2016/10/17 16:17 《現在地》
吉坂隧道の開口を確認!
現国道からこの谷に分け入った当初から見えていたコンクリートの壁の正体が、まさにこの坑門だったのだ。
入口に建つ倉庫がもしなければ、現国道からも見える位置だ。
しかし、この坑口が平穏な状況にないことは一目瞭然だった。
明らかに、開口部が本来あるべきサイズよりも小さい。
そして、今回これまで全く“旧道探索”と呼べるようなシーンがなく、ただ野原を突っ切って来たようにしか見えなかったことの“異常性”とも、それは無関係ではない。
現道と旧隧道を結ぶ120mほどの旧道があるべき部分は、完全な野と化している。
そこは草に埋もれる以前の段階で、分厚い土の層によって埋め立てられていたのである。
坑口の状況を見たことで、それがはっきりした。
この旧道の埋没が、人為的な廃道化工事によるものか自然の土砂の流出によるものかはいまいちはっきりしないが、前者の可能性の方が高そうだ。
さて、いよいよ坑口に降り立つが、その前に「道路トンネル大鑑」に記載されている本隧道のデータと、「角川日本地名辞典」の記述を再記しておく。
吉坂隧道 全長141.5m 幅員6.3m 高さ4.5m 竣工昭和30年 覆工あり 舗装あり
昭和25年吉坂トンネルが完成したが、同28年の災害により崩壊。
これらの二つの記述の内容には明らかな差異があり、同一の隧道を指しているように見えないが、実際は同一である。
どれが正しく、どれが誤りかの確認は、探索後にいろいろと机上調査を行うまで判然としなかったが、探索時点では「たった3年で災害のため廃止された隧道」という理解で現場に望んでいた。
この説を重視した理由は単純で、その方が興奮できると思ったからである。
そして、探索開始からこれまでに見てきた平凡ではない状況(一面の野原や、坑門上部で発見した明瞭な陥没痕など)に、その考えはますます補強されていた。
通常の代替わりという円満な終了を見た隧道にはあまりない禍々しさのようなものが、ここには満ちている気がした。
いざ、坑口前へ
これが、吉坂隧道の舞鶴側坑口。
非常に間近で見ているせいもあるだろうが、それだけではない巨大さ、質量の大きさを感じさせる、マッシブな坑門のデザインである。
厚さ50cmを優に超えるアーチリングの表現が大迫力でとかく目を惹く。表面には古色を継承した放射模様があしらえられていた。
また、のっぺりした印象に陥りがちな広大な胸壁には、等間隔に水平の細い溝を入れることで、精悍さを演出していた。
質実剛健でありながらデザイン要素も忘れていない、まさに一級国道に相応しい外見を持った大型のコンクリートトンネル坑門だった。
ひとことで言えば格好いい! 私好みだ!
が、半身以上地中に埋没中!
元の断面が大きいだけに、なおも立って入れる大きな開口部を保っているが、
断面のおおよそ下半(断面積にすれば4分の3以上)が、土の下であった。
このかりそめの洞床がそのままの高さで外へ通じていて、少し離れると巨大猫じゃらしの野原と化す。
扁額だ!!
手が届くほど近いアーチの天端(てんば)から、分厚いアーチリングの上へと自然に視線を転ずれば、
そこにしかりと待ち受ける隧道の象徴をなす存在、立派な扁額があった! 待ってたぜ!
