国道128号旧道 浜隧道(仮)  前編

探索日 2009.3.19
公開日 2009.8.17

平成21年3月19日は終日、房総東海岸を縦貫する国道128号の旧道巡りに費やした。
鴨川を夜明けと共に出発し、どこまで行けるかは敢えて問わずにひたすらに東進。
夕暮れまでに、いすみ市大原へとチャリを進めることが出来た。その後は外房線を輪行してこの日の探索を終えたのだった。

もちろん「旧道巡り」であるから、少しは準備がある。
事前に入手した明治末の5万分の1地形図を元に、最新の2万5千図に現国道と異なるラインを赤ペンで書き込み、それをプリントアウトしたものを頼りに旧道を巡り“走る”のだ。
ただ、基本的にこの方法だと地図に現れないほど小さなルート変更以外の見落としは無いが、レポートとしては映えない市街地の旧道にも多くの時間を割くことになる。
よって、ネタ収集という意味では決して効率的ではない方法だが、それでも私はこの手のロングスケールな旧道巡りが大好きである。
ピンポイントの探索では味わえない「旅感」が得られるし、緩急のある探索は精神的にもリラックスできる。



午前中のハイライトとして「おせんころがし」を満喫したあとは、勝浦市域をロングランした。
この「鴨川〜大原」間の旧国道巡りを行うと、両手で数える以上の「明治隧道」(千葉県内に385あった明治隧道のうち)に出会えるが、このうち廃隧道は2本だけである。
そしてそのうちの一本が、今回紹介する隧道であり、勝浦市と御宿(おんじゅく)町の境に眠っている。

【周辺図】

正式名称が不明であるなど素性に謎の残る廃隧道だが、外見的にも大きな特色があり、印象深い。

初めてこの隧道を見る誰しもが、その姿には多少なりの畏怖を覚えると思われる。




先に「正式名称&素性不明」だと言ったが、明治36年には既に存在したことが旧地形図より明らかだ。
また、「歴史的農業環境閲覧システム」で見ることが出来る「迅速測図」にはまだ描かれていないので、明治19年以前には存在しなかった可能性が高い。

さらに、お馴染み「道路トンネル大鑑」(昭和42年)によると、現在の海岸沿いの国道は昭和39年に最後のトンネルが開通しており、その頃までは旧道が国道として使われていただろうと推定できる。

そして、「平成16年度道路施設現況調査」には、御宿町の管理する隧道の一つとして、現国道にある隧道に引き続いて次の一行がある(原本は主に記号による表記なので、分かり易いよう表記を改めている)

一般国道128号(旧道) ムメイトンネル(ハマ)
 (昭和20年竣功 全長62m 全幅5.3m 高さ4.0m)

トンネル名は、「ムメイトンネル(ハマ)」の表記だが、これは御宿町大字「浜」にある無名のトンネルだと言い換えられるだろう。
つまり、正式な隧道名不明なので、「浜隧道」と仮称することにした。
また、竣功年が表示されているのも注目に値する。
明治時代の地形図に現れている隧道だが、ここでは「昭和20年」とされているので、その時期に(おそらく軍事的な意義を持って…)改築されたのだと想像できる。


間接的なリスト調査を組み合わせることで、“外堀”はだいぶ埋めることが出来た。
つまり、明治20年頃〜36年の間に開通し、昭和20年に改築されて、同39年頃に旧道化した隧道だと推定できる。
しかし「御宿町史」や「勝浦市史」などに、この隧道に関する記載が無く、開通に至る経緯や正式名称が分からないと言うことでは、なお「素性不明」と言わねばなるまい。

当然、既に廃止されていたことなど、現地へ着くまで知るよしはなかった。




白亜の橋のその先に…


2009/3/19 14:00 《現在地》

今日何回目の「旧道入口」だろうなぁ?

