大切おおぎり疎水道
銀山の繁栄を支えた、古き隧道
秋田県雄勝町 十分一
   院内銀山は、1600年代初頭に発見された日本有数の銀山であり、佐竹藩の重要な財源の山であった。
一度衰退するも、1800年代はじめ再び活況となり、ピーク時には、1万5000人が暮らす、久保田城下(いまの秋田市)を凌ぐほどの繁栄を見せた。
明治に入り近代化されると、さらにそのの産銀量は増大し、わが国第四位の銀山となる。
しかし、大正に入る頃には、金本位制度の台頭などにより著しく銀価が暴落。
各地の銀山と同様、衰退の一途を辿ることとなる。
昭和に入ってからも採掘は続いたが、遂に昭和29年、全山休山が宣言され、その350年間の歴史に終止符が打たれた。

 その院内銀山跡地も、今では住む者の一人とない。
数万人が暮らした巨大な都も、いまや、鬱蒼たる山野に還り、当時の面影を残すものは、何もない。
そこに、生あるものの気配は、ない。

 はじめにお断りしておくが、院内銀山跡の一帯は、県内有数の心霊スポットとして知られたる場所であり、全国放送のTVなどでも取り上げられている。
だからというわけではないのだが、そして廃墟一般どこもそうだが、探索は完全に自己責任となる。
正直、余り気の強くない人には、お勧めはしない。 無神経なくらいがちょうどよい、と思う。
 誤解の無い様に書き足すが、わたしは、超常現象に遭遇したことはないし、幽霊の類を信じない。
しかし、特殊な過去を持つ土地が纏う、ある種の空気が、人の精神に影響することは否定しない。
過去数百年間にわたり、膨大な人々の喜怒哀楽が染み付いたこの地に、私は、どうしても陰鬱な何かを、感じずにはいられないのだった…。





 私が、この日、院内銀山跡に立ち寄ったのは、気まぐれであった。
国道108号線松ノ木峠旧道を攻略する目的で十分一沢沿いに国道を辿る途中、何度か銀山についての案内看板を目撃した。
そのうちに廃好きの血が騒ぎ出し、時間の猶予は無いにも拘らず、少々の寄り道と相成ったのである。

 国道を辿るうちに、最初に遭遇した“廃”モノが、この石橋である。
直ぐ近くに説明書きがあったので、この橋についていくつかのことを知りえた。



 この橋は、山市橋という。
昭和6年竣工で、一帯で現存する唯一の永久橋。
昭和45年までは、道はここで対岸に渡っていた。
 時間もおしていたので、この先には進まなかったのだが、案内板によると、数キロ奥には、長倉変電所跡があり、今でもその土台が残されているらしい。
国道の直ぐ脇にあるにも拘らず、渡る者も殆ど無いようで、ご覧の通り、橋上まで叢と化している。
ここに案内板が無ければ、きっと、私も気が付かなかっただろう。
…そんな小さな、廃橋であった。






 さらに数キロ国道を進むと、水量に比べて頑丈に護岸された十分一沢に、一本の木橋が見えてくる。
この橋の袂に、またも案内板が立っており、そこには、今回の主題である『大切疎水道』の名があった。
たぶん、ここもこの案内板の内容に目を留めなければ、私によって探索されることも無かったであろう。

 で、この疎水道というものが、どうやら隧道状のものらしいと案内版の内容から考えた私は、直ぐ近くらしいその場所に行こうとしたが…。
対岸にあるそこへ行くには、絶対にこの橋しかない。

 運を天に任せた私は、ここを、恐る恐る突破。

 幸いにして、橋は持ち堪えてくれた。
さすがに、チャリは国道においてきたが。


 橋を渡ると、そこは十分に成長した杉の林であり、人工物があるようには思えなかった。
しかし、あたりをよく見ると、50mほど先は、崖で森が遮られているのであった。
そして、その崖の一角に、 穴が見えた。

 その穴は、遠目に見て、想像していたような人工的な隧道とは思えなかった。
自然に出来た洞穴か、せいぜい古代人のあなぐら住居のような感じに見えた。
写真でも、正面の崖にその穴は写っているいるのだが……気が付かれただろうか?