扁額は、黒御影の石版3枚からなっており、1枚が1文字。
それぞれの文字は、「松」「?」「洞」と判読した。
戦後間もなくの完成とされているが、左書きだ。
そして、中の1文字は即座には読めなかったものの、隧道名ではなく、関西に多数見られる嘉名を記した扁額だというのはすぐに分かった。
ここには隧道の完成を記念し、あるいは建設の偉業を永遠に顕彰すべく関係者が与えた、何か縁起の良い文字が書かれているはずだ。(なお、この手の扁額に付き物である関係者の揮毫は見られなかった)
少し考えて、真ん中の字は「籟」の字だと判断した。
「松籟(しょうらい)」とは、国語辞典によると松のこずえを吹く風の音のことで、我が国では古くから美しいものだとされてきた。松自体の縁起の良さは言うまでもない。
隧道が連絡する舞鶴も高浜も海に面した地区であり、松とは相応しい取り合わせだろう。
千古の山体を掘り抜き両区を結ぶトンネルに、閉塞を打破する風穴のイメージを重ね合わせて、そこに松風の爽やかさを込めたのかもしれない。
佳い名だ。
もう風は通らない。
【陥没】を見た時点で覚悟していたが、厳しい現実を突きつけられた。
全長141mと「大鑑」に記載されているが、実際はそれよりだいぶ遠かった(後述)高浜側の坑口は見えない。
爽やかな松の風や香りではなく、凝り固まった土気(カビ)の匂いが、鼻をついた。
坑口からも一目で分かる、完全閉塞だった。
あまりに間近に見える決定的な終端の姿に、ここから立ち入る必要があるかと自問自答し、結果ここで引き返す訪問者がいても不思議ではない。
都市近郊にある元一級国道に属する、比較的簡単に訪れられる廃隧道としては、人の立ち入った気配が薄い。
不法投棄のようなものもなければ、落書きもまるでない。
しかしだからといって「保存状態が良い」とは思えないところが、この隧道の禍々しいところだ。
分厚い土層で下半分を埋められ、上半断面の欠円アーチのみを残した短い坑道は、本来の使用期間の短さもあってか、どことなく建設途中で放棄された未成隧道のような空虚さを感じさせる。
前述のように来る人からも見放されている(ゴミなどがないのは良いことなのだが…)感じも、その印象をより強めている。
なお、洞内は開口部よりも少しだけ洞床(土の地面)が低く、天井(天端)との空頭高は2.5mから3m弱ありそうだ。
この隧道が見せてくれた、ただ一つの“使用感”。
それは、入ってすぐの天井に一つだけ残っていた、照明か電線(あるいはその両方)を取り付けていたと見られる木と金具のアタッチメントだ。
これがなければ、本当に未成隧道と区別が付かない気がする。扁額があって未成というのは稀だが、無いことではないし。
とにかく、この朽ち果てた小さな器具からは、隧道が使われていた数年の光景を、ほんの少しだけ思うことが出来た。
…昭和20年代のものであることがほぼ確定していると考えると、普段は古写真の中でしか見ることが出来ない器具ということで、交通博物誌的に多少は貴重なものだと評されてもいいかもしれないが、さすがに美しいわけでも凝った作りというわけでもないこれを高価値と宣伝するのは無理がありそう。ただの古い道の残骸としての色香を漂わせるだけの存在か。
貧弱な植生を見せる、坑口付近の“かりそめ”の洞床。
ポヨっとしたシダたちは皆、外の明りを指向して斜めに生えていた。
全体的に強い湿り気を帯びているのは、天井からの水垂れがあるわけではなく、内外の温度差と空気の停滞から来る結露のせいだった。
写真だと分かりづらいと思うが、肉眼だと地面付近が白く煙っているのがはっきり分かった。
なお、この隧道の全高は4.5mと記録されているので、今の洞床の1.5m以上は下に本来の路面があるはずだ。
その洞床は、終戦直後の地方部の国道としては珍しく、コンクリート舗装がなされていた記録がある。
おそらくだが、排水溝などの当時の埋設物と一緒に、それは今も眠っているはず。
もし掘り出せれば、昭和20年代の舗装に触れることが出来るだろうが、実行は極めて難しいだろう。しかしたった3年しか使われていないとしたら、きっと綺麗な面を保っているのだろうな…。
16:20 (入洞1分後)
短い洞内を精一杯味わいながら歩いたつもりだが、もう終わりが迫ってしまった。