あの「おせんころがし」の他は、旧道といっても意外なほど現役率が高い国道128号。
そろそろ“午後の一発目”が欲しいなぁなんて、そんな気持ちも少しあったと思う。

半日付き合った勝浦市とも、この先の峠(隧道)でおさらばだ。
ここには、房総の市町村境にはほぼ確実にある丘陵性の山並みが海岸線まで迫っている。
現在の国道はそれを4本のトンネルで抜けており、この位置からも一本目の「東魚見トンネル(昭和39年竣功)」が見えていた。




1.5車線幅くらいの旧道に入ると、すぐに短いコンクリート橋を渡る。

このすぐ海側を現国道が築堤で越えており、それより低いところにある橋はインパクトに乏しい。
せっかくの親柱にも一切銘板が見あたらず、存在感の薄さは如何ともしがたいところだ。

しかも旧道へ入ったつもりが、橋の先はシームレスに市の衛生処理場の駐車場になっていた。




しかし、どう見ても橋の作りは旧国道らしい。
古地形図の線形とも一致している。

どうやら、旧道上に衛生処理場が建ってしまったらしい。
廃道は廃道でも、こういう転用は楽しさに結びつかない。

とりあえず衛生処理場脇の空き地を通って、旧道のあるべき位置を可能な限りトレースする。




14:03 《現在地》

敷地を横切り、地形図に描かれた道へ抜けた。

しかし、この抜け出た先の道もまた、衛生処理場の正門へと続いている。

あのコンクリート橋の続き、旧道の続きは…、いったいどこだ?


もしや、正門手前にある…、未舗装の小径か?




ちょ? これ??
マジで?

いままで半日以上国道128号の旧道を辿ってきたけど、旧旧道だったところを除けば、未舗装は初めてだぞ?

なんか轍も頼りないし、いまにも藪に覆われた劇的な廃道になりそうな…悪寒。


…でも、

確かにこの道はただの林道とかじゃないみたいだ。

道路状況表示板がある…。




…朽ちてるけど……

とても朽ちてるけど、「道路情報板」に間違いない。

今日ここに来るまでにも何度も見ている、おそらく外房一帯では標準的な(そしてレガシーな)道路情報板。

きっとこれは「土木事務所」の備品だから、つまり国道や県道であることの間接的証拠。

一体いつからここにあるんだ…?
看板前の前にある道からは、国道としての「現役時代」が全く想像できないんだが…。

それに、ワナ注意は、道路情報なのか…?




国道としての「現役時代」が全く想像できない道…。

“荒れている”というのとは違う。

この景色をいくら脳内で巻き戻してみても、真っ当な国道のイメージには重ならない気がする。

ここがそもそも「酷道」と呼ばれるような、もっと険しい山岳地帯の交通量も少ない…、名ばかりの国道であったのならば、それでも驚かなかったろう。

だが、私が「外房の幹線国道」に対して持っているイメージと、この風景とは、あまりにかけ離れていた。

旧道であっても、せめて舗装くらいはあると思っていた。




一応、不慮のワナに注意しながら進む。
トラばさみとか、落とし穴とか、吊り天井とか、ミミックとか。

すると、予想通り…

衛生処理場から250mほど進んだ地点で、四輪車が通れない“藪”が現れた。

元車道であった旧国道を語るにおいては、完全に「廃道化している」と言って良い場面。

最新地形図にも大概の市販地図にもこの旧道は描かれているが、予想外の廃道遭遇となった!





ワナ発見!
イノシシあたりを狙っているのか、よく見るヤツだ。
幸い、私が掛かることはなかった。


この先は、法面が崩れて道幅の大半を埋めているようだ。
おそらくは、そのために廃道なのだ。
これさえ抜ければ、回復するかも。




土砂崩れ自体はたいした規模ではなかったが、それを抜けても廃道から回復することはなく、何年も車が通っていなさそうな灌木混じりのススキ藪となった。

房総の植物生育の旺盛さを考えれば、この時期に来たのは正解だった。
おそらく夏場は、相当に視界不良になるはずだ。

そのまま200mほど、自転車を押したり、軽く跨ったりしながら進んでいくと、ススキの隙間に徐々に白いモノが見えてきた。
褐色の中、異様に白い何かだ。

人工物であることは間違いないが、その正体を理解したのは、相当に近づいてからだった。




それは橋! 廃道らしからぬ、
純白の跨線橋だった!

そうだ。
確かにここで線路を跨ぐように描かれている。
【地図(現在地)】

そもそも廃道を予期していなかったし、廃道になった時点で今度は、「峠の隧道は廃隧道なのか?」という事案に考えが行って、ずっと地図を疎かにしていた。

この橋は、予想外の収穫物だった。良質な。




なぜこんなに白いのか?

