旧口野隧道  第1回

所在地 静岡県沼津市〜伊豆の国市
探索日 2008.2.26
公開日 2008.4 .4

当レポートが最後に辿り着く結論は、事実と異なる誤説です。
正しい事実をお知りになりたい方は、「おぶろぐ!(2010/1/22エントリ)」をご覧下さい。
一応レポートを最後まで読まれてから確認された方が、分かり易いかと思いますが…。
2010/1/22 追記

 上の3枚の地形図は、同じ場所を示している。 【周辺地図】

 明治、戦後間もなく、そして現在─。
この一世紀のうちに地上を席巻した人間の土木力は、その動線としての道路のみならず、川の流れや海の形、地形そのものまで大規模に改変してきた。
そんなことをありありと見せつける、僅か3キロ四方の地図である。

 この中に、明治時代には既にありながら、戦後間もなく地図から消滅した、“足の速い”隧道が描かれている。
仮にこれを、平行位置にある現在の国道414号口野トンネルの旧トンネルと比定し、「旧口野隧道」と名付ける。




 3枚の地図を一枚に重ねてみた。
そして浮かび上がるルートの変遷。

 『静浦村誌』や『江間村沿革史』において、図中で緑のラインとしてその一部を示した「江ノ浦・四日町往還」(江ノ浦〜韮山)の開削については、明治維新後の重要な道路の改良と位置づけて紙幅を割いているのだが、地形図にはそれ以前からあったように書かれている「旧口野隧道」のルートに関しては不自然なほど全く触れていない。

 結局、机上調査では旧口野隧道について何も知ることは出来なかったが、そもそも本隧道は私が地形図から独自に見つけ出したものではなかった。

 当サイトで“隧道の辻”のレポート(3回目まで)を公開した直後に、お馴染み『廃線隧道のホームページ』しろ氏から、「明治の地形図には(旧口野)隧道が描かれていて、実際に探索したことがある」という、何とも衝撃的なメールが送られてきたのだった。
このとき、しろ氏から託された情報は、大体次のようなものだった。

 し… しろさん! いつもありがとうございます!!!




 明治の新道 “口野切通し” 

 まずは、二代目ルートを確認 (2月4日の探索より)


 まだもったいぶるかと叱られそうだが、やはり旧口野隧道より先に、“正史”に語られているルート「江ノ浦・四日町往還」を紹介しなければなるまい。

 このルートは二度に分けて工事が行われており、図中濃い緑で示した「口野切り通し」を含む区間(韮山村江間〜静浦村口野)は、明治35年に着工し翌36年に竣工した(『静浦村誌』、ただし『江間村沿革史』によれば35年竣工)。
 そして図中ライム色の部分、「御場」と「旧多比第二」の2隧道を含む区間(静浦村口野〜多比)は明治39年に着工、翌40年の開通で、これで「江ノ浦・四日町往還」は全線竣工となった。
この開通を受けて、沼津町〜静浦村江ノ浦間で既に開通していた「沼津・静浦往還」と連結され、新たに一本の“第一類道路”(原文にある表現で、おそらく県道のこと)「沼津・四日町往還」となった。

 この道は、当時韮山地区から盛んに産出されていた伊豆石の多比港や口野港への運び出しおよび、沼津御用邸と韮山や修善寺方面を結ぶ行幸路、一般観光道路として人口によく膾炙し、以後昭和42年に口野トンネルが狩野川放水路脇に開通するまで六十数年のあいだ、県道としての重責を全うしたのである。

 多比側から、このルートを辿ってみよう。




2008/2/4

 この探索は、このエリアの最初の訪問時に行われた。(が、一部写真は二回目の探索のものを使っている)
前半の「旧多比第二隧道」「御場隧道」に関しては、“隧道の辻”の第1回第2回に紹介した通りであるから、簡単に復習するに留めたい。

 まずは、上の地図で「現在地」と記入した分岐地点からだ。
この名も無き静かな三叉路を、左に行くのが「旧口野隧道」への“初代ルート”。
右が“正史”に登場する「沼津・四日町往還」であり、後の「主要地方道沼津土肥線」である。
昭和39年に平行する「多比第二トンネル」が開通して旧道となり、現道の方は同56年に国道414号への昇格を果たしている。




 右折するとすぐに現れる旧多比第二隧道。(静浦村誌では「第4トンネル」)
明治40年の竣工と目される全長108mの古隧道だが、前にも紹介したとおり、歩道トンネルとして第二の人生を送っている。



 同隧道の東口。
現「多比第二トンネル」とは洞内接合になっていて、もともとはここに坑門が並んでいたのだろうが、歩道改修時に坑門を20mほど延伸したようだ。



 トンネルを出るとすぐに狩野川放水路を渡るが、この放水路は戦後に開通したもので、本来は静かな入り江があったという。
明治時代の往還ルートは、慌ただしくクルマが行き交うこの「口野放水路交差点」にて、先客としての矜持を見せるかのように直進の栄誉を誇っている。
すなわち、左折が国道414号(口野トンネル)、右折が主要地方道「沼津土肥線」、直進がその両者の旧道である「沼津・四日町往還」(今は市道)だ。

