それは、現在の岩泉町門(かど)地区にあった小川鉱山の経営者達が企図したもので、東北鉄道鉱業線と言った。
計画によればその経路は、小川鉱山から北西の国境峠を越え、その先は葛巻町内を馬淵川に沿って北西に進路を取り続け、最後は一戸町の小鳥谷(こずや)で東北本線に接続するもの。
また、小川鉱山は終点ではなく、さらに岩泉町内を東進し太平洋岸の小本(おもと)にあった茂師港までも計画されていたし、さらには現在のJR岩泉線の経路を通って茂市(もいち)へと進む支線まで予定されていたと言うから、一鉱山が計画した路線としては甚だ大がかりなものであった。
土地勘のない方には地名だけ羅列されてもちんぷんかんぷんだと思うので大ざっぱに言えば、今述べた路線を全て建設すれば、総延長は120kmを超える。
さらに、この長大な鉄道計画は絵空事で終わらず、大正15年11月4日には小鳥谷駅にて盛大な起工式が催されている。
第一期工事として小鳥谷〜門の50キロあまりが着工され、昭和4年には、最も工事が進捗していた小鳥谷〜葛巻の24km中、約10kmほどの路盤工事が終わっていたという。
しかし、現在この鉄道は存在しないし、開業したという記録もない。
昭和4年からまもなく資金繰りに行き詰まりはじめ、その後の増資計画も不調に終わり、工事は凍結。
さらに、鉱石搬出の手段として茂市までの索道が完工すると同時に、正式に鉄道計画は破棄されたのだった。
県土横断鉄道の夢は破れ、沿線となるはずだった各地に、微かな痕跡だけが残された。
(以上、「いちのへの駅」 ならびに、「全国鉄道廃線跡を歩く]」(JTBキャンブックス刊)参照)
いくつか、開通した隧道もあったらしい!
前出の「鉄道廃線跡を歩く]」によれば、小鳥谷〜葛巻〜門の間には、いくつかの隧道が実際に掘られていたらしい。
その現状を把握するべく、私が初めてこの地を訪れたのは、2005年4月のある日のことであった。
そして、第一次探索として葛巻から馬淵川沿いの未成線跡を捜索しながら、小鳥谷まで走り抜けた。
しかし、工事凍結から76年を経過した遺構は極めて不鮮明な箇所が多く、そもそも、全線が実際に建設されていたわけでもないために、県道をチャリで走りながらの目視主体の調査では、十分な成果を得るには至らなかった。
現在は、更なる机上調査や、より鉄道探索に秀でた同志たちの活動に何かを期待しながら“待ち”をしている状況である(2005年6月現在)。
というわけで、おそらく今後も山行がで幾度も出てくることになるだろう「東北鉄道鉱業線」のとっかかりは宜しいでしょうか?
序文だけでは皆様もさぞ退屈だと思うので、
第一次探索で、一応、探索を完了したと思える、数少ない、隧道の遺構を、お見せしよう。
それが、岩上隧道である。
初めて走る葛巻町の沿道には、何とものどかな山村風景が、飽きるだけ続いていた。
主要地方道24号線(一戸葛巻線)を、終点である国道281号線分岐の田代地区から、蛇行する馬淵川に沿って北上する。
集落と小さな山峡とを繰り返しつつ10kmほどで、東北鉄道鉱業線由来の数少ない隧道が残る、岩上地区となる。
ここは、一際大きく川が蛇行している場所で、この大蛇行を県道は丁寧に川岸に進路を求めているものの、鉄道は川と山とを、串刺しにして突き進むつもりであったようだ。
そして、ここに掘られた岩上隧道は、実際に貫通までこぎ着け、近年まで貫通さえしていたという。
今では片方の坑口は埋め戻されてしまったらしいが、これは気になる!