白い素材…石灰石…で出来ているわけではなかった。
それは、明らかにペンキで塗った白だ。

では、何の必要があって?

多分これは“道路側”の理屈ではなく、下を潜る「JR外房線」の仕掛けではないかと思う。
おそらくは、外房の観光的車窓の情景として。

普段なら、真っ先にこの手の装飾は切り捨てる私だが、珍しくこの橋には「似合っている」と思った。
少々どぎついのは確かだが、ススキやツタに覆われた白くひび割れた廃橋が架かっているよりは、絵になると思った。
“海”へ向かう鉄道としては、いい。

それに、構造自体の面白さも私を惹きつけた。
おそらくは廃レールを鉄筋代わりにした5本足のY型橋脚によるラーメン橋。
国道をも支えた重厚な構造物が、持ち前の“白さ”によって、面白い軽やかさに転じていた。




14:11

やっぱりそれは、廃道にある廃橋だった。

こんなに白いはずなんて無い、廃橋。

しかも、白く塗られているのは外側がメイン。
橋の車道側は、本来のコンクリートが露出している。

そして、橋と言えば銘板が見たい。
だが、この橋に銘板はなかった。
残念ながら、橋の名前も竣功年も分からずじまいだ。




橋上の様子。

空から土が降ってくるはずもないのだが、橋の上は芝生(じゃないけど)の装い。

この橋は登り坂の途中に一旦勾配をリセットするように架かっているので、先の路上から流れ込んできた土砂なんだと思う。

橋の幅はギリギリ2車線分あるとはいえ、前後の取り付けが何れも余裕の少ない(特に峠側)直角カーブなので、現役当時は大型車などとのすれ違いには苦労しただろう。
隧道の状況はまだ不明だが、この橋一つをとってもかなりの悪線形であり、現道開削の口実になったことは想像に難くない。


さて、せっかくだから、橋の下でも覗いてみるか…。

まずは、峠の反対側…。






スゲー直線だな!


地面が割れてっぞ。




旧国道は、左の凹んだあたりを登ってきた。
あまり目立つ地形ではないが、峠の隧道まで旧国道は天然の沢地形を遡っていくようになっている。
それが、この鉄道の凄まじい掘り割りによって、完全に分断されている。

道ばかりでなく、沢までも。

房総における土木は、何をとっても他地域より一回りずつスケールが大きい気がする。
特に古いものほどその傾向は強い。




今度は峠の方向。

飛び込んでくる赤。白の先の赤。紅白?
その正体は、トンネル王国の房総でも数が少ない煉瓦隧道だ。

煉瓦… か。
外房線っていつから有るんだっけ?

「国鉄房総線」と呼ばれていたこの鉄道が、大原〜勝浦間を延伸開業したのは大正2年である。
つまり明治最後の工事だったわけで、煉瓦隧道があっても不思議はない。

なお、この旧国道が向かう先は、左の鞍部の下である。




14:13

跨線橋の先は、さらに藪が深くなった。

日陰の笹藪は、いまにチャリを担ぎ上げなければ進めないような“陰湿な藪”が現れるのではないかと、そう心配させた。
幸いにしてそこまで状況は悪化しなかったが、房総の藪の恐ろしさを知る一人として、精神力を削られた。

この落ち込んだテンションを取り戻させるような隧道に期待したいが…。




本編の前書きで述べたとおり、この道は昭和39年頃までは国道128号として、外房随一の幹線を張っていた道である。

それが廃道になっているという一事に驚きはしないし、荒廃の度合いもまあ平凡と言って良いだろう。
しかし、現状から振り返って現役時代を想像すると逆に驚きを覚えるのは、いったいどういう事だろう。

跨線橋の前あたりでも同じ事を思っていたが、舗装はもちろんとして、ガードレールも標識も、石垣やコンクリートの擁壁も路肩工も、近代道路にありそうな道路構造物が、ほとんど見あたらないのである。
ここまであったのは、道路情報板と立派な跨線橋だけ。
側溝さえ無いというのは、明治道以下ではないか。




違和感に思いを巡らせながら、平身低頭で藪を潜って行くと、


やがて、


前景が閉塞した。









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