探索開始からの時間は短いけれど、東京から来た道のりを思えば少しは毒突いても許されそうな短い幕引き。
が、この幕引きも平凡や平穏などとは無縁のなんとも心胆を寒からしめる実態を持って、私の歪な期待に応えてくれた。
坑口からの一瞥だけで引き返せば、この状況は理解せずに終わったかも知れない。
圧壊した天井。
昭和25年吉坂トンネルが完成したが、同28年の災害により崩壊。
…上記の一文を裏付ける、決定的な異常事態だった。
外から見ただけだと、単に天井まで土砂で埋め立てられているようにも見えるが、実際は天井の崩壊なくして
天井まで土砂がぎっしりと充填されることはあり得ない。重力の作用で自然と天井付近に隙間が出来るから。
今回は先に天井裏の陥没穴を見ていたため、この事態を予想していたのであるが、やはり駄目だったか…。
隧道の断面が大きいだけに、陥没に負けず貫通している可能性もあると思ったが、そうは問屋が卸さなかった。
いまいる辺りは天井にも滅茶苦茶に亀裂が走っていて、一見すれば今にも崩れてきそうである。
が、亀裂に沿ってコンクリート鍾乳石が成長している状況を見るに、存外に長い間このままなのだろう。
崩壊の中の絶妙なバランスで安定しているものらしい。それでも普通に長居はしたくないが…。
昭和20年代のトンネルらしく、内壁の一面に長方形の格子模様がついている。
これは打設したコンクリートが固まるまで抑えていたさね板(実板)の模様であり、トンネルの工法を見分けるバロメータの一つだ。
圧壊した部分の断面を見ても、特に鉄筋を仕込んで補強している様子もないので、寝耳に水の崩壊だった可能性が高い。
天井の崩壊は洞奥向って右側にはじめ現れたが、それで終わりではなく、すぐに左側までの全幅にわたっていた。
そのため、最初の崩壊を左側に逃げても、さほど奥へ行くことは出来ない。
素人判断ではあるが、この隧道の崩壊規模は半端じゃない!
……だからこそ、物資欠乏の時期にようやく開通させたトンネルを、むざむざ放棄せざるを得なかったのだろうし…。
なおこの閉塞地点、仮に人体より小さな器具で隙間を探ったとしても、奥の空洞(があるとして)へ通じているとは思えなかった。
空気の出入りが皆無であるし、天井を突き破って進入している土砂がとても稠密で、隙間を感じさせない。
隧道の圧壊は多くは、地表の影響を受ける土被りの浅い場所で起こるのであり、ここもその条件に該当している。
ゆえに、土被りがある程度大きくなる洞奥部は温存されている可能性が高いと思ったが、それをここから確認することは不可能だ。
16:21 《現在地》
入洞からわずか2分、奥行き約20m。入口から見えていた部分が洞内の全てであった。
振り返ると、相変わらず上半だけの窮屈そうな開口部が、白い幻想のもやを漂わせていた。
現道の喧騒もここでは分厚いカーテンの向こう。災害廃隧道の悲しみが純化したような、陰鬱な場だった。
地上へ帰還する。
外へ出て、隧道を背に歩き出す。
そして20mほど離れた辺りで振り返ると、もうこの有様だった。
半分埋もれていることと、坑口前に路面がなく一面の野原であることから、非常に坑門の全体像を掴みづらい。
残っているのは分かるのに、画像として十分に記録することが出来ないのである。これは非常に口惜しいことだ。
探索の時期を改め、多少刈払いもすれば、シンプルながら相当巨大な坑門だけに、見栄えもすると思うのだが。
しかしまあ、このような日陰じみた現状が相応しい風景だと言われれば、そんな気もする。
さらに離れて巨大猫じゃらしの野原を間に挟むと、もはや“それ”は開口している坑門のようには見えなくなる。
こうして見ると、本来の路面が完全に埋没していることが、よく分かると思う。
この一面の巨大猫じゃらし野原は、本隧道をよく見る旧道と旧隧道のセットから遠ざけ、隧道だけが孤立した奇妙な存在としている原因だ。
これはさすがに考えすぎだと思うが、大変な時代にたった3年で災害に葬られてしまった人の敗北を、周囲の目から遠ざけたいという何らかの力が働いたかのような、近いのに遠い距離感がここにはあった。
早くも敗北感漂う黄昏れた探索場。
しかし、まだ潰えた可能性は半分だ。
次回、高浜側坑口に賭ける!