 そしてもう一つ、穴の調査に入る前に、この石柱が気になった。
写真にも写っているが、石柱は二本確認された。
一本は新しく、平成に入ってからのものと思われた。
もう一本は、苔生しており、相当の年代物のようである。
 この石柱に記されていたこと。
それは、この場所が『明治天皇御野立所』であるということだった。
明治14年の、院内銀山御巡幸の折、明治天皇が立ち寄ったということらしい(=御野立)
 この院内のそこかしこには、このときの御巡幸にまつわる物が残されている。
この後に立ち寄った、院内銀山五番坑も、やはりこの御巡幸の後に『御幸坑』と改称された経緯がある。
また、この御巡幸がなされた、9月21日は、国の鉱山記念日にも指定されている。
この銀山が如何に重要視されていたかを物語る、エピソードである。



 近づいてみても、やはりそこには、小さなあなぐらのあるのみであった。
じつは、近づくのも難儀した。
穴の前の10mほどの地表は、洞内に溜まった水が浸潤して出来たらしい湿地帯になっていて、慎重に歩を進める必要があった。

 ここで、入り口にあった案内板から得た、この疎水道についての知識を披露したい。

 大切坑(大切疎水道)は、1707年に切り開かれた水抜き坑。
五番坑(現在の御幸坑)に続いており、その延長は1644mある。
これは当時としては大事業であり、この開通によって、坑道内の水抜きは格段の進展を遂げた。
また、後には鉱石運搬道としても利用された。

 この疎水道を、当ページで取り上げる他の隧道と同列に扱えるものか悩んだのだが、一時期鉱石運搬道として利用された“道”としての歴史を踏まえ、また、次にいよいよ紹介する内部の様子から、紹介すべきと判断した。




 小さな穴を覗いてみた。
そこには、予想以上に広い空間が見えた。
ぞっとするような、闇が、そこにあった。

 実は、坑口上部の岩石が崩れ、半ば埋まっていたためにこのように小さな穴に見えていたのだ。
補強用と思われる鉄のアーチの描く弧の大きさが、かつてここを、人のみにあらず、鉱石を満載したトロッコも行き来したであろうということを、教えてくれた。
奥行きは不明。
隧道路面も、なぜか見えない。
路面が見えるはずの場所には、闇があるのみだった。

 「これ以上は絶対危険」
分かっていた。


私は気が付くと、瓦礫の斜面を下っていた。

洞内に向かって…。





 3mほど、崩れやすい斜面を下った。
目に入ってきた景色は!

 と、その前に、背後の様子を見ていただきたい。
とにかく、生きた心地はしなかった。
幸いにして、これ以上奥に進むことは出来なかったのだが。


 それでは見ていただこう。

これが、1707年竣工、大切疎水道、内部状況である。







 そこには、満々と水がたたえられていた。
懐中電灯の明かりで照らし出されたその先には、扉のようなものがあるようにも見えたが、ハッキリとはしない。
そこは、坑道のそのままの姿であった。
幅2m、高さ…水没部分を含め推定1.5m。
支え木の多くは、朽ちて水中に没し、殆ど素彫りのままの、坑道であった。

 もし私にケイビングの知識や技術、準備があったなら、絶対奥に行ってみたかった。

 否。
ここは、勘弁。
ここは、ちょっと、空気が重過ぎる。
300年間の、時の重さは、今の私では、…受け止められない。




 脱出。

侵入延長、僅か2m。

 総延長は、1644mもあるという…、いや、その先も坑道なのだから、もう、あの穴の奥は、地底しかありえないような気がする。
しかし、私はもし地下水に阻まれなければ、どこまで行っていたのだろうか?
懐中電灯一本で…、
きっと…。
きっと、どこまでも行っていたに違いない。
勇気でも、蛮勇ですらも無く、多分それは、 魅入られて…。

そのことに思い至ったとき、震えた。


杉の木立から降り注ぐ日光が、暖かかった。
心の底より、ホッとした。

   大切疎水道

竣工年度 1707年  延長 1644m
幅員    約2m      高さ 推定1.5m
現状 昭和初期ごろ放棄されたと思われる。 その後水没し、廃道となる。



2002.11.29

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