というわけで、ここを探索してみる。
県道は対岸に岩上の数軒の廃屋を見ながら進み(どうやら、岩上集落の民家は全て対岸にあったらしく、いまは廃村なのかもしれません)、まもなく岩上橋で馬淵川を渡る。
その100mほど手前で、対岸の土手に小さな穴が開いているのが見える。
これこそが、岩上隧道の姿である。
写真では、川が写っていないが、手前の草地と奥の草地を隔てる木の生えている窪地が、馬淵川である。
この景色からすると、岩上隧道をくぐった鉄路は直ぐに、馬淵川を渡る計画だったと思われるが、両岸ともただ草地が広がるばかりで、橋の痕跡はない。
カメラのズームを使って、坑口を撮影。
「鉄道廃線跡を歩く]」は、この岩上隧道について「洞窟みたいな」と評しつつも、「全長67.2m」と具体的な数字を示している。
また、土地の古老が、子供の頃には通り抜けられたなどと語った話も、記載されている。
なるほど、
…たしかに、洞窟みたいだな。
廃線跡ではなくて、ここは未成線跡。
ただの一度も、鉄道が通らなかった隧道なのだ。
貫通しているとはいえ、本当に完成していたのかさえ、怪しい。
現地を訪れてみると分かるが、本当にこの岩上隧道は、何もない対岸にぽっかりと、口を開けて見える。
私も、どのように辿り着けばいいのか、しばし逡巡したほどである。
川は、水量が豊富で、徒渉することもままならない。
かといって、坑口と県道の岩上橋との間の岸辺は切り立っており、へつって歩くことも難しい。
私は現地でなかなか悩まされたのだが、結論から言えば、ちゃんと利用できる道は存在しており、これを使えば容易に接近できる。
右の図を確認していただきたい。
坑口の上の斜面沿いに、砂利の林道が岩上集落まで通じており、さらに、図中に「廃屋」と示した茅葺き屋根の民家跡への歩行路が、林道から分かれて坑口傍に通じているのだ。
では、実際に接近してみよう。
斜面の下に県道の岩上橋を見おろしつつ、よく締まった林道を200mほど歩く。
そして、かなり分かりづらいものの、右に分かれる歩行路がある。
右の写真の辺りだったと思う。
川岸の斜面は急で、春なれば木々の枝を通して対岸の景色がよく見える。
はたして、岩上隧道を通り抜けた鉄路は、この足元で川を渡って、その先はどのように進むつもりだったのか?
対岸は、緩やかな丘陵状の山となっており、県道がそうしているように緩やかに迂回するつもりだったのだろうか?
或いは、ここにも隧道を掘削するつもりだったの?
手探りで捜索するには、あまりにも範囲が広く、現時点では手つかずである。
しかし、まだまだ未知の隧道に遭遇できる可能性が少なからずあるのが、この東北鉄道鉱業線だと思っている。
歩行路は、ゆくてが廃墟だけなのだから当然だが、廃道である。
まもなく、路肩が石垣の場所に差し掛かる。
道が枯れ葉の斜面で道全体が斜めに傾斜しており、いまにも滑り落ちそうで、少しだけひやりとする。
そそてここが、坑門の直上である。
しかし、石垣が坑門に関係した構造であるかは、私は疑わしいと思っている。
むしろ、坑口がここに口を開けてから、たまたま歩道がここを通り、その時に石垣が設けられたのかも。
なんて言うか、鉄道の坑門にしようという石垣にしては、石が不揃いだし、積み方も、乱暴な気がするのである。
林道からものの3分ほどで、廃屋傍の川岸の草原に降り立つ。
隧道は、ここから少し川岸を下流方向に引き返す。
なお、川岸の草むらは、両岸共に、牧草地のように芽が揃っている。
集落は消えても、今も手入れが入っているのかも知れない。
車通りがほとんど無い県道のガードレールが、対岸の草原に映える。
なんとも、のどかで、好ましい景色である。
ほんと、眠くなるよ。
背後の、闇が口を開けてさえいなければ…ね。
岩上隧道、葛巻側坑口正面の図。
河原の草原からおおよそ10mほどの掘り割りの奥、垂直に削られた崖の下に、半ば埋もれた開口部がある。
また、微かではあるが、草原側にも汀線ギリギリまで掘り割りが緩やかに続いている。
こうしてみると、やはり歩道の石垣が坑門とは無関係なものに見える。
「鉄道廃線跡を歩く」によれば、コウモリが多いらしい岩上隧道だが、坑口の様子は至って平穏。
崩れかけた隧道に平穏というのも、おかしな話だが、土砂の崩落は安定した形で止まっているようで、すっかりなだらかな半円形になった掘り割りのそこには、踝まで落ち葉が堆積している。
なんか、もう完全に “枯れきった” 廃隧道っぽい。
この東北鉄道鉱業、
開通後には、馬車鉄道を通わせるつもりであったらしい。
?!
である。
メインの路線である小鳥谷〜門〜小本ですら90kmを優に超える長さだというのに、馬車鉄道って…。
たとえ開通しても、あっけなく自動車交通に取って代わられたんだろうな…。
仮に馬車鉄道から蒸気機関車に変わったとしても、やはり存続は、なかっただろうけれども。
でも、メルヘンだよなー。
国鉄に買収されたりしていたら、なんて線名になったんだろうな?
考えるだけでも、ワクワクしちゃうな。
岩泉線も、盲腸線にならなかったかも知れないよね。
例によって、狭い開口部と、それに比してとても広々とした内部。
洞床は、3mも下の方に、一面の苔で緑に見える。
風も、音もない、静かな静かな、闇。
次回、
へんてこりんな内部へと、いざ進入!!
つづく
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