 歴史を知ってから直進すると、なんだか妙なカタルシスを覚えた(笑)。



 御場隧道(別名は「第5トンネル」)である。
コンクリートでみっちり覆われた外見に似合わず、これまた本初は明治40年の竣工で、全長は35m(おそらく今も変わらない)。
昭和42年に口野トンネルが開通した後も、現在の海側のバイパスが出来るまで(年度は不明)主要地方道沼津土肥線として利用されてきた。
それだけに、他の一連の明治隧道よりもあたま一つ抜きんでてよく整備されている。




《現在地》

 御場隧道の出口は鋭角な左カーブで、曲がるとすぐに分岐する。
右が主要地方道沼津土肥線の旧道であり、左が「沼津・四日町往還」(昭和に入ってからも別の県道名が与えられていたはずだが、今のところ判明しない)である。

 ともに1.5車線で広くないが、かつて伊豆の玄関口として相並ぶ重要路線だった。
素朴な疑問として、右の道から左の道へ曲がるとか、その逆はどうしていたのだろう。大型車など何度切り返しても曲がれないと思うが…。

 ここを左折して、「口野切通し」へ登っていく。
ここからは、初紹介の区間だ。






08/2/4 10:07

 “落石の恐れあり
この先通り抜けできません
        沼津市”

 いざ左の道へ進もうとしたところ、こんな看板があるのに気付いた。
しかし、ペンキの色あせがひどくて、ほとんどの通行人は目に留めていないだろう。
果たしてこの看板が言うように、通り抜けできない状況になっているのだろうか。
もしかして、この道も廃道なのか。
思いがけぬ看板に、体温が1℃上昇。




 分岐地点を振り返ったとき、通ってきたばかりの分岐の“カタチ”に、胸がときめいた。
多くのオブローダーは共感してくれると思うが、私はこういった古い道の線形が大好きである。
仮に路幅や道路上の諸設備が全く現代風に一新されていたとしても、古い道の古い規格で造られた道は、このような土地の自由度の低い場所では必ずボロを出す。
主要道路同士の交差・分岐の線形として、もう今後“こんな危険なカタチ”が採用されることはないだろう。
カーブ、勾配、路幅、トンネルの位置、それらの複合から来る見通し(視距)の悪さ、 …全てが良い具合に古びている。




 道は早速、峠の切り通し目指して山腹をなぞるように登りはじめる。
初めのうちは崖にへばり付くように民家もあるが、間もなく石切場の跡が怪しげな穴を頭上にいくつも晒すようになる。

 さらに行くと、そんな穴のひとつが厳重に塞がれ、今も管理されているのに出会った。



 路傍からアクセス出来る穴はひとつではなく、何箇所もある。
いずれも容易に立ち入れないように塞がれているが、ムリをすれば入れそうなものもなくはない。
しかし、この種の穴はそれこそあるところには無数にあるもので、ひとつずつ確かめていてはきりがないので先を急いだ。

 写真は、そんな穴のうちのひとつ。
まるで牢獄のような鉄格子窓の向こうを、ちょっと覗いてみた。
近くにはセコムのシールが睨みを利かせている。




 峠までの高低差は30mもない。
チャリでも徒歩でも非常に楽な峠だが、それでも切り通しが出来る前には「塩久津坂」と呼ばれる、牛馬も通れぬ険路であったという。
その道は、おそらく現在のように山腹を蛇行するものではなくて、谷の奥から一挙に稜線上へ登り詰めるものだったのだろう。




11:07
 分岐から約300mで口野切通し(峠)の西口へ到着。

ここは右折する道が2本ある複合T字路になっており、一本が塩久津坂(車は通れない)、もう一本は新しい市道で生活道路である。
直進する道は、強烈な逆光の向こうに最初、隧道のように見えていた。




 だが、目が慣れるに従って、それは屋根のない隧道… 切通し道(掘り割り)であることが分かった。
むしろ、隧道であった方が自然に思えるような深い切通しだ。
路幅が狭いだけに(おそらく明治の頃とそう変わらないのでは)、余計その深さが際立って見える。
それに、両側の崖は未だ地肌のままで、変化に富んだ表情を見せている。

 ちなみに、分岐で予告されていた「通り抜けできません」は、その後音沙汰ナシだ。
現に今も、この切り通しから軽自動車が勢いよく飛び出してきた。
こんなナリだが、問題なく通り抜けは出来るようだ。

 それでは、私もいざこの隙間に、にゅるり。




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 開鑿すること拾余丈 (2月4日の探索より)


 入口から鬱々とした感じの切り通しだが、入るとすぐに左カーブになっている。
カーブミラーなどという便利なものが出来たのはもちろん戦後で、それ以前はどうやって対向車の存在を窺っていたものか。
軽乗用車同士でも離合は難しい路幅である。

