まだもったいぶるかと叱られそうだが、やはり旧口野隧道より先に、“正史”に語られているルート「江ノ浦・四日町往還」を紹介しなければなるまい。
このルートは二度に分けて工事が行われており、図中濃い緑で示した「口野切り通し」を含む区間(韮山村江間〜静浦村口野)は、明治35年に着工し翌36年に竣工した(『静浦村誌』、ただし『江間村沿革史』によれば35年竣工)。
そして図中ライム色の部分、「御場」と「旧多比第二」の2隧道を含む区間(静浦村口野〜多比)は明治39年に着工、翌40年の開通で、これで「江ノ浦・四日町往還」は全線竣工となった。
この開通を受けて、沼津町〜静浦村江ノ浦間で既に開通していた「沼津・静浦往還」と連結され、新たに一本の“第一類道路”(原文にある表現で、おそらく県道のこと)「沼津・四日町往還」となった。
この道は、当時韮山地区から盛んに産出されていた伊豆石の多比港や口野港への運び出しおよび、沼津御用邸と韮山や修善寺方面を結ぶ行幸路、一般観光道路として人口によく膾炙し、以後昭和42年に口野トンネルが狩野川放水路脇に開通するまで六十数年のあいだ、県道としての重責を全うしたのである。
多比側から、このルートを辿ってみよう。
2008/2/4
この探索は、このエリアの最初の訪問時に行われた。(が、一部写真は二回目の探索のものを使っている)
前半の「旧多比第二隧道」「御場隧道」に関しては、“隧道の辻”の第1回・第2回に紹介した通りであるから、簡単に復習するに留めたい。
まずは、上の地図で「現在地」と記入した分岐地点からだ。
この名も無き静かな三叉路を、左に行くのが「旧口野隧道」への“初代ルート”。
右が“正史”に登場する「沼津・四日町往還」であり、後の「主要地方道沼津土肥線」である。
昭和39年に平行する「多比第二トンネル」が開通して旧道となり、現道の方は同56年に国道414号への昇格を果たしている。
右折するとすぐに現れる旧多比第二隧道。(静浦村誌では「第4トンネル」)
明治40年の竣工と目される全長108mの古隧道だが、前にも紹介したとおり、歩道トンネルとして第二の人生を送っている。
同隧道の東口。
現「多比第二トンネル」とは洞内接合になっていて、もともとはここに坑門が並んでいたのだろうが、歩道改修時に坑門を20mほど延伸したようだ。
トンネルを出るとすぐに狩野川放水路を渡るが、この放水路は戦後に開通したもので、本来は静かな入り江があったという。
明治時代の往還ルートは、慌ただしくクルマが行き交うこの「口野放水路交差点」にて、先客としての矜持を見せるかのように直進の栄誉を誇っている。
すなわち、左折が国道414号(口野トンネル)、右折が主要地方道「沼津土肥線」、直進がその両者の旧道である「沼津・四日町往還」(今は市道)だ。
歴史を知ってから直進すると、なんだか妙なカタルシスを覚えた(笑)。
御場隧道(別名は「第5トンネル」)である。
コンクリートでみっちり覆われた外見に似合わず、これまた本初は明治40年の竣工で、全長は35m(おそらく今も変わらない)。
昭和42年に口野トンネルが開通した後も、現在の海側のバイパスが出来るまで(年度は不明)主要地方道沼津土肥線として利用されてきた。
それだけに、他の一連の明治隧道よりもあたま一つ抜きんでてよく整備されている。
《現在地》
御場隧道の出口は鋭角な左カーブで、曲がるとすぐに分岐する。
右が主要地方道沼津土肥線の旧道であり、左が「沼津・四日町往還」(昭和に入ってからも別の県道名が与えられていたはずだが、今のところ判明しない)である。
ともに1.5車線で広くないが、かつて伊豆の玄関口として相並ぶ重要路線だった。
素朴な疑問として、右の道から左の道へ曲がるとか、その逆はどうしていたのだろう。大型車など何度切り返しても曲がれないと思うが…。
ここを左折して、「口野切通し」へ登っていく。
ここからは、初紹介の区間だ。
08/2/4 10:07
“落石の恐れあり
この先通り抜けできません
沼津市”
いざ左の道へ進もうとしたところ、こんな看板があるのに気付いた。
しかし、ペンキの色あせがひどくて、ほとんどの通行人は目に留めていないだろう。
果たしてこの看板が言うように、通り抜けできない状況になっているのだろうか。
もしかして、この道も廃道なのか。
思いがけぬ看板に、体温が1℃上昇。
分岐地点を振り返ったとき、通ってきたばかりの分岐の“カタチ”に、胸がときめいた。
多くのオブローダーは共感してくれると思うが、私はこういった古い道の線形が大好きである。
仮に路幅や道路上の諸設備が全く現代風に一新されていたとしても、古い道の古い規格で造られた道は、このような土地の自由度の低い場所では必ずボロを出す。
主要道路同士の交差・分岐の線形として、もう今後“こんな危険なカタチ”が採用されることはないだろう。
カーブ、勾配、路幅、トンネルの位置、それらの複合から来る見通し(視距)の悪さ、 …全てが良い具合に古びている。
道は早速、峠の切り通し目指して山腹をなぞるように登りはじめる。
初めのうちは崖にへばり付くように民家もあるが、間もなく石切場の跡が怪しげな穴を頭上にいくつも晒すようになる。
さらに行くと、そんな穴のひとつが厳重に塞がれ、今も管理されているのに出会った。
路傍からアクセス出来る穴はひとつではなく、何箇所もある。
いずれも容易に立ち入れないように塞がれているが、ムリをすれば入れそうなものもなくはない。
しかし、この種の穴はそれこそあるところには無数にあるもので、ひとつずつ確かめていてはきりがないので先を急いだ。
写真は、そんな穴のうちのひとつ。
まるで牢獄のような鉄格子窓の向こうを、ちょっと覗いてみた。
近くにはセコムのシールが睨みを利かせている。
峠までの高低差は30mもない。
チャリでも徒歩でも非常に楽な峠だが、それでも切り通しが出来る前には「塩久津坂」と呼ばれる、牛馬も通れぬ険路であったという。
その道は、おそらく現在のように山腹を蛇行するものではなくて、谷の奥から一挙に稜線上へ登り詰めるものだったのだろう。
11:07
分岐から約300mで口野切通し(峠)の西口へ到着。
ここは右折する道が2本ある複合T字路になっており、一本が塩久津坂(車は通れない)、もう一本は新しい市道で生活道路である。
直進する道は、強烈な逆光の向こうに最初、隧道のように見えていた。
だが、目が慣れるに従って、それは屋根のない隧道… 切通し道(掘り割り)であることが分かった。
むしろ、隧道であった方が自然に思えるような深い切通しだ。
路幅が狭いだけに(おそらく明治の頃とそう変わらないのでは)、余計その深さが際立って見える。
それに、両側の崖は未だ地肌のままで、変化に富んだ表情を見せている。
ちなみに、分岐で予告されていた「通り抜けできません」は、その後音沙汰ナシだ。
現に今も、この切り通しから軽自動車が勢いよく飛び出してきた。
こんなナリだが、問題なく通り抜けは出来るようだ。
それでは、私もいざこの隙間に、にゅるり。