける!




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