私も、ここにあると知っていて辿り着いた訳ではなかったので、発見時の興奮はかなりものであった。
しかし、まずは発見するのが大変だった。
そして、その後もまた…。
ご覧頂こう。
国道112号線は、昭和28年に山形県山形市と同県鶴岡市とを繋ぐ路線として指定された。
途中には霊峰:月山があり、険難な六十里越街道の路を元にしている。
昭和41年の月山道路開通で難所は解消されたが、その旧道は随所に残った。
この月山道路の一方の端である朝日村上名川に、今回紹介する隧道はある。
名川隧道は旧道にだけ存在し、これに対応する現道の隧道はない。
写真は、下名川で梵字川を渡る現道と、旧道。
これから進む上名川方向を背にして撮影している。
橋の名は新旧共に「早田川橋」。
現国道は昭和三十年代後半の月山道路建設に前後して一次改築された道で、旧道は概ね昭和初期に拓かれたものだ。
この旧早田川橋も昭和九年の竣工であるが、集落道として現役である。
これから紹介する一連の旧道(地図中赤線)の位置関係を確認しておこう。
現道が長瀞橋と中の橋の二橋で二度梵字川を渡るのに対し、旧道は山肌に沿って進み橋を設けていない。
この旧道の距離は僅か800m程度であり、多くの道路地図には平然と描かれているが、実際には大変な状況となっていた。
ここが名川隧道を含む旧道の分岐点である。
右が旧道で、分岐点には特に通行を阻害するものもない。
ただ、旧道のすぐ先には培土製造会社の建物や作業場が見えており、しかもブルドーザーが旧道敷き上に広げられた赤土を整理しているのが見える。
どう見ても、旧道はこの会社の私道として利用されており、ちょっと入りづらいムード。
事実、私は一度ここを断念し、まあ現道から旧道の様子が見えればそれでもイイかと、先へと進んだのだ。
現道を進むと、すぐに梵字川に架かる長瀞橋が、現れる。
飾り気の全くない長瀞橋は、いかにも高度経済成長時代の質実剛健な橋。
親柱すらなく、銘板なども見あたらない。
緩やかに右カーブする長瀞橋の先には、道の両脇に数軒の建物が密集している。
ここは、「道の駅月山」であり、また「月山あさひ博物村」というアミューズメントスペースになっている。
この長瀞橋から対岸を見て驚いた。
梵字川のなんと荒くれた流れ!
その色、まるで黄河かコロラド川だ。
この上流はダムの連なる県下有数の電源地帯で、必ずしも降雨量と水量は比例しないが、この探索日は丁度梅雨明け宣言が出された日で、昨日までの一週間以上、この地方では断続的な豪雨が続いていたのである。
この濁流も、納得できる。
そして、その谷を跨ぐ吊り橋には横断幕が掲げられており、「バンジージャンプ」の文字が見える。
実は、この橋「ふれあい橋」は、日本初のブリッジバンジー指定地なのだそうだ。
それよりも私が気になったこと。
それは、旧道の行方である。
先ほど分かれた旧道は、一体どこへ行ったのだ?
地図上では、あの断崖に沿って続いているはずなのであるが…。
気になっては仕方がない、戻って旧道へ直接アタックするしかあるまい。
そのあと、私が現道を少し引き返し、会社の引き込み道路と化した旧道を駆け、ブルで作業しているオヤジの視線をかいくぐり、社屋の裏手に辿り着くまでの動きは、さながらゴキブリのように素早かったと記憶している。
作業場と社屋は完全に旧道敷き上に建っていたが、脇に車一台分程度のコンクリの道が続いていて、奥は急な登りに消えている。
ちょっと旧国道としてはこの登りが不自然な気もしたが、会社に払い下げられた段階で地形が改変された可能性もあるだろうから、とりあえず奥へと進むことにした。
写真では、右の登りへ進むことになった。
左の下りは、作業場の真っ正面に出てしまい、確実に人目に付くので、避けた。
短い登りの先は平坦な場所で、丁度道幅も国道らしい。
ただ、未舗装で雑草が繁茂している。
廃材置き場の奥は、踏み跡すらない完全なる藪であるが、不思議と木はなく、かつての路面の施工が未だ影響しているものと思われた。
断崖を削って1.5車線分くらいのスペースが続いており、明らかに道の痕跡に見える。
凄い藪ゆえ、チャリを進めるか悩んだが、目と鼻の先には吊り橋が見えていて、あそこまで行けばなんとかなるだろうからと、覚悟を決めて、チャリと共に押し入ったのである。
かなり年季の入った廃道である。
路面は見えないが、足触りは土っぽい。
でも、ほんと土を踏める場所はほとんど無くて、密生した雑草を踏み付けた、何となく浮遊感のある足触りが主。
チャリは完全に邪魔で、押して進もうにも植物が絡まってしまう。
結局は、茹だるような暑さに汗を噴き出させながらの、担ぎプレーとなった。
行く手に希望(=吊り橋)が見えていなければ、絶対に進みはしなかった。
そう断言できるほど、酷い藪道だ。
間もなく現道は赤いアーチの長瀞橋で対岸へ。
この左岸には、私だけが取り残される形になる。
この状況は、かなり心細いものだ。
路肩はコンクリ製なのか、なんか直線的なようにも見えるが、路上の植物がかなり張り出しており、知らず踏み抜くのが恐くて、路肩には極力近づかなかった。
現道はここからよく見えるのに、現道からこの道は確認できなかった。
時期を選べば、そう言うことはないだろうが。
旧道上部の断崖は垂直で、しかも高い。
落石防止や補強工事などが成された痕跡もなく、全く自然のままに見える岩肌だ。
こんな場所によく道を通したものだと思ったが、現道への切り替えが必然であったことも、この崖の様子から感じられた。
道幅だけはしっかりとしているが、路上には大きな落石が散乱し、それをツタ植物が取り囲み、さらに雑草が二重三重と取り巻いている。
もはや、道の姿ではない。
廃道以下の、藪でしかない。
この調子では、私の根気が持つかどうか…。
路上は一面の雑草の原っぱ。
ああ、なかなか吊り橋は近づいてこないばかりか、徐々に藪は背丈と密度を増している。
このままでは、進むことはおろか、引き返すことすら窮することになるかも知れない。
チャリを放棄することを、真剣に考え始めた。
こんな苦労をしなくとも、吊り橋からアプローチすれば事足りるのではないか?
そう考え始めると、今の苦痛がもの凄く嫌になった。
結果的には、このアプローチなしでは得られぬ発見もあった訳だが…。
本当に、かつてこれが国道だったのか?!
そう問わずには居られない道の有様だ。
300mほど進んだだろうか。
まだ吊り橋には辿り着けず、ますます深くなる藪に、戦意を喪失しかけていた。
思うように進めない苛立ちもあって、思わず来た道を振り返った私が見たものは、全く予想していない光景であった。
なんと、私が苦労して進んできた道の下。
コンクリート製の法面が見えている。
否。
それは、ただの法面ではなかった。
見えるだろうか?
コンクリートに穿たれた丸い穴が。 同じような穴が点々と並んでいる。
そして、それらの奥の暗闇には、広がりが感じられる。
私が通ってきた場所は、実は…道ではなかった。
道は、足元の下に隠されていたのである。
旧道を覆う長大な洞門の天井を、私は道と勘違いして、進んでいたのだった。
次回、足元に隠された旧道の正体が暴かれる。
そして、意外な展開へ…。
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