 ちなみに、このカーブのあたりが昔からの行政界で、道が切り開かれた当時は駿東郡静浦村と、田方郡江間村の境であった。
昭和の大半は沼津市と伊豆長岡町の境となり、平成の現在は沼津市と「伊豆の国市」が接している。
海岸線から僅か400mほどの位置にある、高さ30m足らずの峠だが、昭和42年までは交通輻輳の地であった。






左カーブの先が、最も切り通しの深い、いわばハイライト。

前日まで雨だったせいか、或いは普段もそうなのか分からないが、
とにかく湿っている。

両側の高いした崖からは常に水滴が落ちていて、
ほとんど差し込まない日光に、濡れた岩場が黒光りしている。
そして、異様に彫りの深い表面のゴツゴツを際立たせる。

思わず、言葉を失う……濃密な道路風景

オマケの縦アングル写真




 あんぐり口を開いて見上げる岸壁の上。

垂直の壁は高く、落ちてくる水が顔にも当たりそう。

『江間村沿革史』は、この切り通しについて次のように書いている。

塩久津坂を開鑿すること拾余丈、屈折迂回の場所無く道路平坦距離の短縮する数町、馬車の便大いに開けたり。

 このなかで、“拾余丈”というのは、1丈=3.03mであるから、…なんと30m以上も峠を切り下げて道を造ったことになる。
これは、当時の人力掘削を思えば大変な事である。それこそ、隧道の方が掘削量は相当に削減できたと思われるのだが、敢えて切通しにしたのにはどんな訳があったのだろう。
しかしともかく、この切通しは「口野切通し」と呼ばれ、明治35年10月に開通している。(静浦村誌には36年とあるが)




 「通り抜け出来ません」などという脅し文句も何の事やら、岩の隙間のような道を地元のクルマはぶっ飛ばしてくる。
離合など出来ない訳だから、できるだけ早く掘り割りを抜けてしまわねばならないのだろう。
無論、カーブミラーなんて遠くからは見えないので、掘り割りの中で対向車と鉢合わせになることもあるだろう。




 掘り割りの東口付近から、望遠で振り返って撮影。

昼なお暗い掘り割り道。
街灯ひとつ無いのは、生活道路としてもちょっと異様な感じ。
もっとも、現状の雰囲気はオブ的視点からはkou-insho!!
末永くこうあって欲しいものだ。




 ピークを越えた掘り割りは、下りの勾配を増しながら、それ以上のペースで両側の法面の高さを減じていく。
幾分路幅は広くなって乗用車同士くらいなら離合できるようになるが、ほとんど踏まれた形跡がないのは、さほどの通行量ではないということか。




 切通しの頂点から現国道との合流地点までは300mほど。
全体的に緩い下り坂である。
一漕ぎもしなくても、日陰から陽の射すキモチノヨイ所へ出て行ける。
そして、国道合流の直前、この旧道に向かって正門を開く西洋風のお城がある。

 陽の光を満面に浴びて妙に爽やかに見えるのは、掘り割りを抜けてきた者として素直な感想ですが、これはもちろんラブホ。




 ラブホの利用者が、旧道へ出て来たとき目にする案内看板。

「← ウラ出口」 って(笑)

確かに人目を憚る逢い引きなればこそ、表の国道へ堂々と出る訳に行かないこともあるだろう。
そんなとき旧道を使えば、あの岩の割れ目のような道を通ってから、一般の生活交通とも良い具合に混ざりあって、「口野放水路交差点」に抜ける事が出来るのだから、これは便利かも知れない。




11:19 《現在地》

 今ひとつ分かりづらい写真で恐縮だが、ここが国道414号との交差点である。
画面を横切るように国道が通っていて、それは狩野川放水路に沿っている。
で、昭和26年の放水路着工以前には、ここに国道はもちろん無くて、ただこの道が真っ直ぐ田んぼの中へ続いていた。
対岸には、ちゃんとこの道の続きがあって、県道134号「静浦港韮山停車場線」になっている。
この路線名から連想される起点と終点は、まさに明治の「江ノ浦・四日町往還」と完全に一致する。(そもそも、静浦という行政上の地名は既に存在していない)




 韮山側から沼津方向を振り返って撮影。

破線の道は、狩野川放水路によって地表ごと消えてしまった部分。
色分けは、水色=国道、緑=旧道、赤=初代ルート。
放水路建設以前、旧道(沼津・四日町往還)と初代ルートとの追分がこの辺りにあった筈だが、跡地も無い。

 




 だが、初代ルートが「旧口野隧道」を穿っていたとされる谷筋は、今も対岸に健在である。
そこには白煙を吐く工場が陣取っているようだが、今の地形図にも点線の道は描かれていて、もしかしたら“未確認”の韮山側坑口が眠っているかも知れない。

 まだ見ぬ明治隧道を求め、

次回からようやく、表題の探索を開始する。